持ってきたぜと太一が笑顔でいうものだから、ついこんな場所で、その気になってしまった。
「へへ。照れるな」
太一が鼻を擦って、うつむいた。
「なんだよ、お前から言い出したんだろ」
「分かってるって」
それではと、ヤマトが体を倒そうとすると、太一がぽんと机に顔を伏せた。
「じゃ、頼むな」
すっと伸びた太一の指先には、袋から取り出したそれが一本。
「俺が、やるのか?」
逆を期待していたので、ヤマトは少し裏返った声で訊ねた。
「違うのか?」
すでに準備も出来たのか、太一は顔を傾けると、耳を見せた。
「やってくれよ」
「……逆じゃないのか」
太一は先にふわふわした綿が付いた耳かきを揺らして、笑った。
「耳掃除したいっていったのお前だろ」
『耳掃除をして欲しい』と言ったのだ。どこで太一は聞き間違えたのだろう。
「だから、それは……」
「あんまり、奥まで入れるなよ」
太一に笑顔で注意までされては、言い返すこともできない。ヤマトは渋々、太一から耳かきを受け取って、椅子を動かすと、太一のすぐ側に座った。
すでに太一が耳を出していたので、覗き込む。
「汚ねえぞ」
「嘘つけ」
「分かるか」
言って、ヤマトは太一の耳に思い切り息を吹きかけた。これくらいは、許されてしかるべきだ。
「うわっ」
太一が耳を押さえながら、起き上がる。夏服の袖から出た腕に、鳥肌が立っていたのをヤマトは見逃さなかった。
「なにすんだ」
「ほら、寝ろ」
涼しい顔で言って、ヤマトは太一を促した。
「わざとしただろ、お前」
机に頬を押しつけて、太一はさきほどの行為に対して、なにやら言い出した。
「俺が、ああいうの……」
太一の声が小さくなっていく。残念ながら、太一の顔は見えない位置だ。もっとも今触れている耳たぶが赤いので、想像は出来た。
こいつ、耳が弱いからなとヤマトは思ったが、さすがにそれを口にするのは控えた。
「……なあ、ヤマト」
話を改めようとしたのか、太一はまずそう呼んだ。
やり始めてしまえば、ついつい熱心に恋人の耳掃除をしていたので、ヤマトは適当な返事を返した。竹製の耳かき、太一はどこで手に入れたのか、使い心地はなかなかいい。
太一は自分で掃除をしているらしく、外で活発に動いているにしては、それほど汚れていなかった。
なんとなくつまらないが、こんな時でもないと、堂々と触れられない太一の耳たぶをつまめるので、よしとしよう。
綿を使って、そっと耳の埃を払っていると、太一がくすくす笑った。めずらしい、泡が弾けるような笑い方だ。
「くすぐったい、ヤマト」
「そうか?」
とぼけて、綿を使い、首筋もくすぐってやると、太一が笑い声を大きくして、顔をずらした。
「止めろって」
ちょっとだけ、じゃれ合うと、ヤマトは生真面目に右耳の掃除もしようと、太一を引き寄せた。
「ほら、こっち向け」
今まで机に当たっていた耳を上にさせた。
太一の吐息がたまにシャツ越しに肌をくすぐる。
「ヤマト」
呼ばれて太一を見下ろせば、すぐ近くで目があった。
「ポケットに、何入れてるんだ?」
顔は動かせないので、瞳だけをあちこちにやりながら、太一が言った。
「ガムとのど飴」
太一の目が細くなった。欲しいと言い出す前に、ヤマトはささやいた。
「後でやるな」
優しい声で言うと、太一は目だけで嬉しそうにうなずいた。
手が空いた間に指先に戻ってきた髪をかき分ける。日焼けした部分としていない部分が、分かった。左耳の時と同じように、丁寧に耳かきを動かしていく。
右耳の方が長かったのは、太一の顔がこちらを向いていたからだ。
