人生と言えるほど、まだ生きてはいないけれど、それでもこれが人生最大の幸せではないだろうかとヤマトは太一の寝顔を見る度に思う。
父親が夜勤か泊まり込みの仕事で、午前にいないときに限られる幸せ。
家に帰っても、誰もいないということを寂しく思ったときも多いが、逆にそこにこんな幸せを感じられるということもあったのだと知った。――目が覚めると太一が横にいる。
どう贔屓目に見ても幸せそうな顔をして太一は眠っており、しっかりとヤマトに体をくっつけている。
夏は暑いけれど、その他の季節はその体温がとても心地よい。
眠気は去っているが、しばらく太一の体の温かさを楽しむ。
眠る前に浴びたシャワーで使ったシャンプーは自分と同じ香りのはずだが、太一の肌の匂いと重なって、ヤマトはくすぐったい気分になるのだ。
それからまた少しだけ、寝顔を見て、顔がにやけそうになる前にヤマトは起き出すことにしている。
太一を起こさないようにそっとベッドから降り、服を着替えて、キッチンの方へ行く。
太一が起きる時間はばらばらで、朝食を作り始めてから姿を見せることもあれば、仕度を終えてヤマトが起こしに行くときもある。
ヤマトが起こしにいった場合は、たまにだが、ただでさえ遅い朝食が本当に昼食になってしまう場合もあった。
もちろん二人で寝ているのではなくて、寝ぼけ顔の太一についつい邪な感情を覚えてしまうヤマトのせいである。
今日は残念ながら、ヤマトがフライパンをコンロに置いたところで太一は起き出してきた。
太一はあくびしながら洗面所の方へ歩いていく。油を引いていたことも忘れ、ヤマトはついつい太一を眼で追ってしまう。
父親が不在だとはっきり分かっているときに、太一は面倒くさがって服を着ようとはしない。
別に裸というわけではなく、上にシャツを羽織ったり、トランクスを履いたりはしているのだが、相当にラフな格好でしか起きてこないのだ。
ヤマトの近場程度なら外出してもおかしくない服装とは対照的だった。
まあ、それは目の保養と言ってもいいし、眼福と言ってもいい。二人きりの時にしか見られないものであるし、そこまで心を許してくれるという証拠でもあるだろう。
けれども――やはり朝からこれはきつい。
いくら日付が変わるまで、この年代にしては進んだ方であるお付き合いをしていたからといっても、きつい。見る度になんていやらしいのだと思ってしまう。いや、いやらしいのは自分なのかもしれないが。
「……太一、何か着ろよ」
「あとで着るよ」
顔を洗ってきたらしい太一に言ってみたが、返事はいつもこれだ。
自分だって、昨日の疲れが残っているときは服を着るのは面倒だと思わなくもないが、太一がそんな格好をするとますます、
自分にも太一の体にも昨日以上の疲れを残したくなってしまうではないか。
太一はリモコンを取り上げ、チャンネルを変えながら、面白そうな番組を探している。
「太一、下ぐらい履けよ」
だいぶ高くなってきた日差しが入ってきて、太一を照らしている。すんなり伸びた足にヤマトは目を離せなくなってしまった。
何が面白いのかニュース番組を見て笑っていた太一は、ヤマトの方も見もせず、答えた。
「履いてるだろ、トランクス」
そう言われると返す言葉はない。確かに夏場ならば、人目を気にしない男性は自宅ではよくする格好だろう。
ぼうっと太一を見ていると、太一はテレビからこちらに顔を向けた。
「飯、まだか?」
フライパンに油を引いたきり、手を止めていたヤマトはあわてて火をつけた。卵を持って、フライパンが熱くなるのを待つ。
太一はあくびしながらヤマトの方に近づいてきた。
「今日は両面焼いてくれよ」
「半熟じゃなくていいのか」
最近は半熟に凝っていた太一だが、今日の注文は違った。
「どっちも焼いたやつがいい」
「分かった」
フライ返しを取り出す。卵を落とし、目玉焼きを作り始めると、太一は食器棚に置いてある食パンを取り出した。
「パン焼くぞ」
袋から二枚、食パンを出すと、太一は勝手知ったるヤマトの家のオーブントースターを開ける。
ちらちらそそがれるヤマトの視線には気づいてないようだった。
こんな場合で鈍感な太一に感謝しつつ、ヤマトはフライパンを揺らした。
フライ返しで、目玉焼きをひっくり返そうとしたところで、太一が大きく伸びをする。
上半身がいっそう露わになり、ヤマトはフライパンもひっくり返しそうになってしまった。
「寝過ぎるのも疲れるよな」
あくびのせいで滲んだ涙を擦りながら太一が言った。
「そ、そうだな」
今更、何を動揺していると落ち着こうとするのだが、明るい光の下で見る、自分が付けた痕跡は非常に生々しい。
