夏休み小話




 ランドセルに放り込んだままの、ペンケースから自分のものでないシャープペンを見つけたのは、七月の末のことだった。
「あー!!」
 大声をあげた大輔の肩にチビモンがちょこんと乗ってくる。
「どうした、大輔?」
「これ、ヒカリちゃんから借りっぱなしになってたやつだ」
 パールブルーのペンに大輔は笑顔を浮かべた。
「返しに行かなくちゃなー」
「大輔、嬉しそう」
「だって、これっていい口実だろ」
  鼻歌を歌いながら、早速家を出る。
 じりじりと体を灼く太陽の光も何のその。チビモンはぐったりしているが、大輔は元気そのものだ。
 あっという間に八神家のドアの前に立った大輔は、チャイムを押す。
「よー、大輔」
 確認もせずにドアを開けたのは、太一だった。
 スリーブレスのTシャツに短パンという部屋着に、タオルを首からかけている。
「どうしたんだ?」
「ヒカリちゃんに会いにきたんですけど」
「ヒカリなら、母さんと買い物に行っている。バーゲンしてるからってさあ……」
 太一は顎をしゃくった。
「上がれよ。外、暑いだろ」
「上がろうよ、大輔ー」
 チビモンが大輔の肩の上で騒ぐ。
「チビモンも一緒か。何か冷たいもの出すよ」
「じゃあ、ちょっとお邪魔します……」
 降って湧いた幸運に、どぎまぎしながら大輔はサンダルを急いで脱ぐと部屋に上がった。
 ソファーの側に扇風機が回っている。太一は冷蔵庫から、麦茶を取り出すとグラスに二つ注いでやった。チビモンが小さな体を使ってグラスに口を付ける。ほとんど一息に飲み干した大輔のグラスに太一はまた注いでやった。
「ヒカリに何か用か?」
「あ、ペンを返しにきたんです」
「そっか」
「先輩……」
「ん?」
「焼けてますね」
 太一の腕や肩を見て、大輔は驚いたように言った。
「だろ? 練習があるとどうしてもなあ……」
 まだ夏も始まったばかりというのに、かなり黒くなった腕をさすって太一は笑った。
「ヤマトなんか焼けるよりも赤くなるだけなんだけどな」
 太一はちょっと時計を見上げる。
「もう昼か」
「そう言えば腹減りましたね」
「何か食ってくか」
 太一は立ち上がる。
「いや、いいっすよ」
「いいよ、一人作るのも二人作るのも同じだし」
「オレの分も!」
 チビモンが騒ぐ。太一はうなずいた。
「わかったって」
 冷蔵庫を探って、キュウリやハムや卵を出す。
「後は、麺があったはず……」
 鍋に水を張り、火をつけた途端にキッチンが暑くなった。太一はタオルで汗を拭って、大輔を振り返った。
「大輔、悪いけど扇風機こっちにも向けてくれ」
「あ、はい」
 ソファーの側の扇風機のコードを伸ばして、太一の方に向ける。
「いいですか」
「うん、サンキュ」
 太一の側に行こうとして、ソファーの上に伏せられたままの文庫本が目に入った。
 ふと興味を覚えて、本を手に取った。
「それ、光子郎に借りたんだよ」
 太一が卵をかき混ぜて、フライパンに流し込む。手早く薄焼き卵を作りながら、大輔に説明する。
「おもしろいんですか」
「けっこう」
 大輔もこのタイトルの本は図書室で目にしたことがある。
 太一はできあがった薄焼き卵を冷やす。その間にキュウリとハムを千切りにする。
「読んでていいぞ」
「大輔、オレにも見せて」
 チビモンが大輔の肩越しに本を覗く。
「字がいっぱい。大輔、読める?」
「ば、バカにするなよ」
 オレだって、これくらい。大輔はソファーにもたれかかって、読み出した。
「シーツの間に――?」
「チビモン、うるさい」
「だってー」
 太一が一人と一匹に聞こえないように笑った。
 その間にも麺を茹で、水で冷やす。皿を三枚出して、手際よく盛りつける。
「出来たぞ」
 箸を並べて、太一が声をかける。
 探偵の謎解きの説明部分に没頭していた大輔がはっと顔を上げた。
「な、けっこうはまるだろ」
