冬の雨とは冷たいものだが、夕刻を過ぎてのそれはさらに体を冷やす。暗くなった夜道から、マンションのエレベータホールへ駆け込んだときには指先はかじかんで、爪先も強張っていた。
あまりに体が冷えていたので、くしゃみが出る余裕すらない。細かく体を震わせながら、エレベータへ乗り込み、押し慣れたボタンを押す。
しょっちゅう押しているこのボタンには自分とヤマトの指紋しかついてないのではと思い、ボタンをこすったりすることもあるのだが、今日の太一は落ち着きなく体を動かしただけだった。
エレベータの扉が開ききるのを待てず、隙間からするりと廊下へ走り出し、目的の部屋のドアノブへ手を伸ばす。
もっとも太一が開ける前にドアは開き、ヤマトの顔がのぞいた。
太一は笑いかけたが、ヤマトは顔をしかめて、太一を玄関へ引っ張り込むと、用意していたタオルで太一の頭や体を無茶苦茶に拭いた。タオルからは洗剤とヤマトの家の匂いがする。
「――だから迎えに行くって言っただろ」
言い返す間もなく顔を拭われた。
ヤマトのぶっきらぼうな声の中には心配そうな響きもこもる。
「風邪、引いたらどうするんだよ」
タオル越しとはいえ、ヤマトの手は容赦なく太一の髪を乱し、乱した後は、ブレザーを脱がせる。
湿って、重たいブレザーと共に、ようやくヤマトの手が離れ、太一は息を吐くと、タオルを頭から払いのけた。
「風呂、入ってこい」
ブレザーをのばしつつ、ヤマトは言った。一通り乾かして、アイロンをかけておけば、皺にならないだろう。
「着替えはおいてるから」
「風呂?」
なぜか不満そうな太一を浴室へ追いやり、ヤマトはため息をついた。
いつもの貸しスタジオから帰ってみれば、突然の雨。部活帰りに家へ寄ると言っていた太一のことが心配で、迎えに行こうとしたところで、携帯が鳴った。
着信音が電話用のものでなく、メール用のものだと気がついたときから、ヤマトはほんの少し、それこそ太一の髪から落ちた滴くらいの量で、気を損ねた。太一からの連絡が電話でなく、メールだった。それがなんとなく腹立たしい。
たぶん、直接会話すれば、迎えに行く、来なくていいで軽い口げんかになったはずだ。それを見越して太一は携帯へメールを送ったのだろう。
それは分かる。分かるが、自分は家にいるのに太一が濡れて帰ってくるということが嫌だ。
眉を寄せたまま、ヤマトは夕食の準備を始めた。
肉を鍋で炒め、切っておいた野菜をその鍋に放り込み、水を入れ、スープの素を入れる。少し煮込むと味が出るので、火にかけたまま、あくを掬っていると、太一が腰にタオルを巻いて出てきた。
「あったまったか」
太一の体からの雫が床を濡らしてはいるが、ヤマトはあえてそのことには触れなかった。
「一応」
太一はまだ湯気が立つ体のまま、ヤマトの隣りに立つと、鍋を見た。
「それ、あとは煮るだけだろ」
「ルー、入れる」
ヤマトはあく掬いを終えて、火を弱めにする。
「太一、服着ろ」
半裸姿でうろうろしている太一に注意すると太一は首を振った。
「なあ、ヤマト」
「なんだよ」
返事がぶっきらぼうなものになったのは、鍋に意識を集中していたからだ。
太一からの連絡がメールだったせいでもなく、裸のままの太一の上半身が赤みを帯びて色っぽいなどと思ったせいでもなく、鍋がぐつぐつ沸騰するさまをにらんでいたからだ。
太一は鍋ばかり見ているヤマトに小声で尋ねた。
「怒ってるか?」
「……別に」
太一に視線をやりかけ、ヤマトはお玉を流しに置いた。
「怒ってないか」
「怒ってねえよ」
腕に太一の手が触れて、ヤマトはびくっと蓋を持った手を震わせた。横目で太一を見れば、笑っている。
