たぶん、今までの疲れが溜まっていたのだろう。ヒカリの熱は二日目になっても下がらなかった。
ヒカリの部屋のドアの前でうろうろと行ったり来たりするテイルモンに太一は声をかけた。
「入るのか?」
太一を見上げたテイルモンの目は鋭かったが、太一はドアを開けてやろうとした。
「いい。ヒカリの迷惑になる」
テイルモンはちらりと薄暗い部屋の奥を見やったが、すぐに首を振った。
「ちょっと顔を見るだけでもいいんじゃないか」
「いいよ」
テイルモンは体を使ってドアを上手く閉めると、太一の脇をすり抜けた。
「太一は出かけないの」
ソファに座って、太一を振り返ったテイルモンの目がキラリと光る。
「俺は留守番。ヒカリを一人にはしとけないだろ」
天気の良い休日、出かけるわけでもなく、買い物に行った母に言われたとおり、太一は留守番をしていた。
「ふうん。でも私がいるよ」
太一は微笑して、テイルモンの横に座った。
ヒカリの熱のせいか、テイルモンは少し苛立っているようだ。
「でも俺もいた方がいいときだってあるだろ」
一応、兄貴なんだからと言うとテイルモンは耳を少し垂らした。尾もだらりと力無く、ソファの上に投げ出されている。
「ヒカリの熱、下がるかな」
「大丈夫だって。明日か明後日には下がってるよ」
急に元気のなくなったテイルモンに手を伸ばしかけ、太一は引っ込めた。猫のように触っていいものかと迷ったのだ。
気安く触ると、途端に引っかかれそうである。
「ヒカリ、金曜日にだるいって言ってた」
「……」
たしかにヒカリは金曜日の夜に発熱し、土曜日は病院に行くときと用を足しに行くとき以外はベッドで眠っていた。
こんなことは久しぶりと母も心配そうで、買い物へも太一が半ば強引に行かせたのである。
「私がもう少し気をつけていればよかったんだ」
――テイルモンの垂れたままの耳と、沈んだ目の色に太一は頭に手を置いた。
アグモンの少し冷たい肌を思い出しながら、柔らかい白い毛を撫でる。
テイルモンは太一をちらりと見たが、それだけで別に嫌がりはしなかった。
「ちゃんと病院にも行ったから、大丈夫だって」
「そうかな……」
「ああ」
太一が力強くうなずいてみせると、テイルモンの目が和らいだ。
「そう」
飛行機が通り過ぎた後、テイルモンはためらったように太一を見上げた。
「太一」
「うん?」
やっぱり嫌だったかなと太一はテイルモンに触れていた手を引っ込め、膝に戻した。
「悪い」
テイルモンは不思議そうにまばたきすると、太一が謝った意味に気づき、あわてて首を振った。
「違う。別に嫌だった訳じゃない」
触れてきた手はやっぱりヒカリにどこか似ていた。こういう、ほんのちょっとした瞬間に、ヒカリと太一はやはり兄妹なのだなとテイルモンは思う。
だから、たまにつらくなる。
我慢したり、ぎりぎりまで言わなかったりするところも似ているところがあるからだ。
ヒカリが体のだるさを我慢していたように、太一も今、我慢しているだろう。きっと、三年前から今もずっと。
「――太一」
太一の顔は見ないまま、テイルモンは訊いた。
「アグモンに会いたい?」
太一が自分の方を見るのが分かった。それから、笑った気配がして、太一の優しげな声も聞こえた。
「気にしてるのか」
「そうじゃない……。そうじゃないんだけど」
――ヒカリに会いたかった。また会えて、今度は一緒に暮らせる。
朝起きるとヒカリがいて、一緒に散歩に出かけたり、ご飯を食べたり、学校にも行って、何をしているか見られる。側にいられるのだ。
こんなに嬉しいから、側にいるもう一人のことが、少し離れている他の子供たちのことが気になる。
あちらにいる仲間のデジモン達が気になる。
「今は会おうと思えば、会えるだろ」
黙り込んだテイルモンに太一が言った。
「ゲートが閉じてるわけじゃないし」
「そうだけど」
太一は考え込むように腕をくんだ。
「今は色々大変だし……とくにテイルモン達は大変だろ」
太一はふっとため息をついた。
