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 太一にしては、珍しいことだった。  
 怒るのでも、無関心を示すのでもなく、一瞬だけ眉をしかめただけなのだ。
 月が変わるたびに出てくる根も葉もない噂に、飽きもせず嫉妬を見せ、ヤマトを困らせ、ついでに喜ばせもしている太一にしては、大人しい態度だった。
 そちらの方が、逆に不安で、光子郎は太一の顔をじっと見つめた。太一は視線を受け止めて、笑う。そうやって笑顔で光子郎の言葉を封じ込めた後、太一はPC教室で、元気に騒ぐ大輔の元へ行ってしまった。
 後輩達に囲まれて、彼らをからかったりしている太一は、噂など信じ切ってはいないようだ。
 それでも、顔を合わせたときは、さすがの太一も動揺するかもしれない。少しだけ意地悪い気持ちで、ヤマトの訪れを待った光子郎だが、太一は何の変わりもなく、やはりヤマトに笑いかけただけだった。
 ギターを背負ったヤマトの方が、たじろいで、幾分ぎくしゃくした笑みを太一に返す。
「早いな、ヤマト」
 太一は言って、彼のために椅子を引いてやった。
「……ちょっと抜けてきたんだ」
 同じく噂を知っているらしいタケルが、興味深げに兄を見ている。
 大輔がお疲れさまですとヤマトに話しかけたが、ヤマトは曖昧にうなずいただけだ。
 ヤマトの視線は、太一を探っている。そろそろ太一の耳に、入る頃だと思っていたのだ。今までの経験で、噂の走り具合が分かるようになった。
 ついでにその後の太一の状態についても、分かるようになっている。だからといって、恐ろしさが変わるわけでもないのだが。
 ――太一は怒っているのだろうか。もし怒っているのなら、どれくらいの強さで、そうなのか。顔に出てはいないが、安心は出来ない。表情に出なくとも、態度がそれとなく冷たかったりすることもあるし、反対に優しすぎることもある。他には、自分にだけ話しかけてくれないとか、さり気なく無視をするとか。言葉に刺があったり、睨み付けられたり、というのもある。
こちらも、これまでの経験を頼りに、必死にヤマトは探った。
 だがヤマトの努力の甲斐もなく、太一はいつも通り、不自然な所など、まったくなかった。
 これでは、あの噂を太一はまだ知らないのかもしれない。明るくなりかけたヤマトの顔を、強張らせたのは、ヒカリの鋭い視線だった。
「……」
太一は、知っている。絶対に。でなければ、いつも以上に鋭いヒカリの視線の理由がない。
 青ざめたヤマトに、光子郎は笑いを押し殺し、タケルも唇を震わせ、ヒカリもほほえんだ。
 事情を知らない伊織と京、デジモン達はそれに気がつかず、また太一自身も、何も気づいていないようだった。

「――ヒカリ」
 一日だけの冒険を終えての、帰り道、太一はヒカリを呼び止めた。
 ちょっと照れくさそうに、小声で言う。
「今日、ヤマトのとこ、泊まるって言っといて」
「お兄ちゃん!」
 ヒカリは大声を上げかけて、慌てて口を押さえた。
「どうして?」
 太一は振り返った光子郎達に首を振り、ヒカリに視線を戻した。
「……最近、会ってなかったし」
「今日、会ったよ」
「ちょっとだけだったから、話したいこともあるんだよ」
 話したいこと、という太一の言葉に反応して、ヒカリは顔を上げた。これで、太一の表情が無かったら、納得したかもしれない。
 太一は照れくさそうに、視線を逸らしただけだ。
 噂を知っているはずなのに、それを匂わせない兄に、ヒカリは首をかしげた。
「お兄ちゃん、いいの?」
「何が?」
「ヤマトさん――」
 みなまで、言わせず太一はゆっくり笑った。ヒカリが言いたいことは、分かっているとでもいうように、うなずく。
 ヒカリは、ほんの少し、一瞬後には忘れてしまうが、ヤマトに同情してしまった。
「いいんだ。じゃあ、頼むな」
「うん、分かった」
 聞き分けの良い妹に、太一は礼を言い、最後尾を歩くヤマトに近づいた。
「ヤマト」
 肩を叩くと、ヤマトは太一から、一歩分ほど飛びのいた。
「太一!」
「そんなに驚くことないだろ」
「そ、そうだな」
 ギターを背負い直し、ヤマトは虚ろに笑った。
「俺、何やってんだろうな」
「あのさ」
 太一は、言いにくそうに、うつむいた。
「今日、お前の家、行ってもいいか?」
「へ?」
 たじろいだヤマトに、太一の視線が優しく刺さる。
「いいか?」
 自分の家で、待っているのは、天国か地獄なのか。
 太一は照れたように笑う。もう一度、訊かれる前に、ヤマトはうなずいていた。
「来いよ……」
 