太一はヤマトが鍋に隙間を残しながら、蓋をしてしまうのを確認して、その腕を引いた。
「つきあえよ。もう煮るだけって言っただろ」
ヤマトの腕を放さず、太一は歩きだした。
太一に手を引かれ、ヤマトは浴室まで連れて行かれた。
「太一……」
一応、太一の名前を呼んでみた。ここまで積極的だと、逆に腰が引ける。
「たまには一緒に入ってもいいだろ」
「……ああ」
そういうことかと幾分、残念に思いながらヤマトは納得した。言われてみると、純粋な意味で太一と共に風呂に入ることは意外に少ない。
納得した後、太一の体からゆっくり目を離し、ヤマトは今日教わった数学の公式を頭に思い浮かべる。x と yが並ぶ数式は、予想通りヤマトを落ち着かせてくれた。
「そっちのがいい」
「分かったから先に入ってろ」
入浴剤を品定めする太一を浴室に入れて、ヤマトは入浴剤を一袋手に取った。乳緑色と書かれた袋を洗面台の上へ置き、服を脱ぐ。
脱ぎっぱなしの太一の服を畳んでやってから、ヤマトは熱気がこもる浴室の扉を開けた。
太一は湯船に浸かったまま、手を差し出した。
「ほらよ」
入浴剤を手渡して、ヤマトは洗面器を取った。
「やっぱ寒いときは風呂だよなあ」
入浴剤を入れた太一は機嫌よく鼻歌など歌っている。
聞き覚えがあると思えば、ヤマトが以前に作った曲だ。自分が嫌がると知ってやっているのだろう。
太一の歌が歌詞のサビにかかる前に、恥ずかしさを隠して、ヤマトはつぶやいた。
「……音痴だな、お前」
太一がお湯をかけてきたので、ヤマトもお湯をつぐ振りをして太一に湯をかけた。
「やったな」
目を拭った太一は手を構える。手の中にはもうお湯が満たされており、いつでもヤマトに湯をかけられる体勢だ。
「お前が先にやったんだ」
しばらくお湯の掛け合いになり、掛け湯をしなくともヤマトの全身は濡れ、太一も髪から水滴をこぼすことになった。
お湯が鼻に入ったのか、太一がくしゃみを何度かして、それを合図に最初のお湯かけ合戦は終わった。
「体、洗うから邪魔するなよ」
ヤマトはシャワーのコックをひねって、お湯を出した。
「分かってる」
太一は濡れた前髪をかき上げて、額を出すとまばたきした。
「俺、お湯飲んじゃったよ」
「俺だって飲んだ」
それはお互い様だとヤマトはスポンジにお湯を含ませた。シャワーは水のかけ合いのせいで、水量がかなり減った湯船に突っ込んでいる。
体を擦っていると、太一が湯船から上がってきた。
「背中、洗ってやろうか」
「いい」
素っ気なく断り、ヤマトは目を逸らす。 好きな相手の裸身を前にして、どぎまぎするのはしょうがない。 良くいえばおおらか、悪くいえば無頓着な太一にヤマトはもう一度、数学の公式を思い出し、忘れた。
太一は手を伸ばして、棚の上のたらいを取ろうとしている。
なんともいえない、その位置格好に、数学の公式は見事なまでにただの数字とアルファベット、記号に戻ってしまった。気を逸らそうと、咄嗟に思いついた言葉をつぶやいた。
「セリ……」
ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ。
春の七草とは、また爺むさいが、とにかく心は落ち着いた。
「何だそれ。歌か?」
太一が問いかけてきたが、ヤマトは聞こえない振りをした。
無視された太一はヤマトをじっと見つめる。
「……なんだよ」
今度は秋の七草をつぶやきそうになり、ヤマトはうつむこうとした。
「なんでもない。ほら、貸せよ」
スポンジをとられそうになる。
「いい」
