チョコレート口





 台場中一のチョコレート贈呈数を誇る石田ヤマトが、あろうことか、二月十四日、チョコレートの食べ過ぎで鼻血を出したというニュースは当日中に、校内に広まった。
 男子生徒たちはひそかに、これで彼の伝説――ヤマトに贈られるチョコレート数は、他校の女子生徒のものも加わり、年々莫大なものになっていた――にも打ち止めがかかるだろうと予想し、快哉を上げたが、逆に女子生徒たちの保護欲が刺激され、来年からはという新たな闘志を生み出す結果に終わった。
 鼻血、という顔立ちには少々、似合わない状態になったヤマトだが、女生徒たちは心配そうな視線をヤマトに送り、男子生徒たちは、一度でもいいから鼻血が出るほどチョコが欲しいと言いたげな眼差しをヤマトに向けた。どちらにしても損はしていないヤマトだ。
 彼を笑ったのはよほど親しい友人たちで、それも控えめな笑いだった。ヤマトの眼光のせいだという説もある。
 唯一の例外は太一で、彼にはヤマトの視線や不機嫌な顔はきかない。むしろ、笑いを呼ぶだけだ。今や太一はヤマトの目の前で遠慮無しに笑い、呼吸困難になりかけている。
「――太一」
 咳払いと共に、ヤマトは太一を軽く睨んだ。
「ご、ごめん……。でも、お前、鼻血って――」
 また笑い声が続く。
 太一の機嫌が悪くなるのが避けられたのは嬉しいが、ここまで笑い者になるのが気にくわない。大体、誤解があるのだ。
「言っとくけど、チョコは一個も食ってない。鼻血が出たのは偶然だ」
 登校中にもらったチョコレート、靴箱に入っていたチョコレート、机に置かれていたチョコレート、廊下でもらったチョコレート。教室に入るまでに差し出されたチョコの回収を無事に終え、この時期に活躍してくれる紙袋に仕舞った。断ったとしても、魔法のようにチョコはヤマトの鞄や机やポケットに入ってくるのだ。ならば、受け取った方がまだいかもしれない。
 朝の一時間だけでも相当な重さになったが、一日は長い。まいったなと机にこしかけたとき、ヤマトは机の上に落ちた赤い雫に眼をしばたかせた。同時に友人から驚きの声が上がり、ヤマトは鼻の下と唇を伝う血に気づいた。
 それが鼻血だったのだ。素早く、上を向いたので、制服に染みを作るのは避けられた。洗濯の手間ははぶけたので、ほっとした。
 それにしても、応急処置として、鼻の穴にティッシュを詰めている間、女子生徒たちから悲鳴が上がった理由が理解できなかった。いいではないか。鼻に血止めのティッシュを詰めるくらい。鼻水だって、出るときもあるというのに、鼻血くらい。
 ――悪いのは、からかってくる太一の笑顔だ。
「俺も見たかったな。鼻の穴にティッシュ突っ込んだヤマト」
 太一がにやにや笑いながら言う。その頭をくしゃくしゃにして懲らしめた後、ヤマトはキッチンに向かった。
 用意していた箱を棚から取り出して、太一の前に置く。
「俺から」
 太一が頬杖をついて、ヤマトを見上げる。照れたような笑みが頬にちらりと浮かんだ。この笑い方がヤマトは好きだった。もちろん、さきほどのようなからかいの笑みも好きだ。要するに太一が好きだ。
「何、作ったんだ」
「チョコケーキ」
 太一は箱の蓋を持ち上げて、笑みを深くした。
「すごいな」
 ケーキの深いカカオ色は鏡のように光って、太一に食べられるのを待っているようだった。
「全部、お前のだ」
 言外に自分の分は太一からもらうのだと含ませた。
 途端に太一が気まずげな顔になって、ポケットを探った。