 玄関をくぐった時点では、自分の運命が分からなかった。
 太一が靴を脱いで、家に上がったときの言葉を、ヤマトは疑った。
「シャワー、借りるぞ」
「ああ……」
 太一は荷物を玄関に放り投げ、さっさと浴室に消える。
 水音を聞きながら、ヤマトは足を引きずって、自室まで戻った。
 太一がシャワーを浴びている。それを天国だと思うのは、あまりにも浮かれすぎだ。ただ単に部活での汗を流したいだけかもしれない。
 浮つく男心を、必死に諫めたが、太一はヤマトがひそかに願っていた通りの姿で、部屋にやってきた。
「着替えてなかったのか」
 太一はシャツを上半身に軽く引っかけ、下半身は下着だけだ。
 手にした残りの服は部屋の隅に、鞄と同じように投げ置く。
「太一」
「ヤマトは、いいのか?」
 太一はヤマトの前に立って、訊く。
「いいって、何が?」
「シャワー」
「俺は、いい――」
 ヤマトの返事を聞いた太一は、ちらりと笑って、ヤマトに近づいてきた。髪先の雫が飛び、次に唇に暖かい感触が、重なる。
 軽めのキスの後、太一は目だけで笑って、ヤマトの首に腕をまわした。
 今度の口づけは、ヤマトにも応えられるくらいの余裕があった。
 太一はヤマトのブレザーを脱がせ、口づけを続けながら、ヤマトのシャツのボタンを外す。舌も指も大胆な太一に、とまどった後、さらにヤマトは言葉を失った。
 太一はヤマトを軽く押して、ベッドに腰掛けさせると、自分も身をかがめた。
「太一」
 ヤマトの首筋から、胸板へと唇を降ろしていた太一は、視線だけで上を向いた。
「ヤマト、今日はイヤか?」
「そうじゃなくて……」
「良かった」
 太一の指先がヤマトの肌から、ズボンの布地へと触れる。ジッパーが下げられ、下着がずらされた。
 ヤマトが何か言う前に、太一は顔を伏せている。
 舌先が触れる直前、ついにヤマトは訊ねた。
「太一……怒ってるか?」
 ふっと太一の吐息がかすめて、ヤマトは体を震わせた。
 聞こえた太一の声は、笑いを含ませていた。
「怒ってない」
 そのまま太一は顔を上げようとはしなかった。
 熱い舌だけが、ヤマトをさらに熱くして、追い詰める。ひときわ、荒い息をヤマトが吐いた後、太一はここだけはさすがに恥ずかしそうに、唇を拭い、身を起こした。
「太一」
 その仕草に刺激されたのか、ヤマトの腕が伸び、太一を抱き寄せる。幾らもない衣服をすべて脱がされると、ヤマトの体の下に引っ張り込まれた。
 若さそのままの激しい動きで、ヤマトは太一を求め、太一もそれに応えた。
 太一から、という誘いもあったせいか、ヤマトは普段よりも、幾らか乱暴に触れてくる。歯を立てられもしたが、太一は同じことをヤマトに返し、ヤマトにしがみつく。
 太一と囁いて、ヤマトが腕に力を込めた。
 こんな、自分だけを見つめるヤマトを疑うわけがないのだ。わずかな間、落ち着きを取り戻し、太一はヤマトの耳に、吐息よりも熱い言葉を吹きかけたが、それに応えたヤマトの動きに、すぐに押し流されていった。