目線を下に向ければ、すぐに太一と目が合うというのは、なかなかいい。ヤマトが見下ろすと、太一はいつも笑って見せた。
静かな教室で、そうっと太一の耳を扱っていると、太一が眠たそうな甘い息を漏らした。
「お前……上手いなあ」
太一の目がとろんと眠たげになってくる。このまま行けば、本当に眠ってしまうかもしれない。後輩達がPC教室まで、やって来るには時間があるので、それでもいいだろう。
驚かせないように、埃を飛ばそうと、柔らかく吐息を吹きかけると、太一が小さなため息をついた。
「学校じゃなくて、家でやってもらえばよかった」
そうすれば、眠ってしまえるのにと太一は残念そうに言い、手を伸ばした。
「もういい。本当に眠くなってきた」
耳かきを持った手を押さえられ、ヤマトは反論してみた。
「寝てろよ。みんなが来るまで、時間あるし」
その間、太一の寝顔は独り占めということになる。
「いい」
太一はあっさり首を振ると、起き上がった。
目をしばたかせ、肩をぐるぐる回すと、手を差し出した。
返せということらしい。
こんな折れやすい物をよく持って来れたなと、悔しさのあまり、どうでも良いことに腹を立てながら、ヤマトは太一に耳かきを返した。
「じゃ、いいぜ」
太一は右手で耳かきをつまむと、笑った。
「何が?」
「お前の番だろ」
太一の笑顔がいっそう、まぶしく見えた。
早速、机に顔を伏せかけ、ヤマトは小声で切り出した。
「あのさ、太一」
すでに肘をついていた太一は、ヤマトの顔を覗き込んだ。
「俺の頭、重いか?」
「ヤマトの頭?」
目の前のヤマトの顔と、その輪郭を囲む髪に触れて、太一は首を振った。
「別に。そんなこと、考えたことない」
ヤマトはうなずいて、さっと床の上を眺めまわした。汚くはない。
「太一、あのな……」
はっきりと口に出すのは、さすがに恥ずかしく、ヤマトは太一の耳元に唇を寄せた。
「重くないならな、俺――」
言い終えたヤマトの頬を見て、太一も赤くなった。ヤマトの頼みは、それほど奇異な事ではなかったが、ヤマトの赤い頬を見ると、自分の頬にも血が昇ってしまう。
このまま黙っていると、ヤマトが沈みそうなので、太一は早口で、答えた。
「別にいいけど、俺にもやってくれよ。今度でいいから」
ヤマトが素直にうなずく。
太一は立ち上がって、教室の後ろまで行くと、棚を背にして、座り込んだ。足を伸ばして、ぽんと膝を叩く。
「ほら、いいぜ」
照れているのか、ヤマトは真面目な顔つきで、太一の横にしゃがみ込む。
腿の辺りにかかってきたヤマトの重みと、髪が滑る感触が、布地を挟んで、感じられた。
「お前、結構……」
からかいかけて、太一は口をつぐむと、そっとヤマトの顔を覗いてみた。
眉の間に皺を寄せて、目をつぶっている。膝枕ごときで、そんなに緊張しなくてもと思うが、これもヤマトらしいかもなと、太一は微笑した。
「あんまり、乱暴にするなよ」
「分かってる」
ぶっきらぼうな口調に太一は笑い、ヤマトの髪を大切そうに梳いてやると、耳かきを動かし始めた。
「お前も、上手い」
無事に右耳を終えて、反対側の耳を始めた太一にヤマトが言った。
「そうか?」
「ああ」
ヤマトは手を伸ばして、太一のシャツをつまんだ。着慣れた柔らかい感触が、気持ちいい。
「なんだよ」
「ここ、染みがある」
ヤマトの耳たぶを太一は引っ張った。
「コーヒー飲んだときのだろ」
「帰り、寄ってけよ。染み抜きしてやる」
「俺の家でも洗濯ぐらいするぞ」
遠回しな誘いに太一はおかしくなった。
「染みを抜くのって、早いほうがいいんだ。絶対」
これをまた、真剣な口調で言うのが、たまらない。まるで、このコーヒーの染みが消えなければ、世界が終わるような言い方をするのだ。