 せっかくだから、バレンタインデーにチョコレートの贈り合いをしようと決めたのが昨年で、今年が二回目だ。昨年、もらったのはブランデーの入ったチョコで、酔っぱらったとお互いに言い合いながら、キスをした。
 楽しかった思い出だが、今年の太一の顔はどういうことだろう。
 しかし、忘れていたわけではなかったらしく、太一がポケットから取り出したのは、外国製の板チョコだった。
「俺から」
 受け取りながらも、ヤマトは眉をひそめた。
「お前……割引シールくらい、剥がしてくれよ」
「あっ!」
 しかも五割引だ。
 板チョコの端にくっついているオレンジ色の割引シールをヤマトは指先で引っ張った。
「悪かった」
 太一が素直に謝ってくる。ヤマトの贈ったものと比べると、見劣りするのは確かだ。
 怒りはしないが悲しくなり、ヤマトはうなだれた。今日一日、この交換を楽しみに過ごしてきたというのに、それが五割引の板チョコだったとは。
 あまり気にすると、太一に気遣いをさせることになると承知しても、ヤマトはため息をついてしまった。
 五割引。そんな文字が頭の上にのしかかってくる。不満ではないけれど、悲しい。その日使う生鮮食品や総菜なら嬉しい五割引だが、チョコレートではあまりに切ない。
「ごめん、ヤマト」
「俺、恥ずかしいの我慢して、売場に行ったんだぜ」
 材料とラッピング用品は、この時期、種類豊富に揃っているが、その分近づきにくい。恥ずかしさを押して行った自分を思い出し、ヤマトはますます落ち込んだ。
「じろじろ見られてさ……」
「俺だって、コンビニのレジで――」
 言いかけて、太一は口を閉じたが、遅かった。
「コンビニ……。そうか、コンビニの割引チョコか」
 ヤマトはじっとりした視線を太一に向け、目を逸らした。太一はあわてて、失言を取り繕うとしたが、上手く行かなかった。
「このチョコ、うまいって聞いてさ」
「誰から」
「今日、チョコくれた子が……」
「へえ」
 太一はヤマトを見て、自分が失敗したことに気づいた。まずい。完璧にヤマトはむくれてしまった。
「もういい」
「ヤマト」
 ぷいと顔を背け、ヤマトは椅子から立ち上がるとソファに座った。
「ヤマト、ごめん」
 ヤマトは黙っている。その内、くしゃくしゃになっていた新聞を畳み始めた。
「来年は、絶対、ちゃんとしたの贈るから」
 太一はヤマトを追い、ソファの横に座った。
「コンビニで買った割引じゃない、ちゃんとしたチョコか」
 拗ねた口調でヤマトは言い、横に座った太一から離れた。
「ヤマト」
 太一は苦笑し、ヤマトの腕を取った。
「怒るなよ」
「……」
 太一をちらりと見て、ヤマトは腕を払った。ヤマト、ヤマトと呼びかける太一を無視して、ついにヤマトは太一に背中を向けてしまった。
 がっかりと大きく書かれているような背中だ。太一は気の利かない自分に腹を立てながら、ヤマトの背中に手を置いた。
「ヤマト」
 ヤマトは振り向かない。空気がどんよりと曇ってきた気がし、太一は頭を抱えたくなった。確かに割り引きシールはまずかった。この場合、全面的に自分が悪い。ヤマトが期待していたのは分かっていたのだ。
 どうにか、機嫌を直してもらおうと、太一はヤマトに顔を寄せたが、途中で気を変えた。立ち上がって、自分が贈ったチョコレートを持ってくる。包み紙と銀紙を破り、力を込めて、チョコレートを割った。ぱきんと音を立てて、チョコレートの一部が太一の手に残る。
 ヤマトの心も割れているのかと考えながら、太一は小さな破片を口に含み、顔を近づけた。
「……」