あんなところにもつけていたのかと、昨夜の自分の行動を思い出し、ヤマトは赤くなった。
背中にある太一の爪痕が少し疼く。
「ヤマト」
そこで太一が眉を寄せて、ヤマトをにらんだ。
視線に気づかれたかと焦ったが、太一はフライパンをのぞき込んでため息をついた。
「やっぱり黄身がこぼれてる……これ、お前のだからな」
ふたたび太一の鈍感さに感謝しながら、ヤマトはうなずいた。
太一のために新しい目玉焼きを焼いていると、トースターが甲高い音を立てた。
「バター、出せよ」
今度こそ失敗できないので、ヤマトはフライパンから目を離さない。
「お前、またジャム買うの忘れただろ」
太一が冷蔵庫を開けて、バターを出すついでに文句を言う。
「切らすなって言ってるのに」
「ここ、俺の家だぞ」
一応、言ってはみるが、今日の買い物でジャムを買おうと決めるヤマトだった。
「俺が野菜切ろうか」
目玉焼きができあがった後、ヤマトがソーセージを炒め出したので、太一は流しに置かれたトマトを取り上げた。
「頼む」
太一が隣りに立って、蛇口を捻る。
うなじにまた一つ、昨日の痕跡を見つけてヤマトは、赤くなった。これはかなり目立つ場所にある。
襟が詰まった服を着ても分かるくらいに、高い位置に唇を這わせていた昨夜の自分を思いだし、ヤマトはためらった挙げ句、太一に言った。
「太一、あとで絆創膏貼れよ」
「分かってるよ」
仕方ないとため息をついて、太一はトマトを洗う。そこでヤマトは余計な一言をつけ加えた。
「お前、俺の家に来た後は絆創膏ばっかり貼るよな」
水に濡れた太一の手がヤマトの後頭部をたたき、また何事もなかったように二つ目のトマトを洗う。
トマトよりは赤くないなと太一の頬を見ながら、ヤマトはソーセージにコショウを振った。
「誰のせいだと思ってんだよ?」
太一が荒っぽくトマトを切り出す。包丁の音が大きい。スライスにしているはずなのだが、それにしては形が崩れていた。
「いや、悪い……」
誰のせいと言われなくても、自分のせいだ。
なるべく気をつけているのだが、たまにところかまわず、太一は自分のものだという証拠を残したくなるのである。しかし、昨日の記憶ではあんな場所につけた覚えはない。かといって、間違いなく付けたのは自分である。
最後の方の記憶がぼやけているから、その辺りでつけてしまったのだろう。
「――俺、前に光子郎になんて言われたと思う?」
突然出てきた一つ年下の友人の名にヤマトはむっとした顔になった。
「なんで、光子郎が出てくるんだよ」
太一はヤマトの不機嫌そうな顔にも構わず、トマトを潰す勢いでまた包丁を振り下ろした。
「太一さんは、休み明けによく怪我してますねって」
「怪我?」
一瞬、意味が分からなかった。
「ヤマトさんも絆創膏ばかり、買って大変ですねって」
裏に秘められた遠回しな皮肉にヤマトは言葉を詰まらせた。
ふと思ったのは、太一がよく光子郎の言葉の意味を分かったなということである。光子郎ときたらよく観察している。そんなに太一のことをみているのかと思うと、何か腹立たしくなってきた。
「ヤマトが買いだめしてるから大丈夫だって言い返してやれよ」
今度はすねを蹴られ、ヤマトは危うく指先を火傷しそうになった。
「ふざけたこと、言ってんじゃねえよ」
トマトを切り終えた、もしくは潰し終えた太一は、皿に盛ってさっさとテーブルの方へ行ってしまった。
「つまんないのしかやってないな」
トーストを行儀悪く囓りながら、太一はまたテレビチャンネンルを変えている。
向かい側で目玉焼きを食べていたヤマトはなるべく太一を見ないようにしながら、太一の切った、いや潰したトマトに箸を伸ばした。
せめてシャツのボタンを留めるように言ってみようか。ボタンを留めるくらいなら、太一だってうなずくだろう。しかし、それはそれで残念なことだ。
だが、ちらちらのぞく胸のあたりに、つい耐えきれず、ヤマトは立ち上がった。
「太一!」
太一が顔を上げる。突然、大声を出したヤマトに不思議そうな目を向けていた。
「何だよ」
そのきょとんとした顔に自分の不純さを責められているようで、ヤマトは太一の顎を指さした。
「……パン、ついてる」
「パン?」
太一が顎のパンくずを取ろうとするのを見ないで、ヤマトはキッチンに牛乳を取りに行った。
「ヤマト、俺の分も」
わかったと太一の分の牛乳もつごうとすると、太一は急にココアが飲みたいと言い出した。
「ただの牛乳でいいだろ」
「ココア。冷たいの」
自分の悩みなど知らないで、太一は呑気にそんなことを言っている。