 すでにチビモンはテーブルの上に座っている。
「太一、これうまい」
「そっか」
 麺を啜りながら、太一ははチビモンに笑いかけた。
「大輔も来いよ」
「はーい」
 本を置いて、大輔も食卓に座る。
 太一が作っていたのは冷やし中華だった。
「料理、上手いっすね……」
 きれいに盛りつけられた皿を見て、大輔がつぶやいた。
「これは料理っていうのか?」
 太一は笑って、自分も箸を取る。
「ヤマトの方がもっと上手いもんな」
「……へえ」
「本当だぜ」
 太一はちょっとムキになった。
「別に疑ってるわけじゃ……」
「あ、そうだよな」
 太一は照れたように笑って、また食べ始める。
 なんだか複雑な気持ちになって、大輔はキュウリを食べた。
 食べ終わって、今度は居間から太一の部屋へ移動する。
「エアコンつけるか」
 むっとした熱気に太一はうんざりしたような顔でリモコンを取り上げた。
「大輔、何か用があるか?」
「いえ、別にないです」
「じゃあ、ゆっくりしていけな」
 太一は大輔に居間から持ってきた本を渡してやって、ちょっとあくびした。
「大輔、悪い。俺ちょっと寝る。やっぱ夜更かしすると次の日きついなあ……」
 タオルケットを出して、太一は言った。
「暇だったら、そこら辺の本とか読んでていいから」
 太一は枕も取り出して、床に置いてから、
「つまんなかったら帰ってもいいし、ま、好きにしててくれ」
「はーい」
 すでに本を開きかけていた大輔はうなずいた。
「宿題やっててもいいんだぜ、大輔?」
 太一の言葉に大輔はうんざりしたような顔になった。
「いいですよ……」
 チビモンは笑う太一の横に潜り込む。
「お前も寝るのか?」
「うん」
 だって大輔相手にしてくれないもんとチビモンはつぶやいて、目を閉じる。太一はチビモンと大輔に視線を送ってから、自分も目を閉じた。
 最初はチビモンから、次に太一から寝息が洩れだしたが、頁を繰るのに夢中に大輔は気が付かなかった。
 短い話ばかり集めた本だったので、とりあえず一話読み終わって、大輔は顔を上げた。
「もう寝てる……」
 チビモンと仲良く寝息を立てている太一。
「夜更かしって何してたんだろ?」
 太一の側に近づいて、大輔はため息をついた。
「ちょっとは気にして下さいよ、先輩」
 自分の隣で寝息なんて立てないで、警戒してくれたっていいのに。
 太一の手を握ってみて、大輔はもう一度本に目を落とした。
(俺って意気地なし)
 キスするくらいの大胆さがあればなあ、と思いつつ、太一の寝息をBGMにまた本を読み始める大輔だった。

「あ?」
 寝とぼけた声とともに太一は起きあがった。
「ヤマト?」
 つぶやいて、我に返る。ここは自分の部屋だ。ヤマトが居るわけがない。
 夢の中のヤマトとタケルがあまりにリアルで思わず、現実と混同してしまった。
 頭を掻いて、チビモンにタオルケットをかけてやる。
 相棒はどうしてるかなと大輔に、声をかけてみると、くーくーと寝息が聞こえた。
「寝ちゃったのか」
 太一はそっと起きあがって、大輔にもタオルケットをかけてやった。
「全部、読んだのか?」
 本を取り上げて、太一はぱらぱらとめくる。
 自分も読みかけだったので、思い出した場所でめくるのを止めて、読み始める。
  探偵が犯人を追いかけている辺りにさしかかったところで、ぽんと肩が重くなった。
「ん?」
 目を大輔にやると、大輔がもたれかかってきている。
 どうしようかと見ている内にどんどん頭がずれて、太一の膝にまで落ちてきてしまった。
「しょうがねえなあ」
 太一は苦笑して、大輔の頭と体を楽なようにちょっと動かして、また読書を続けた。
 部屋が涼しければ、セミの鳴き声も別にうるさくは感じられない。大輔が目を覚ますまで、太一は大輔に膝枕したまま、本を読んでいた。
「んー」
