雨の日に
2



 泡を目に入れながらも、互いの髪をすすぎ、最後の仕上げにまたお湯をかぶる。子犬のように太一は首を振り、かかった雫にヤマトは黙って顔を拭った。
 今のはよけようと思えばよけられた。頭からお湯をかぶった太一の目線がどこか危うく、それに見とれた自分が悪い。
 湯船に入ろうとして、足を滑らせた太一を支えて、ヤマトもお湯に浸かる。お湯はちょうどよく減っているので、多少こぼれただけだ。
 肩まで浸かると、入浴剤の香りが鼻をくすぐって、ヤマトは長いため息を出した。
「爺さんみたいだな」
 それがヤマトの満足のため息を聞いた太一の感想だった。
 ヤマトは指を組み合わせると、水鉄砲で太一の顔に湯をかけた。
「俺もやる」
 太一はヤマトの手つきを真似て、お湯を飛ばそうとする。手のひらに空気を入れるのがこつなのだが、ヤマトのようにはいかない。
「へたくそ」
「うるさい。……こうして、こうだろ。あれ?」
 呆れるくらいの熱心さを見せる太一の手を取って教えてやりながら、これは父に教わったのだと思い出した。のぼせるまで、湯船に浸かり、天井めがけてお湯を飛ばしたのだ。
 あの頃はタケルもいた。ふらふらになって親子三人風呂から上がれば、母が笑いながら、タオルを持ってきてくれた。
「あ、できた」
 太一が得意げにヤマトの顔をめがけてお湯を飛ばす。手で顔をかばって、ヤマトは良かったなと微笑した。
 太一が手をほどいて、ヤマトの顔を覗き込む。
「どうかしたのか」
「……別に」
 どうして太一には分かるのだろう。それでもごまかそうと微笑を深くした。
太一の目がもっと真剣なものにかわる。
「お前、すぐ顔に出るんだよな」
「お前だって――」
 ちゃぷんとお湯が揺れて、太一が寄りかかってきた。その体に押されて、ヤマトは壁に背を預ける形になった。
「なに考えてたんだよ」
 太一が肩に顔を乗せてくる。ヤマトは浴室にたまる蒸気を見上げた。
「……どうして水鉄砲ができないんだって考えてた」
「俺が?」
 それには答えず、ヤマトは太一を抱きしめようとした。太一は身をよじって、ヤマトの手を避けようとしたが、狭い湯船の中だ。
 太一を背後から抱きしめると、ヤマトは太一を閉じこめるように腰にしっかり腕をまわし、手で枷を作った。
「やっぱり怒ってるのか」
「何を?」
 濡れた髪の間からのぞくうなじをヤマトはぼんやり見つめた。
「俺がメールでしか連絡しなかったから」
「ちょっとむかついた」
 うなじに唇で触れたく、同時に口づければ太一が逃げていきそうで、ヤマトは腕に力を込めた。
「だって電話だったら、お前絶対、学校まで来てただろ」
 作った手枷が水で滑り、ほどけていく。
「当たり前だ」
「俺さあ……」
 太一の体がゆっくりと沈んだ。顎までお湯につかると、太一はつぶやいた。
「お前が濡れるより、家でお帰りって言ってくれた方がいい」
 呼吸のせいで水面が揺れ、声はくぐもってはいたが、しっかり聞こえた。
「俺は太一だけ、濡れて帰ってくるなら、迎えに行く方がいい」
 お湯が跳ねて、太一は顔を半分湯の中に沈めてしまった。
「一人で待つのは……つまんねえよ」
 ぼこぼこと泡が上がる。太一は何か言っているらしいが、口がお湯の中では言葉にならない。
 見ている内に太一は全身を湯に沈め、ヤマトの視界から消えた。
 まばたきを一回すれば、太一はすぐにお湯から姿を見せ、ヤマトは少し高い場所にある濡れた太一の顔を見上げた。
「つまんなかったのか」
 太一の眼差しに、言葉の裏にある心を見抜かれていると感じた。
「つまらなかった……」
 ――だから寂しかったと言わなくても良かった。
 言えないのでもなく、言わないのでもない。 言葉にせずとも、まるで魔法のように、太一はヤマトの心を悟るときがある。
「ヤマト」
 太一の目を見つめ、ヤマトもその心が分かった。こんなに想われている。自分も、もっと、心のすべてで太一を想いたい。
「ごめんな――」
 太一の髪から落ちた雫が目に入った。水が目に染み、瞳を閉じる。
 ふたたびまぶたを開けば、太一の顔がすぐ近くにある。
 もういいと言う前に、太一の唇が口を塞ぎ、たった今開いた目をヤマトはまた閉じた。
「親父さん、いつ帰ってくるんだ?」
 首筋に触れるヤマトの唇に呼吸を荒げながら、太一はささやいた。
「……そんなに早くないと思う」
 答えながらも、ヤマトは濡れた太一の肌に、歯形を残す。
「声、響きそうだ」
 太一はそっとつぶやき、手を伸ばした。
 お互いの息づかいと、肌に口づける濡れた音しか聞こえなかった浴室に、激しい水音が混じる。
 蛇口を捻った手をまたヤマトの首筋に絡め、太一はヤマトの額に唇を押し当てた。好きだと言いかけ、代わりにヤマトの名を口にする。今日はそれでいい。
 胸まで降りていたヤマトの唇が離れ、顔を引き寄せられる。
「太一」
「うん」
 子供のような返事に、ヤマトは微笑した。笑いの名残が残る唇を重ね、離すと、今度は太一がヤマトを呼んだ。
「ヤマト」
「ああ」
 答えてくれたヤマトがおかしく、太一はくすくす忍び笑いをもらした。ヤマトの髪に唇で触れ、腿にまで伸びてきたヤマトの手に足を広げる。
 互いの熱に触れあって、焦らし合った。 煽られていくのを楽しみ、肌の柔らかさと熱を感じ合う。
 子供同士の遊戯よりは熱っぽく、大人のそれよりは、もう少し幼い触れ合い方だった。
「外で……しないと」
 ヤマトの手が腰を持ち上げたとき、太一はかすれた声を出した。
「無理だ。……我慢できねえよ」
 太一よりも低い声で、荒い息を吐くと、ヤマトは太一の足を押し広げた。
「汚れ――」
 言葉の代わりに太一の爪が肌に食い込む。水音よりも名を呼び合う声と、息づかいが耳元に響く。
 どんな熱いお湯よりも、互いの熱の方が熱かった。