 ヤマトに鋭い視線を送られたが、太一は構わずに破片をヤマトの口に当てた。ヤマトが受け入れなければ、チョコレートは下に落ちてしまう。
 ずるいと心で呟いて、ヤマトは薄く唇を開き、太一の唇から贈られたチョコを食べた。そのままチョコレートの匂いを漂わせ、口づけあう。とろけて、柔らかくなったチョコレートが太一の舌と一緒になって、ヤマトをなだめた。
 ヤマトの唇についたチョコレートを指先で拭って、太一はヤマトの頬を挟んだ。
「本当にごめんな、ヤマト。俺が悪かった」
 こんなに簡単に機嫌を直すのもヤマトには癪だったが、うきうきしてくるのは仕方ない。太一に単純な男などと思われないだろうか。ビター味のキス一度で喜んでいる自分を隠して、ヤマトは太一の瞳を覗き込んだ。
 太一は真剣な顔をしていた。ごめんと瞳でも呟いている。ヤマトの言葉でつつけば、ぱちんと破裂して、涙が出るかもしれなかった。俺もしょうがない奴だとため息をついて、ヤマトは太一を抱き寄せた。
「……来年は期待していいか」
「ちゃんとしたの贈る」
 太一が身をまかせてきた。膝の上で抱いて、ヤマトはため息をついた。
「くやしい」
「何が?」
 太一の息が首に吹きかかる。
「俺の扱い方、簡単だと思っただろう。すぐ、機嫌なおしてさ」
「俺は、ヤマトみたいに扱いにくい奴、見たことねえよ」
 太一に実感のこもるしみじみした声で呟かれ、ヤマトは仏頂面で訊ねた。
「……面倒くさいか」
「別に」
 一言でもってヤマトの不安を払った太一は、次の一言で更に落ち込ませた。
「今はコツ、覚えたし、お前って、元々こういう奴だろ。あ、怒るな」
 太一が横を向こうとしたヤマトの頬を押さえる。ヤマトの頬に悪戯し、奇妙な膨れ面にさせてから、太一は言った。
「俺は面倒くさい奴の方が好きだからな?」
「フォローになってない」
「これは?」
 唇同士が触れたとき、わざと音が鳴るようにしたに違いない。離れた太一の唇が笑っている。
「……なってるから、くやしいんだよ」
 太一と額を合わせて、にらめっこをしながら、見つめあった。太一の負けでにらめっこが終わった後、太一が思いだしたように言った。
「ヤマト、教えろよ」
「何を?」
 太一をくすぐろうとしたのがばれたのかもしれない。ヤマトは動かそうとした指先を止めた。
 太一がヤマトの頬から手を離し、鼻先をつまんだ。
「今朝は鼻血出すようなこと、考えたんだろ?」
 首を振って、嘘をついた。太一がきゅっと鼻をつまむ手に力をこめる。
「考えただろ」
 太一の手がヤマトの鼻から離れ、何やら不審な動きを見せ始めた。この動きを続けられたら、まずいのでベルトをいじくる太一の手を取った。
 にやにや笑っている太一をこらしめたく、ヤマトは強引に唇を重ねてみた。離しても、太一は黙らない。
「言えよ」
 ヤマトは素知らぬ顔で太一の唇に触れる。親指の先で押して、色づかせた。
 太一はヤマトの手首を押さえ、質問を変えた。
「今は?」
 ヤマトは黙秘した。言ってやらない。代わりに太一の唇をなぞる。
「なあ、今は?」
 嬉しそうに太一が訊いてくる。太一を膝に乗せたまま、ヤマトは声に出さない嘘をついた。
 まず、太一の脇腹をくすぐる。ひゃっと小さな叫びが聞こえた。驚いたままの唇にキスをして、ヤマトは太一を抱きしめた。
「考えてない」
「絶対、考えてる」
 ヤマトを抱き返して、太一は笑った。
「そうじゃないなら、なんだよ、この手は」
 体を探るヤマトの手を太一は楽しそうに叩いた。
「なんだろうな、この手」
