前途多難



 午後八時半になって、やっと帰ってきた太一に母は毎度の渋い顔を見せる。
「遅いわよ、太一」
「ごめんって」
 乱暴に靴を脱いで、太一は頭を下げた。
「つい話し込んじゃってさ」
「またヤマト君の家にいたの?」
「まあ、そんなとこ」
 太一は曖昧に笑った。
「あんまり遅くまでいると相手にも迷惑かかるでしょ。早く帰ってきなさい」
「だけど、お互い、忙しくってなかなか会えないしさあ」
「後片づけが遅くなる母さんも忙しいわよ」
 母はテーブルの上の夕飯を暖めなおしながら、早く着替えてこいと太一に言った。
 おとなしく部屋に戻る太一はテレビを見ていたヒカリに声をかける。
「ただいま、ヒカリ」
「お帰り」
  愛想無くヒカリは挨拶を返して、テレビから目を離さなかった。
「なんだ?」
 太一はヒカリの態度に首を捻りながら、部屋に入っていった。
「――母さん、ヒカリ機嫌が悪くないか?」
 太一はポテトサラダを食べながら、ヒカリの部屋のドアをちらりと見た。
「太一がおそいからよ。ここんとこ、いつもじゃない」
「だってさ……」
「太一が遅い日は、たいていああよ」
「そう言われるとそうだよな」
  太一は不思議そうな顔でうなずいた。
「ヒカリを怒らせたくなかったら、早く帰ってきなさいよ」
「う、うん」
 それはちょっと無理かも知れない――太一は思いながらうなずいた。
 ヤマトのバンドの一人が、親戚の法事だとかで田舎に行っているのでしばらくバンドの練習がないそうなのだ。これ幸いと連日のようにヤマトの家に行ったり、学校帰りに遊んでいたから、遅くなるのも当然だ。
「なあ、ヒカリ、入っていいか?」
 夕飯を食べ終えると、太一はヒカリの部屋のドアをノックする。
「ダメ!」
 素っ気ないヒカリの返事に太一は情けない顔になった。
「お前、怒ってるのか?」
「怒ってない」
「ウソつけ」
「もう勉強してるんだから、あっち行ってよ」
 そう言われては太一も引き下がるしかない。
「ほらね」
 食器を片づけていた母がおかしそうに言った。
「だから早く帰ってきなさいって言ってるでしょ」
「ちぇっ」
 ソファーに寝ころぶ。
(そんなこと言ったって……)
 クッションに顔を押しつけて太一は長いため息をついた。やがて口から寝息がもれてくる。
 呆れたように母は太一を揺さぶった。
「太一、ほら、ここで寝ないの」
「うん……」
「お風呂はいりなさいよ」
「うん……」
 寝ぼけ声の息子に肩をすくめて、母はキッチンの方に行ってしまった。
 母が行ってしまうのを確認して、ヒカリはそうっと部屋のドアを開け、太一のそばに近づいた。
 うつぶせになってすっかり眠っている太一は、ヒカリが上からのぞき込んでもまったく気がついていない。健康そうな寝息にヒカリはちょっと笑ったが、その目が細められる。
(石鹸のにおい?)
 鼻をくすぐるような甘い石鹸の香りに、ヒカリは顔をしかめた。よく見ればまだ濡れているところもある太一の髪だ。
(ヤマトさんのところでお風呂に入ってたんだ……)
  それは確信に近かった。
  そして、もうひとつ。ヒカリは兄を見下ろしていて、決定的なことに気づいてしまった。
(あっ!)
 耳たぶの下あたりが赤くなっている。打ち身などの怪我でついたものではない。
 普通に立っていたりするときには絶対見えないような位置にたくみにつけられた赤い痕がどういう種類のものなのか、ヒカリにはピンときた。
(絶対ヤマトさんだ!)
 兄の肌にあんな風な痕をつける人間は彼しかいない。ヒカリはくやしくなって、思いきり太一の耳を引っ張った。
「――!?」
  あまりの痛さに太一が飛び起きる。
「――ヒカリ?」
「お兄ちゃんのバカっ!」
「おい」
 訳が分からず太一はとにかくヒカリを呼び止めようと手を伸ばした。
「さわらないで、お兄ちゃん、不潔!」
「へっ?」
 ヒカリはばたばたと部屋の中に駆け込んでいく。
「なに、ケンカ?」
  母が手を拭きつつ、聞いた。
「いや……ケンカなのかな……?」
  太一は自分の手を見つめて、母の方に手をかざす。
「俺の手、汚い?」
「帰ってきて洗ったんでしょう?」
「そうだけど……ヒカリが、不潔って」
「不潔……」
 母は笑い出した。
「なんだよ」
 母は慰めるように太一の頭を叩いた。
「ヒカリも年頃の女の子なんだからね。お兄ちゃんのこと嫌がるのしょうがないわ」
「なんだよ、それ!」
「女の子ってそういうもんよ」
 そう言ってまた笑う母をにらんでから、太一はまた首をかしげたのだった。
「そうなのかな――?」