「だから、一緒に居た方がいいんじゃないか」
「大変だから、一緒にいる?」
大変とは言っても三年前だって今と同じくらい大変だった。
「うーん。だから戦って、疲れても一緒に帰ってこられるだろ」
自分で言って、太一も分からなくなったらしい。難しい顔になった。
「それにお前とヒカリは、俺達と違って最初から一緒にはいられなかったし」
「じゃあ、タケルとパタモンは?」
太一はますます難しい顔になった。
「あいつらは……小さかったから、俺達はタケルよりは大きかったから……」
そこで太一は微笑した。テイルモンも少し笑った。年齢など関係なく、別れは寂しくつらいものだ。
言った太一も、聞いたテイルモンも同時に気づき、笑った。
「――そりゃ、アグモンと一緒にいられたらって思うぜ」
可笑しいような可笑しくないような、不思議な笑いを収めて、太一はため息と一緒につぶやいた。
「でも、できないし、それに会おうと思えば会えるから――いいよ、気にするなよ」
太一は言って、ぽんとテイルモンの頭を軽く撫でるようにして叩いた。
「それにアグモンがこっちにいたら、食費がかかるしな」
今度こそ、太一は本当に笑い、まだ沈んでいるテイルモンに何か食べるかと聞いた。
「父さんのおつまみが残ってたと思うけど……いるか?」
冷蔵庫を開けて、太一はチーズ蒲鉾をテイルモンに差し出して見せた。
自分はバナナをかごから取って、ふたたびソファに腰掛ける。
テイルモンは受け取ったチーズ蒲鉾を食べようともせず、太一をじっと見ている。
「何だ?」
バナナも欲しいのかなと太一は思ったが、テイルモンは目をまたたかせた。
「私、ヒカリが太一のこと好きなの、分かる気がする」
「……へえ」
太一は照れくさそうな顔をした。
「ヒカリ、俺のことテイルモンに話してるんだ」
「いっぱい聞いたよ。太一が小さい頃のこととか、たくさんヒカリが教えてくれた」
一人と一匹はヒカリのドアの方に目をやり、ほほえみあった。
「じゃ、俺もヒカリの小さい頃のこと、教えてやろうか」
「教えて」
テイルモンがうなずいた。
昔のことをゆっくり思い出しながら、太一はヒカリの小さい頃を話してやった。ヒカリを泣かせたことも、逆に笑わせたことも、たくさん話してやった。
テイルモンの目が、太一の言葉に誘われたように鋭くなったり、和んだりする。
不安が消えたような笑い声がテイルモンから洩れるのを聞いて、太一も笑った。
――ただし、ヒカリが目を覚まさないように、小さい忍び笑いではあったが。
話が一段落すると、ふたたび太一は立ち上がってテイルモンと自分用にジュースを持ってきた。
「あとでヒカリにも持っていくか」
百パーセントのオレンジジュースだから、風邪にはいいだろう。
テイルモンはうなずいて、早速とでも言うようにソファから降り立った。
太一は新しいグラスにジュースをそそぎ、テイルモンと足音を忍ばせながら、ヒカリの部屋のドアを開けた。
寝返りを打つ音がして、ヒカリのかすれた声が響く。
「お兄ちゃん? テイルモン?」
「ええ、ヒカリ。……喉乾いていない?」
「オレンジジュース持ってきたんだ」
「うん」
ヒカリが起き上がる。少し咳き込んで、赤い頬のままテイルモンと太一を見つめる。
テイルモンがそうっと枕元に上がり、太一から受け取ったグラスをヒカリに差し出した。
冷たいジュースを飲むと、ヒカリが小さくため息をついた。
「美味しい。ありがとう」
太一はジュースを飲み終えたヒカリの額に手をやって、ほっとしたような声を出した。
「だいぶ下がってる。あとでお粥食べろよ。持ってきてやるから」
「うん」
ヒカリはまたベッドに横になる。
一度、閉じかけた目を開き、グラスを持った太一と、枕元から降りたテイルモンに不安そうなまなざしを向けた。
「お兄ちゃん、どこか行く?」
「行かないよ」
「テイルモンは?」
「ヒカリが元気になるまで、ここにいる」
ヒカリは嬉しそうにテイルモンと太一に笑いかけ、ようやく目を閉じる。