「――分かった。染み抜き、頼むな」
「ああ」
顔を太一の腹部に向けたまま、ヤマトはにっこり笑った。
「あ、ヤマト、動くな」
手元がずれて、太一は焦った声を出した。
「動いてない」
太一の手が離れたので、ヤマトは嘘を言うと、肩を動かして、太一にもっと近づいた。
「耳の穴、見えねえよ」
ぴたりとくっついてきたヤマトに、太一は苦笑した。
「家で、やってくれ」
猫のように身を丸めようとするヤマトに呆れて、太一はその頭を軽くこづいた。
「今、でっかいの取れそうだったんだからさ。ちょっと、向こうに行けよ」
「帰ってからでいい」
「耳の中、ごろごろしないか?」
ヤマトは頭を振って、また太一の膝に頭を戻した。
「するけど、我慢する」
「ばか」
耳がよく見える場所まで、ヤマトを押しやろうとして、太一は腕を上げた。
「ヤマト、言うこと聞けって」
「太一こそ、どこ、触ってんだよ」
太一も怒っているわけではない。ヤマトもそれは分かっているので、さきほど、少しだけやったじゃれ合いの続きをやっているようなものだった。
「耳、引っ張るぞ」
「俺だって、シャツのボタン、取るからな」
太一は耳かき片手に、ヤマトは太一の膝の上で、じっとにらみ合った。
にらめっこをした挙げ句、視線が緩んで、吹き出しそうになったとき、勢いよく、扉が開いた。
「すいません、遅くなって――」
「先生もしつこいだぎゃー」
ウパモンを抱えて、教室に駆け込もうとした伊織は、床の上の先輩二人に、目を見開いた。
相当にくつろいだ様子のヤマト、頭は太一の膝の上。
その頭を抱くようにして、身を乗り出している太一、手には耳かき。
伊織はまばたきを二回した。一度目は、見間違えではないか、確認するため。二度目はどういうことなのか、考えるため。
焦った太一とヤマトが身を起こす前に、伊織は後ずさると、室内のうろたえるような様子は無視して、ドアを静かに閉めた。
――静かな廊下で、一人考え込んだ。
「何だったんでしょう。今の」
「太一とヤマトだったぎゃ」
「ええ、お二人でした」
まだまだ、自分はいたらないと伊織は思いかけ、首を振った。
これでも知識と誠実の紋章を受け継いだのだ。何も知らないままにはしておけない。小さな横顔に、誠実さを溢れさせ、両の目に好奇心を宿すと、伊織はうなずいた。
どうしたのかなと、幼さに似合わない口調で、突然呼び出した非礼を詫びる伊織を見つめ、丈と光子郎はほほえんだ。
「それで、どうしたんですか」
「実は、お二人に訊ねたいことがあって」
シェイクのカップを横にやり、椅子の上のウパモンに残りを全部上げてしまうと、伊織は二人を見上げた。
少し不安が漂う瞳に、丈は力づけるようにうなずいた。
「いいんだよ、分からないことがあったら、聞いてくれても」
それに励まされたのか、伊織は静かに訊ねた。
「――仲のよい、友人同士でしたら、やはり耳かきなどのスキンシップをやるものなのでしょうか」
「耳かき?」
「スキンシップ?」
丈と光子郎は、二人そろって同じくらいに目を大きく見開いた。
「はい。膝枕もです。僕は、ああいうものは、親子なんかでという思いこみがあったので……狭量な自分が恥ずかしいです」
恥ずかしいのは、その友人同士だと、丈も光子郎も思い、それが誰かにも思い当たった。
ごく親しい知り合いに、いるではないか。その恥ずかしい友人同士とやらが。
急に伊織を見つめることが出来なくなり、丈と光子郎は目を伏せた。
「やっぱり、丈さんや光子郎さんも御友人と耳かきをしますか」
「しません!」
「やらないよ!」