太一の滑らかな胸板から腹部に、目をやりたがるよこしまな自分をヤマトはいさめた。
「遠慮するなって」
照れが混じる分、ヤマトの方が弱い。あっという間にスポンジを奪われて、背中を擦られる。
「痛っ」
肌が触れ合って、嬉しくもあるが、それ以上に痛い。
「なんだよ、お前ひ弱だなあ」
「お前が馬鹿力、出してるだけだろ!」
どうしてあの柔らかいスポンジで擦られて、こんなに背中が痛いのか。それは太一の力が強いからに決まっている。
ヤマトは泡を飛ばしながら、太一から逃げ出した。
「待てよ、ちゃんと洗えって」
太一がせまってくる。背中も痛いが、それ以上に別の部分も疼いている。
「もう、いい!」
太一の不満そうな顔は無視して、体の泡をながす。
「お前は、体洗ったのか?」
「ああ」
うなずいた太一はシャワーから湯を出すと髪をすすぎだした。
「使うか?」
シャワーを手渡され、ヤマトは妙な顔でうなずいた。
「太一、お前」
シャンプーを泡立てていた太一はヤマトに顔を向ける。
「なんだ?」
蒸気の中で見ると、少しぼやけている太一の顔。それを囲むようにして、つやつやした髪がたれている。
「意外に髪が長いな」
太一は笑い出した。
「何言ってんだよ」
「俺もそう思う」
どんどん泡が増えていく太一の頭を見て、ヤマトも笑うと頭からお湯をかけた。
目をつぶって髪を洗っていると、肩を叩かれた。
「ほら」
「何やってんだよ」
泡を使って髪を立てている太一にヤマトは笑った。
ヤマトが笑ったのに気をよくしたのか、太一は髪の形を次々に変える。
笑っている内に、太一を不意に抱きしめたい衝動に襲われて、ヤマトは太一に手を伸ばした。もっともその手は太一を抱きしめたわけではなく、泡だらけの頭をくしゃくしゃにする。
泡が散って、その中の幾つかはうまくシャボン玉になり、ふわふわと舞い上がっていく。髪から落ちた泡が体について、泡まみれになりながら、なんとなく抱き合った。
互いの体にまわった腕が泡で滑るたびに、手に力をこめ直し、抑えてもこぼれてくる笑いを聞かせあった。
太一の髪から泡が落ち、頬にくっつく。思わず体を動かすと、太一に止められた。
「動くなって」
太一の手が伸びて、髪に触れる。そのまま太一は勢いよくヤマトの頭を洗い出す。
乱暴なくらいに指先が頭皮を擦るので、これも痛い。
「お前さあ」
今更、嫌だとは言わないが、もう少し手加減して洗ってほしい。
「そんなに痛いか?」
「絶対、髪の毛が抜けてる」
太一はヤマトの髪を洗う手を止め、泡をじっと見つめた。
「本当だ」
泡に混じってヤマトの髪の毛が見える。
ヤマトは太一の手の泡を見ると、真剣な顔つきになった。
「無茶苦茶、抜けてないか」
太い糸にも見えるほど束になって抜けた自分の髪の毛にヤマトは低い声を出した。
「……そうか?」
対する太一は気楽そうに手の泡を振った。
「洗えば、普通は抜けるだろ」
「違う、お前の洗い方が乱暴だからだ」
ヤマトはふたたび伸びてきた太一の手を避け、自分で髪を洗い始めた。なるべく優しく、静かな手つきで頭を擦る。
「なんだよ、その洗い方」
不満そうな太一の言葉にヤマトはつぶやいた。
「太一。今みたいな洗い方をしてると、将来、はげるぞ」
ヤマトの言葉に太一は黙り込んだ。言い返してこないのもめずらしいが、ヤマトが太一との口げんかで勝つこともめずらしい。
自分の髪を洗い出した太一の手が、おとなしい動きを見せているのに気づき、ヤマトは太一に見えないようこっそり微笑した。
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