「だから、お湯が汚れるって言っただろ」
 シャワーを使う太一にヤマトは困ったように言った。
「聞こえなかったんだよ」
「嘘付け」
 湯の栓をさきほどヤマトが抜いたので、湯船に張られた湯は少しずつ減っていっている。
「本当だって」
 体を洗う太一を支えながら、ヤマトは念を押すように言った。
 太一は眉を寄せる。
「でも、お前、なんか言ってたぞ」
「……太一だって聞いてなかったんだろ」
 太一にシャワーを向けられ、お湯をかけられた。風呂に入っている間、何度かけられたかは分からない。
「そんな余裕あるかよ」
 どうにか太一の手からシャワーを奪うと、ヤマトは自分の体にもお湯を流した。
「太一が余裕ないなら、俺もそうだ」
 太一が言葉に詰まり、ヤマトは二度目の口げんかでの勝利を治めた。ひょっとしたら風呂場では自分の方が強いのかもしれない。
「あーあ、もったいない」
 減っていくお湯を眺めた太一は、ため息をついた。
 だからといって、そのままにしておくこともできないし、お湯を抜いて証拠を隠滅してしまうのが、この場合正しいことなのだろう。
「もういいか」
 シャワーのコックを回す前に太一に訊く。
「いい」
 太一はうなずいた。いたずら気分で、太一の頭にお湯を引っかけると、ヤマトはシャワーを止めた。
「ヤマト、お前なあ」
 目を擦る太一が気づかないのをいいことに、顔を引き寄せてキスする。
 太一はお湯をかけたことに文句を言う代わりに、自分からもヤマトにキスをした。

 脱衣場で体を拭いていると、まだ肌に雫を残したまま太一は服を着ようとしている。
 タオルを頭からかぶせて、家へ帰ってきたときのように、太一の体を拭いてやった。
「よし」
 耳の後ろや脇の下まで丁寧に拭ってやると、ヤマトは満足げにうなずいた。
「お前、擦りすぎ」
 赤くなった皮膚を見つつ、太一はまたも口ごもった。
「何だって?」
「いや、いい」
 たしかに体を拭かれたせいで、肌は赤くなっているが、微妙に鬱血しているのはヤマトが擦ったからではなく、噛みついたからだ。
 太一は頬を赤らめたが、ヤマトは気づかなかった。なので、湯上がりの太一から、もう少し現実的な問題に引き戻されることになった。
「鍋、かけっぱなしだった!」
 ヤマトは叫んで、脱衣所から出ていく。
 太一はまだ肌に残るヤマトの歯形を、指で擦ると、仕方ないというように微笑し、ヤマトが用意してくれた服に袖を通した。