 寝返りを打ちかけて、大輔はぎょっとした。 「わっ!」
「あ、起きた」  チビモンが大輔の体をよじ登って、顔を見せる。
「おはよう、大輔――」
 大輔はチビモンの顔の隣にある顔に声を上げた。
「た、太一先輩!」
 まさか、こんな近くに太一の顔があるとは。
「やっと起きた」
 太一は笑って、大輔を見下ろしている。
「俺の膝枕、そんなに気持ちよかったか?」
「い、いやあの……」
 驚きのあまり、大輔は言葉に詰まった。
「男の膝って固いと思ったんだけど、違うのかな」
 太一は大輔をからかいながら、大輔の頭に手を置いた。
「もういいか?」
「すみません!」
 あわてて起きあがって、大輔は転けそうになった。
「何やってんだよー」
 チビモンが呆れたように言う。
「太一先輩、すみません」
「気にするなよ」
 太一は立ち上がって、屈伸を軽くした。
「俺、帰ります」
 なんだか恥ずかしくなって、大輔はチビモンを抱えた。
「ヒカリに会っていかなくていいのか?」
「また今度でいいです!」
「おい、大輔」
 太一の声を聞こえないふりをして、大輔は部屋から飛び出した。
 太一は追いかけようとしたが、ちょうど電話が鳴ったのでしょうがなく取り上げる。
 電話を取って、太一はちょっと唇をほころばせた。
「ヤマト」
 その声の調子に大輔は開きかけた口と前に踏み出そうとした足を止めた。
「だいす……んぐっ」
 チビモンの口を押さえて、太一の嬉しそうな声の調子に耳を澄ます。
「うん――ああ、別にいいよ。え、俺? いや、家にいたけど……。大輔が来たくらいで……なんだって?」
 太一がため息をついた。
「飯を一緒に食べただけだって。何、考えてんだか知らないけど、止めろよ」
 やきもちをやいてるのかな、とヤマトの顔を想像して、大輔はちょっと胸がすっきりした。
「――そりゃ分かってるけど、しょうがねえだろ。お前だって忙しいんだし――え?」
 太一の顔が赤くなった。こっそり覗く大輔は眉を寄せた。
「バカ、そんなこと何で……だから、そういうわけじゃないって」
 太一が電話を持ったまま、大輔に背を向けた。うろうろと動き回る。
「そんなこと電話で言える訳ないだろ。ヤマト、勘弁してくれよ――」
 嫌な予感がした。さっさと帰ればよかったのに、太一の声が飛び込んでくる。
「え、おいおい……。わかったよ、一回だけだからな?」
 太一の声がちょっと小さくなった。
「お前のこと好きだって……」
 聞いたことが無いほど、恥ずかしそうな声。照れ隠しに次の言葉は大きくなる。
「これでいいだろ? ……バカ、一回だけだ。もう電話切るぞ?」
 太一は受話器を乱暴に戻して、ため息をついた。
「まったく、ヤマトのやつ……」
 太一がくるりと振り向く。その顔が赤くなった。
「大輔!」
「さようなら!」
 今度こそ、太一の家を後にして、大輔はチビモンを抱えたまま全力で走った。息が切れて、力が続かなくなったところで、足を止める。
 チビモンが心配した声を出す。
「大輔、元気ないぞ」
「そうか?」
 ため息が洩れる。あの太一の恥ずかしげな、好きだという言葉が自分に向けられていたら、どんなに嬉しいだろう。
「あーあ、もう!」
 幸運な日なのか、不幸な日なのか分からない。
 足下の小石を一つ、蹴っ飛ばして大輔はポケットに手を突っ込んだ。
 肝心のシャープペンをポケットに入れたままだったのに気が付いて、ポストにでも入れておこうと戻ってきたのだが、そのせいで あんな立ち聞きをしてしまった。
「ちぇっ、なんだよ」
「大輔ー」
「どうせ、俺は後輩ですよ!」
 チビモンを乱暴に肩に乗っけて、大輔は言った。
 夕焼けに向かって歩きながら、大輔は今日一日の最後の、そして一番大きなため息をもらしたのだった。

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