「そうなんじゃないか?」
 昼食時に昨日のヒカリのことを話した太一は、あっさりとヤマトにうなずかれ、むっとした顔になった。
「そ、そうって、それだけか?」
「しょうがないだろ、難しい年頃ってみんなそうだぜ」
「経験あるのか?」
「いや、タケルはそんなんじゃないしな」
 さりげなく弟を自慢して、ヤマトは太一にコーヒーを差し出す。
「それはタケルが男だからだろ」
 太一は受け取ったコーヒーを一口、飲んでため息をついた。
「お兄ちゃん、不潔! だってさ」
 ヤマトは不謹慎とは思ったが、笑ってしまった。
「ちゃんと手を洗ったのか、太一?」
「……バカ」
 太一はヤマトの頭をはたいて、もう一度ため息をついた。
「……こういうとき兄貴って嫌だよな」
「女の子ってそうなのか?」
 ふとヤマトは真顔になって聞いた。太一が顔を上げる。
「……ヤマトの方が知ってるんじゃないか?」
「どうしてだ?」
  太一の目はヤマトのブレザーのポケットに向けられる。
「それ、何だよ」
「何ってクッキー」
  可愛くラッピングされた包みをヤマトは取り出した。
「食後のデザートにと思ったんだ。食うか?」
「お前なあ……」
 太一の怒りがにじみ出した口調に、ヤマトは微笑した。
「これ、俺が作ったやつ」
 太一の目が丸くなる。
「作ったって……」
「今日、実習で時間が余ったからな。ケーキ作るついでに作ってみた」
「――器用なやつ」
 太一は横を向いた。顔が赤くなっていく。ヤマトは太一に顔を近づけた。
「お前、女の子がくれたと思っただろ」
「別に!」
「ラッピングしてくれたのはクラスの子だけどな。これくらいいいだろ?」
「知るかよ」
 早とちりが恥ずかしくなって、太一はヤマトから離れようとした。
「太一」
「うるさい!」
「やきもち?」
「悪いか」
「いいや」
 これは避けられないだろうと、確信してヤマトは太一に唇を寄せた。
「あっ、おい――」
  太一の声がくぐもって消えていく。
  濡れた唇を拭ったあと、太一はまたため息をついた。
「どうした」
「今日もヒカリに怒られるな」
 ヤマトが太一の肩に手を回した。
「来るのか?」
「行く」
 太一が目を閉じた。
 予鈴が遠くから聞こえてくるまで、二人はデザートのことも忘れて、キスを交わし続けていた。