 鍋は吹きこぼれてはなかったが、煮詰めていたせいで水量が少なくなっている。用意していたルーを割って、少しずつ溶かして仕上げをしていると、首からタオルを下げて太一がキッチンにやってきた。
「皿、出してくれないか。もうすぐ出来るから」
 シチューにとろみが出るようにかき混ぜていると、背中にあたたかい感触を感じた。
「太一?」
 顔を傾けると、甘い湯の香りが漂う。それに太一の肌の匂いが重なって、ヤマトは目を細めた。
「今度、雨が降ったら迎えに来いよ、ヤマト」
「……分かった」
 太一はヤマトの背に頬をぴったり寄せると、目を閉じた。
「すっげえ大雨でも来いよ」
「行く」
 背中に太一の吐息が当たり、くすぐったい。
「絶対だぞ」
 こんなに冷える冬の日でも、暖まろうと思えばこんなにあたたかいのだ。胸に広がったあたたかいものは、これからも決して消えないだろう。
「絶対行く」
「よし」
 顔を上げて笑った太一を見つめ、ヤマトは食事前では最後になるキスを送った。

 ――父親が帰宅したのは、太一が疲れて眠ってしまった後だった。太一を疲れさせた原因でもあるヤマトは、玄関からの物音に気づくと、太一を起こさないようにベッドから起き上がった。
 冷たい床に足を冷やしながら、玄関へ父親を出迎えに行く。
「お帰り」
「ああ、ただいま」
 飲んできたのか、それとも外が寒かったせいか、父親の頬が真っ赤だ。
「太一君、来てるのか」
 玄関先にあった息子のものではない靴に目をとめる。
「来てる。もう寝たけど」
 手を洗いに行った父親が戻るまでに、部屋の暖房を付け、シチューを温めてやる。ヤマトが皿を出していると、洗面所から父親が妙な顔をして出てきた。
「ヤマト」
ほどけかけたネクタイを肩に引っかけた父親が不思議そうに訊いた。
「今日は風呂、ためておくんじゃなかったか」
「……忘れてたんだ。悪い」
「そうか」
 ヤマトが後ろめたくなるほど残念そうな表情を浮かべ、父は食卓に着いた。
「明日はためとくから」
「頼むな」
 父親はスプーンを取って、グリーンピースが散らされたシチューを口に運ぶ。
「今日のはえらく旨いな」
 味にこくがあるというか、深みがあるというか。いつもよりも格段に旨い。
「……ちょっと煮込みに時間をかけたんだ」
「うん、旨い」
 体が温まるなと父親は嬉しそうに笑う。
「ヤマト、洗い物はしておくから、もう寝ていいぞ」
 言って、父親はリモコンを取り上げ、テレビを付ける。音量は息子の友人が目を覚まさない程度に落とし、ヤマトを促す。
「明日も学校だろう」
 居間の時計は、すでに日付を変えていた。
「親父」
 部屋に戻りかけたヤマトが、罰の悪そうな声を出す。
「ごめんな」
「ああ。洗い物のことなら気にするな」
「……それもだけど、とにかくごめん」
 気にするなと言いかけ、父親はスプーンでシチューを指した。
「じゃあ、これをまた作ってくれ」
「シチュー?」
「ああ、よく煮込んだやつ」
 ヤマトは父親がどうしたのだと尋ねたくなるほど奇妙な顔になった。
「……一応、覚えとく」
 ヤマトは返事の内容を父親に問い返されない内に、ドアを閉めた。
 ベッドへ入り込むと、毛布のぬくもりが冷えた足をつつむ。寝返りを打って、うっすら目を開けた太一の耳元で、ヤマトはどこか嬉しそうな口調でつぶやいた。
「また協力しろよ」
「……何が?」
「シチュー作り」
 寝ぼけ顔の太一に顔を近づけると、太一は目を閉じながら分かったとつぶやいた。少し冷たい太一の頬をつまんで、絶対だぞと念を押す。
「ああ」
 言葉に寝息が続き、太一はまた眠ってしまった。
「来週も作るか」
 ヤマトは暖かくなりかけた手で太一の手を握った。冬中、シチューでもいいかもしれない。
 太一の唇の端にキスして、ヤマトも目を閉じた。

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