 同じような言葉を返して、ヤマトの手は太一の手が届きにくい場所まで這い上がり、噛めばチョコより甘いはずの箇所をつまむ。
 そうやって、あっという間に服の内側に入ってきたヤマトの手を、太一が振りほどかないでいると、くすぐられて笑わされ、意地悪につつかれ、優しく組み敷かれ、結局、泣かされてしまったのだ。

 ソファの上で、くたびれた体を横たえていた太一は、もそもそと頭を動かし、ヤマトの膝に頭を乗せた。
「疲れた」
「……俺も」
 太一が風邪を引かないように、上着を裸の肩と下肢にかけてやると、ヤマトは太一の頭に手を置いた。根元が湿った髪を梳いてやる。ヤマトに押されて、髪を乱し、汗を流した太一は目を細めた。くすぐったく、気持ちいい。
 ヤマトに髪の毛を整えてもらうと、太一は視線を上に上げ、テーブルを指差した。
「ケーキ、食おうか。二人で」
 身を屈め、ヤマトは太一の頬を挟む。頬はまだ熱く、赤いけれど、だいぶ落ち着いてきている。
「俺の?」
「そう。お前の作ったケーキ」
 太一の頭をクッションに置き直して、ヤマトはテーブルまで歩き、ケーキを持ってきた。太一の頭を膝に戻し、箱を開ける。
 太一は口を開けて待っていたが、視線だを動かして、ヤマトのケーキを確認する。
「うまそう」
 素直な笑みが唇に浮かんでいる。
 太一の誉め言葉と、それ以上に賛嘆を伝える笑みにヤマトも微笑した。ケーキを指先で摘み、太一の口に運ぶ。
「うん、うまい」
 ご褒美だろうか。指先まで太一に甘噛みされる。
 薄く歯形が残る指で、ヤマトもケーキを頬張った。ほろ苦くもあるが、汗を流した体にケーキの甘みが染みわたっていく。
 太一が寝返りを打ったので、ヤマトはケーキを持った手を上に上げる。自堕落な姿勢で上半身を起こし、ヤマトの膝にもたれかかると、太一は手をのばした。
「ほら」
 ヤマトが箱を差し出すと、太一は最初に崩した部分ではなく、別の部分をつまんだ。太一の指先を追って、ヤマトは目を動かす。
 ココア色したスポンジをつまんだ指が近づくと唇が開き、歯と舌が見える。指先に付いたかけらまで舐める太一の仕草には、情事の後の気怠さがあり、いっそう悩ましい。自分でも気がつかない内にヤマトの息が熱っぽくなった。
 ケーキを食べ続けていた太一はヤマトの目に気づき、指の行方を変えた。  ヤマトは口を開き、太一にケーキを食べさせてもらう。ついでに、太一の指を噛んで、握りしめた。一本、一本に口づけ、かけらを食べてしまうと、ヤマトは太一を見つめた。
「甘いな」
 それでも、もっと欲しくなった。食べたくて仕方ない。
「そうだな……甘い」
 目で確認し合うと、唇を重ねた。キスが終わると、太一はソファに横たわり、腕を広げて、ヤマトを呼ぶ。
 ヤマトはケーキの箱を床に置いた。残りはまた後だ。楽しみの後に、また楽しみが残っている。
 乱れた服の上にある太一の体に、ヤマトは自分の体を重ね、足を絡めた。
 胸に口づけていると、太一に抱きしめられる。耳元で得意げにささやかれた。
「鼻血、出そうだろ」
 ヤマトは堪えきれず、吹き出した。
 ――降参だ。白状しよう。顔を上げ、同じように笑っている太一を見つけた。
「出そうだ」
「よし」
 しがみついてくる太一に応えて、ヤマトは体をそっと沈めていく。
 いつのまにか、五割引板チョコだけでも、充分に嬉しい二月十四日に変わっていた。


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