テイルモンと二人でヒカリの顔をのぞきながら、太一はテイルモンにしたようにそっとヒカリの頭を撫でた。
ヒカリが寝付いてしまうと、またこっそり足音を立てないように部屋を出て、テイルモンと太一は視線を交わした。
「熱、だいぶ下がってたぜ」
「うん、良かった」
うなずきあって、太一は思いついたようにドアを開けた。
「太一?」
「ヒカリの側にいてやれよ」
テイルモンは太一を見上げ、迷うように部屋中を見る。
「もうすぐ母さんも帰ってくるし」
「じゃあ、そうさせてもらう」
テイルモンはさっとそれほど大きくもないドアの隙間から部屋に入る。
太一がドアを閉めようとする前に、テイルモンの小さな声でありがとうと聞こえた。
「……」
驚きと照れとが混じった微笑を浮かべて、太一はドアをそっと閉める。
静かな部屋を見まわし、さきほどテイルモンと並んで座ったソファにまた座った。
ふと気まぐれに、テイルモンが座っていた場所に触れてみた。まだ残るあたたかい感触。太一はため息をつきかけ、首を振った。
ポケットに入れていたデジヴァイスを取り出す。
画面に今は何の反応もない。
デジヴァイスを握りしめ、太一はしばらく何か考えにふけっているようだった。やがて気を取り直したのか、太一は顔を上げる。
自分の部屋に戻ろうと立ち上がったところに、電話が鳴る。受話器を取り上げた太一の顔が柔らかくなった。
「よお、ヤマト」
大きくなりかけた声を潜め、太一はコードレスホンを持って、自室のドアを開ける。
「そうだな、だいぶ下がってる。……うん、タケルにも言っておいてくれよ。明後日くらいだったら学校は大丈夫だと思う」
空気の入れ換えをしていたので、開けっ放しの窓から入る風にカーテンがはためいてる。
「……お前、今なにしてるんだ?」
太一は窓に近づいて、下から見える団地の風景を眺めた。
風は少し冷たかった。並木の葉が散っていくのが見える。
「練習? ああ、スタジオにいるのか。え、行けえねよ。ヒカリが寝てるし」
窓を閉めようとした太一は手を止めた。
「なに言ってるんだよ。別に、そんなわけ――」
言葉を途切れさせ、太一はそうかもしれないとつぶやいた。
「言っておくけどお前に会えなくて、寂しい訳じゃないからな」
太一は静かになった受話器の向こうに、冗談だと謝って壁にもたれかかった。
少しの沈黙のあと、ためらいがちに切り出した。
「なあ、全部終わって……うん、そう、デジタルワールドのことだよ。それで、あっちも平和になって、それでもゲートがまだ開いてて、俺達も行けるなら――」
太一はデジヴァイスが入っているポケットに触れた。絆が無くなったわけではない。あの世界はちゃんと存在しているのだ。
「みんなでさ、あっちにまた行こうぜ。一日中でもいいし、泊まりがけでもいいし」
目を閉じて、ヤマトの言葉にうなずく。
「ああ。丈も空もミミちゃんも、光子郎もみんなで。大輔達も一緒にさ、行って遊んでこようぜ」
太一は鼻をこすり、ヤマトの言葉に笑った。
「泣いてねえよ、お前じゃないんだから」
何か文句をぶつぶつ言っているヤマトと、もう少し話をしていたかったが、ヤマトを呼ぶ声が聞こえた。
「――じゃあな。がんばれよ」
電話を切る前に、テイルモンの真似をしたわけではないが、太一は小さな声で言った。
「ヤマト、ありがとうな」
ヤマトが早口に言った言葉に太一は顔を赤くし、少しうろたえた。
電話を切って、もう一度窓のそばに近づく。
受話器の向こうのヤマトの顔を思い出し、たった今聞いたばかりの言葉も思い出す。
よくも、公衆電話であんなことが言えたものだ。
誰が聞いているのかも分からないのに――太一は幸せそうに笑った。
ヤマトがそう言うのなら、自分だってガブモンの分もヤマトの側にいてやろうではないか。
晴れ晴れしたような顔で太一はまた笑い、買い物から帰ってきたらしい母の手伝いでもしようと、電話を持ったまま、部屋から出ていった。
あとはまた、秋の風にカーテンがはためく、静かな太一の部屋だった。