ココアに塩でも入れてやろうかとちらりと考えても、キッチンから見える太一は、妙に楽しそうでついついヤマトの顔もほころんでしまう。
「お前、なんでそんなに楽しそうなんだ?」
ココアの粉をグラスに入れて、牛乳をそそぎながらヤマトは訊いた。ついでなので、自分もココアを飲むことにした。
「俺、楽しそうに見えるか?」
「ああ」
そんなにココアが飲みたかったのだろうか。
「お前は楽しくないのか?」
太一から聞き返されて、ヤマトはココアを混ぜる手を止めた。
太一を見ると、テレビの方に顔を向けている。こちらからは背中くらいしか見えなかった。
「楽しいって、言われてもなあ」
どちらかと言えば、今の気分はおあずけをくらっている犬に近いものがあるかもしれない。ただ、そんなことは口に出来ないので、ヤマトは言葉を濁した。
できあがったココアに氷を入れ、マドラーを入れたままココアを太一に渡そうとした。
太一はちらりとヤマトを見上げて、ぼそりとつぶやいた。
「――お前の親父さんが、こんな風にいないときがあるだろ」
「ああ?」
なぜ、自分の父親の不在の話がでたのか、意味をつかめずヤマトは面食らった。
「そうしたら、二人で朝飯喰うだろう」
「そうだな」
「俺はそういうのが楽しいんだよ」
――今のは、よしという合図なのだろうか。
ココアを太一に渡すのではなく、テーブルに置いてから、ヤマトは太一の顔をのぞき込んだ。
「太一?」
「お前は?」
自分の言葉にヤマトがどう思うか、気にしていないのだろう。
恥ずかしいと思うなら、太一の頬は赤くなるが、今はパンくずがまたついているだけだ。
「俺も楽しい」
太一の頬のパンの欠片を指ではなく、唇で取ってやって、ヤマトは素直にうなずいた。
どちらからともなく腕を背中にまわす。
卵の味がするキスを終えて、太一はヤマトの手が背中以外の場所に伸びてくる前に、ココアを飲もうとした。
「……太一」
ヤマトの目がなんともいえない光をたたえ、太一を見つめる。
「――朝飯、食べてからじゃ駄目か」
「別にいいけど」
俺より、朝飯かと言いたげにヤマトが横を向く。
「怒るなよ」
ココアを飲みかけ、ヤマトの様子に太一が笑う。
「怒ってない」
期待した自分がみっともなく思え、ヤマトは席に戻った。
「ヤマト」
本当に怒らせたかなと太一はヤマトの無表情な顔を見ながら思った。
ヤマトは無表情を仏頂面に変え、素っ気なく言った。
「太一。お前、ちゃんと服を着ろ」
――そう言われたから、答えを返したのであって、別にその気はなかった。
いや、ヤマトの怒りを宥められるかなという計算も少しはあったかもしれないが、ともかくそう言われたから、太一は事実を述べただけだった。
「なんでだよ? だって、すぐ脱がすだろ」
言って、太一は奇妙な顔をし、聞いたヤマトはもっと複雑な顔になった。
太一はあわてて立ち上がる。
「太一、今なんて言った?」
「別に。この格好は脱ぎやすいなって」
なんで、こう自分は墓穴を掘りやすいのだろう。太一は赤くなった。
ふたたび沈黙があり、ヤマトは太一を見上げた。
「へえ」
口元に浮かんだ笑いに、太一は焦り、困り、結局諦めた。ヤマトが嬉しそうだったからというのが理由なのが、情けない。
座りかけていたヤマトがふたたび立ち上がり、微笑しながら太一に手を伸ばす。
「ヤマト……」
ヤマトの手が腰にまわる。首筋にかかる吐息がくすぐったい。
「何だ?」
止めないぞという意思を込めて、ヤマトはすぐ側にある太一の顔を見た。
太一の頬が赤く、そこについキスをしたくなってしまう。唇に当たった頬は柔らかく、太一が痛がらない程度に軽く噛む。
「あーあ、もう」
シャツを脱がされかけ、太一はヤマトの首に手を回した。
「お前の家に来て、まともに朝飯食ったことないぜ」
「俺もお前が家に来たときは同じだ」
変わりに太一を食べているようなものだから、まあ釣り合いはとれているだろう。
さすがにそんなことを口にしては、今度こそ太一は怒ってしまうので、ヤマトは言葉を飲み込み、代わりに唇を太一に重ねた。
「ココア、飲みたかったな」
フローリングの床に体を横たえ、太一はつぶやいた。ふたたびテーブルにつく頃には、薄くなっているに違いない。
「あとで、作り直してやる」
ヤマトの髪が落ちて太一の頬や唇をくすぐった。
すでに熱を帯びたヤマトの声に、太一は眼を細めた。
ヤマトの顔とその向こうに見える天井。これがなければいつもの朝ではないのだろう。
「――じゃあ、頼むな」
押し当てられる唇と指先に笑い声と甘い声を漏らしながら、太一はヤマトをしっかり抱きしめ返す。
それが太一とヤマトにとってはいつもの休日の朝だった。