「ヤマト」
 寝返りは打たず、太一はヤマトの腕の中で、言ってみた。
「ヤマト?」
 二度目は声を大きくしてみる。返事はなく、寝息だけが聞こえてきた。
 今度はごそごそと身動きし、体にまわっていたヤマトの腕を外す。よほど疲れたのか、ヤマトはぴくりともしない。
 それでも静かに起き上がる。
 だるい腰とそこに走る痛みに耐えて、太一は机の上のスタンドを付けた。 最初は灯りでヤマトが起きないよう、灯りをかばっていたが、灯りから離れて、またヤマトのもとへ戻る。
 苦笑がふと漏れてしまうくらい、ヤマトは無邪気な顔で眠っていた。思う存分、遊び回り、満足して眠りにつく子供も、きっと、こんな顔をするはずだ。
 目を覚ます気配は窺えなかったので、太一はヤマトの前髪を梳いたり、頬を指先でつついたりと、他愛もない悪戯をしていた。
  唇を重ねようとしたところで、ヤマトが眉をしかめ、寝返りを打った。笑いを堪えて、太一はヤマトを見つめた。
 ヤマトが大切だと、しみじみした暖かいものが溢れ、触れる指先にも愛しさがこもる。だからこそ、これは、やっておかなければならない。
 太一はヤマトの首筋に顔を伏せた。
 ――しばらくして、目的を果たしてしまうと、太一は満足げに笑って、顔を離し、灯りを消した。後は、ヤマトが目を覚ます、朝が問題なだけだが、それについては自信があった。
 暗くなった部屋で、太一はヤマトに寄り添い、足を絡ませて、眠りに落ちていった。  

 目覚ましをかけるのを、忘れていたが、始業時間には充分間に合う頃に、起きることが出来ていた。これが休日なら、太一を眠らせてやれるのにと、悔しく思いつつ、ヤマトは太一の肩をやさしく揺すった。
「太一」
「……ああ」
 太一は一度、布団に潜り込みかけたが、すぐに大きく目を開いた。
「ヤマト!」
「なんだ?」
 太一は自分と似たり寄ったりの、寝乱れたヤマトの姿に、安心したようにうなずいた。
「何でもない」
「寝ぼけてるのか?」
 微笑したヤマトは、常備してある絆創膏を、引き出しから出して、太一に手渡した。
「これ。……ごめんな」
「気にするなって」
 太一は絆創膏を貼り終えると、笑って首を振り、ヤマトに抱きついた。
「おはよう、ヤマト」
「おはよう……」
 嬉しいとまどいに、まばたきして、ヤマトは太一を抱き返した。キスをして、着替えのため、立ち上がる。
 当然太一も自分の制服を着るかと思えば、ヤマトにくっついてきた。
「太一?」
 ヤマトが着替える間も、太一は離れず、側にいる。
「襟、曲がってるぞ」
 それだけではなく、甲斐甲斐しく着替えまで手伝われ、ヤマトは奇妙な顔になった。
「どうしたんだ?」
「たまにはいいかと思ってさ」
 太一の笑顔は明るく、ヤマトは一瞬、真剣に、それほど昨夜の自分は太一の気に入るようなことをしたのかと、考え込んだ。
 太一は、顔を洗うときも、さりげなく側におり、タオルを渡してくれる。髪をとかそうとすれば、太一が先にブラシを手にしており、髪を整えてくれた。
「なんだよ」
「いいだろ」
 太一は洗面所の鏡とヤマトの間に立って、にこにこ笑っている。つられて、笑い返してしまったヤマトなので、太一に逆らえるすべはなかった。
 朝食を作り始めた頃に、やっと太一はヤマトから離れ、自分の身支度に取りかかった。
「変な奴だな」
味噌汁を作る際に、ヤマトはつぶやいたが、それが太一の態度に対する朝、最後の疑問だった。
 