「今日も遅いみたいね」
 母が諦めたように時計を見て言った。時間は八時半を五分ほど過ぎている。
「ま、男の子だし、しょうがないかしら」
「私、迎えにいってくる!」
「ヒカリ――」
 母の驚く声を背中に受けながら、ヒカリは家を飛び出した。
 ヤマトの家までの道のりを思い出しながら、エレベータに乗る。だが、一階について駆け出そうとすると聞き慣れた声が耳に届いた。
「ここでいいって」
  太一の声だった。
「エレベータのところまで行くよ」
 対するはヤマトの声。
「そんな歩き方だと、絶対こけるぞ」
 ヒカリは辺りを見まわして、階段の影に隠れた。
「ほら」
 階段で太一がこけそうになったらしい。声は段々近づいてくる。
「痛い……」
「どこか打ったのか?」
「腰だよ、腰!」
 二人の姿が明かりに照らし出されて、エレベーターホールに見えた。
 太一はヤマトによりかかっている。太一の腰と手をつかみ、しっかり支えたヤマトはちょっとすまなそうに言った。
「ちょっとやりすぎたかな」
「やりすぎってもんじゃないだろ」
 ヒカリはどきっとして、耳を澄ませる。
「人が立てなくなるまで、技なんかかけるな」
「太一が降参しないからだろ」
 技? 降参?
「お前とプロレスは絶対しない」
 太一の言葉にヒカリは気が抜けた。どきどきしていた自分が馬鹿らしく思えてくる。まさかプロレスとは。
「太一が弱いからだと俺は思うけど」
「俺はテクニックなんだよ」
「何言ってるんだ」
 笑いの混じるヤマトの声がエレベータの前で止まった。  太一がちょっとうめく。
「痛い……」
 エレベーターは待つほどもなく、すぐに来た。
「ほら、乗れよ」
「うん」
「じゃあ、また明日な」
「ああ」
 ふっと二人の影が重なる。
 ヒカリは飛びだして口づけ合うヤマトと太一の間に入っていきたい心を抑え、太一を乗せたエレベーターが上がっていくのを見ていた。
 太一が上に上がって行くまで見送っていたヤマトは、帰ろうとして、足を止めた。驚く声が思わず洩れる。
「ヒカリちゃん!」
「……こんばんは」
 階段から姿を見せた太一の妹にヤマトは、たじろいだ。
「今頃どうしたんだい?」
「お兄ちゃんを待ってたんです」
「太一なら――」
「今上に上がったんでしょう。知ってます。見てたから」
「見てた……」
 ヤマトがぎくりとした。不意をつかれるとヤマトは実に正直に心を顔に出してしまう。
 ヒカリでなくても、それなりに太一と何かあったと思われてもしかたないような顔を今はしていた。
「ヤマトさん、お兄ちゃんとキスしてましたね」
 その瞬間、ヤマトはヒカリの怒りの理由が分かった。この場合、ヒカリの怒りは太一でなく自分に向けられている。
(年頃の女の子が親父や兄貴を嫌うっていうより、他のやつにお兄ちゃんを獲られたくないってことか)
  そう言われたら、最近太一を独り占めしていたなと思う。毎日会って、なんだかんだ言って二人きりの時間を過ごしているのだ。
「お兄ちゃんにキスマークつけたのもヤマトさんでしょう」
 ヒカリは鋭く言った。
「耳のところにあったの」
「なんで――」
 ヤマトは口を押さえた。とぼければ良かったかも知れないが、もう遅い。
 小学生とは思えないくらい大人びた顔でヒカリはヤマトを問いつめる。
「ヤマトさん、お兄ちゃんの何なの?」
「何って、恋人かな」
 ぬけぬけと、ヤマトは答えた――張り合うのもみっともないかとは思ったが、きっちり言っておくのもいいかと思い直したのだ。
 すっとヒカリはヤマトに近づいた。
 太一にどこか似ていなくもない可愛らしい顔でヒカリは思いきり――エレベーターのボタンを押した。
「ヒカリちゃん」
 ヤマトは困ったようにヒカリに声をかける。
 きちんと説明をしておこう。自分と太一とこれからのためには、妹には知っていてもらった方がいい。
「俺と太一は――」
「深い仲だって言いたいんでしょ!」
 ヒカリに怒られたようにエレベーターはすぐにやって来た。
 さっさと乗り込んで、ヒカリは呆気にとられたヤマトの顔に思いきりあっかんべえをすると、ドアを閉めて、家まで戻っていった。
 怒らせると八神兄妹は怖い――しみじみとそのことを感じつつ、ヤマトは少しうなだれた。
「ヒカリ、怖かったな……」
 意外な声が響いて、ヤマトは振り返った。
「太一!」
 家へ帰ったはずの太一が階段からヒカリのように姿を見せた。  腰に手を当て、顔をしかめている。
「お前……」
「帰ったらヒカリがいないから捜しに来たんだよ」
 太一は肩をすくめた。  すくめて、また、痛っとうめく。
「何か感づいてるかなとは思ってたけど、」
 太一は耳の後ろに手をやった。
「ここに気づくなんて……」
「絶対大丈夫な場所だと思ってたんだけどな」
 太一は呆れて、エレベーターのボタンを押した。
「怒るとヒカリは本当に怖いぞ」
「分かってる、お前の妹だもんな」
「言ってろ」
 ――後ろから太一を抱きしめて、ヤマトはため息をついた。
 太一もほぼ同時にため息をつく。
「あーあ、ばれちゃった」
「ばれたな」
 ヤマトは言って、それからあることを思いついた。
「おい――!」
 ヤマトが顔を伏せてきたので、太一はぎょっとした。
「宣戦布告、ってヒカリちゃんに言っておいてくれ」
 鮮やかにつけ直されたキスマークを満足そうに見つめて、ヤマトは笑った。
「大事なお兄ちゃんをもらって悪いな、でもいいぜ」
「バカか」
 ヤマトを振り払って、エレベータに乗ると太一はちょっと笑った。
「がんばってな、ヤマト」
 太一の笑顔に笑い返しながらも、ヤマトは前途多難という言葉を思い浮かべずにはいられなかった。
 相手は太一の妹――誰よりも一番、手強いのかもしれない。
 家へ戻りながら、ヤマトはもう一度、昼間の太一のような大きなため息をついた。

「お兄ちゃん!」
  太一が帰ると同時にヒカリが駆け寄ってくる。
「ヒカリ、帰ってたんだな。行き違いになったってことか」
 とぼけて言う太一に構わず、ヒカリは太一の腕にすがった。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「お兄ちゃんはヒカリだけのお兄ちゃんだよね?」
「まあな……ヒカリの兄貴は俺だけだもんな」
「そうじゃなくて!」
 声を大きくするヒカリにうなずきながらも、太一はさりげなくヤマトがつけたキスマークを隠すようにしていた。
(こんなの見せたら、それこそどうなるか……)
 玄関で騒ぐ二人を母が怒るまで、太一は片手で耳の下をしっかり押さえていたのだった。
 前途多難、まさしくこれだった。太一にもヤマトにも、そしてヒカリにも。



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