異口同音に否定して、丈と光子郎は、この一番小さな後輩に何をどうやって、伝えるべきか、目線で相談し合った。
「……だから、伊織君が見たのは、特殊な例です」
光子郎の言葉に、丈は大きくうなずいた。
「そ、そう。特別だったんだよ」
「めずらしいことなんですか?」
とまどうように伊織は、身を乗り出してきた丈と光子郎を見つめた。
「二人には珍しくは……じゃなくて、そんな感じかな、特別」
「限られたグループでのサインみたいな物ですよ。ヤマトさんや太一さんの間でだけ、通用するサインというか……」
伊織はうなずきかけ、また不思議そうに訊ねた。
「どうして、ヤマトさんと太一さんだと分かったんですか?」
丈と光子郎が、伊織の納得のいく問いを考え出すのには、もう少し時間が必要だった。
ありがとうございましたと、丁寧に礼を言う伊織がエレベータで上へ上がっていくのを、見届けると、光子郎と丈は視線を合わせた。
丈は幾分げっそりした顔つきで、小さくため息をついた。
すでに日も暮れて、街は暗い。
「びっくりしたよ」
「僕もです」
光子郎もため息をついた。
まるきりの嘘をつくわけにも、かといって正直すぎる答えを返すのも難しい。素直な心のままに、質問を投げかける伊織の眼差しは、それゆえにごまかしきれるものではなかった。
何とか納得はしてくれたらしいが、まだ不安はある。
「……ヤマトさんには、僕から言います」
太一に自分が言っても、聞き流されそうだと光子郎は言った。
「じゃあ、僕は太一で」
「はい」
疲れたようにうなずきあい、挨拶を交わすと、丈と光子郎はそれぞれ、自宅まで帰っていった。
当日の夜、それは、だからなどと、言い訳を述べたがるヤマトと太一には自粛という二文字が教えられ、中学校でもそうだが、特に小学校内でのいかがわしい行為は慎むべきとも言い渡された。
「あいつら、何才なんだ。いかがわしいとか言って、オヤジくさい」
光子郎に電話口で怒られるヤマトを笑いながら見ていた太一だったが、居場所を知った丈から、やはり電話で同じ事を言われてしまい、むっとしたように言って、ソファに転がった。
「だいたい耳かきのどこがエッチなんだよ」
ごそごそと身動きして、ヤマトの膝の上に頭をのせる。
太一の髪を指先で梳くと、中断されていた耳かきを再開し、ヤマトはぼそりとつぶやいた。
「……それは、俺も思うけど……まあ、気をつけような」
伊織に目撃されたのは、確かに居心地が悪い。
それは太一も同じだったので、それ以上文句も言わず、おとなしくなった。
耳かきを終えると、その雰囲気のまま、ベッドになだれ込んで、ヤマトと太一は、一時だけ、友人たちの苦言を忘れた。
ベッドで互いの肌と唇をぶつけ合い、特に意味のない睦言も楽しむと、ヤマトは身を起こした。
太一のシャツは乾いたかと、ベランダに確かめに行く。
「朝には、乾いてると思う」
薄暗い部屋に戻ってくると、太一が身を起こして、自分の手をじっと見つめている。
「太一?」
隣に腰かけたヤマトの手を、太一が取った。つられて、ヤマトは太一の手を握りしめる。
太一の唇に、悪戯っぽい笑みが浮かんだ。
「なあ、耳かきが駄目なら――」
――結局、一週間後には、爪切りの禁止令が出されることになった。
そういうことは家でやって下さいと、しごくもっともな言葉は光子郎が、爪が飛んだら床が汚れるしねと、少しずれた言葉は丈が言ったものだが、今度こそヤマトと太一は言い返せなかった。
タケルとヒカリに見られては、どうしようもない。
嘆く兄たちの悲哀をよそに、ヒカリとタケルはしばらく、ヤマトと太一に対して、口も聞こうとしなかった。