 朝練があるという太一に合わせて、早めに家を出る。
 学校の近く、早く登校してくる生徒たちとすれ違う辺りまで来ると、太一だけ、間に合いそうにないからと、足を早めた。
「また、後でな」
「気をつけろよ」
 太一は手を振って、駆けていった。
 走るのが遅いのは、仕方ない。ごめんなと心で謝り、ヤマトも歩き出した。
 時間的に、生徒が多いわけではないが、課外のために登校する上級生や、太一のように朝の部活動のためにやってくる生徒もいる。
 急ぐ彼らに追い越されながら、やがてヤマトは、背中か髪に何か付いているのかと、気になりだした。
 始めはそうでもなかったが、数人の女子生徒や男子生徒が追い越すときに、何度も何度もヤマトを振り返っていくのだ。後ろを振り返っても、視線を集めるようなものは見あたらない。
 グラウンドを通ったときなど、間違いなくヤマトを見た女子生徒達から、奇妙な声が上がっていた。女子生徒からの視線は、だいぶ慣れたものの、男子生徒のそれは気になる。
 髪が乱れているわけでもないし、制服がおかしいわけでもない。今日はギターも持っていないので、身軽な登校姿だ。だが、すれ違う生徒のほとんどが、恥ずかしげな、それでも好奇心に満ちた目で、ヤマトを見つめてくる。
 訳の分からないヤマトだったが、さすがにクラスメイト達までが、同じように遠巻きに自分を見つめてくるのには苛立った。
「おい」
 教室にいたヤマトを見て、目を丸くした友人の一人をつかまえる。
 彼には、視線のせいだけではない怒りが、まだあった。あれは、まったくひどい。
 彼に、騙されたようなものだ。このことが、原因で、いつ太一に怒られるかとびくびくして、過ごした日々をヤマトは忘れていない。
「なんで、じろじろ見てるんだよ」
 声も自然、荒くなる。
「い、石田……」
 友人は頬を赤くした。
 男の頬が赤らんだ姿を見ても嬉しくなかった。例外は太一だが、今は関係ない。
「お前さあ……やっぱり、上手くいったんだな」
 思いがけない言葉に、ヤマトは問い返せなかった。
「俺ら、年上相手じゃ、ダメだなとか言ってたんだけど」
「年上? この間のことか?」
 年上相手と聞いて、思い出されるのは、この友人に数合わせでだからと、連れて行かれた女子高生相手の合コンの件だ。
 友人はうなずき、羨ましげな目でヤマトを見た。
「さすがだな」
 感心するように彼は首を振り、行ってしまった。
「さすが……?」
 首を捻ったヤマトの疑問に答えてくれる者は、誰もいなかった。
 一時限目の終了後、顔を赤くした女子生徒達が、お節介だとは思うんだけどと言いつつ、差し出してくれた絆創膏二枚に、ヤマトはまばたきした。
「ごめんね。今更だとは思うんだけど、やっぱりそれ、隠してた方がいいよ」
 ヤマトの首筋をちらりと眺めると、きゃあっと可愛らしい悲鳴を上げて、女子生徒達は逃げて行ってしまった。
「隠す……」
 ヤマトは少女達からもらった、チェックの絆創膏を見つめ、もう一度つぶやいた。
「隠す?」
 十秒後、何もかも悟ったヤマトはトイレに駆け込み、頭から爪先まで、全身すべてを、凍りつかせた。

 少女達のささやかな気遣いもむなしかった。
 石田ヤマトに年上の彼女がいるらしい、ということを、二時限目終了後には、全生徒が知ることになり、、三時限目を過ぎる頃には、相手は、高校生ではなく、実はOLなのだということが確認され、四時限目には、実はOLではなく、ヤマトのバンドが行ったライブに、こっそり来ていたモデルではないかということが、囁かれた。
 もちろん、ヤマトと年上の彼女が、深い付き合いをしているというのは、周知の事実になっていた。何よりの証拠を、朝からヤマトは見せていたのだから。
 昼休みにはついに彼女とヤマトが一緒にいるところを、見たことがあるという生徒まで現れ、校内は少女達のため息と悲鳴、男子生徒の羨望と嫉妬の視線で満たされた。
 その噂のすべてを、太一は楽しそうに耳に入れ、上機嫌で笑っていた。それは、石田派の少女達の心を慰め、ついでに石田派ではない少女達を増やすことにもなった。
 さて、ヤマトはどうくるかなと、太一は思っていたが、予想通り、ヤマトは昼休みになると、こっそり太一のクラスまでやって来た。
 恨めしげな視線にも、憔悴した表情にも気がつかない振りをする。
 そのままのんびりとコーヒー牛乳を啜っていると、好奇心で顔を輝やかせた友人が、声をかけてきた。
「八神、石田が来てるぜ」
「ああ」
 太一はゆっくり立ち上がる。
「なあ、俺、見ちゃったよ。マジで二つ、石田の首って絆創膏が貼ってあるの」
「三組の太田なんか、朝、生で見たって言ってたぞ」
「あ、それ俺も聞いた。なんか歯形まであったとか――」
 わっとにぎわう友人達を背にし、太一はヤマトに近づいていく。
 教室に背を向けて、うつむいたヤマトの耳朶は真っ赤だ。
 そんなヤマトを見つめ、太一は自分の首筋に触れた。肌とは違う、感触が二つ。ヤマトの首にも、きっと二つ。
 太一は、ほほえんで、そっとヤマトの肩を叩いた。
 からかいと、そこに愛おしさを忍ばせ、太一は言う。
「これで、おそろいだな」
 笑う太一の首筋には、ヤマトよりは目立たない絆創膏が二つ、しっかりと貼られていた。



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