ヤマトの蹴った星は、きらきら音を立てて、地上へ落ちていった。
歩く道は白く光りながら、遠い先まで続いている。両脇の闇に目もくれず、足下でぼうっと輝く幾つかの花を踏みしめた。
この道の果てに、太一がいる。
横を足音も立てず歩く、ガルルモンのたてがみが、風に揺らされて、ヤマトの腕をくすぐった。
小さな星屑が流れる川を越え、幾つもの星の破片をこしらえながら、ヤマトは歩いた。
もう二度と、また逢おうと言わぬために、その時までの別れの言葉を口にしないため、ヤマトは太一の元へ急ぐ。
月は微かに青く光るだけ、今日は闇の濃い日だ。
ヤマトが歩く道だけが、光っていた。
太一の足下の川は、静かに光っている。
水と星の輝きが重なって、不思議な揺らめきを見せていた。川底には魚が這い、あちこちで水音が響く。
小橋に腰を下ろし、足首まで水に浸した。
流れが少しだけ乱れて、また何事もなかったように流れていく。たまに肌に星屑が当たり、光っては、砕けた。
川岸で眠ったグレイモンに起きる気配はない。
爪先を伸ばし、そこに積もった砂をかき回した。たちまち濁る川から、星の光が消えた。
ヤマトの姿はまだ見えなかったが、太一は道の果てに、彼の姿を探した。
もう二度と離れないために、再会の日を待たないために、太一はヤマトを待つ。
川底の泥が沈んだ。清らかな流れから足を引き抜くと、雫が舞い、星よりも弱く光った。
※
――釣り糸を垂れていたが、魚が釣れるのを待っていたわけではなかった。時間つぶしにでもなればと、小川までやって来たのだ。
ガブモンが眠たそうに、ヤマトの背にもたれかかっている。
「釣れないなら、帰ろうよ」
「ああ」
同じやり取りを、飽かずに繰り返して、ヤマトはたまに釣り竿を動かす。
揺らしたなら、生き餌と間違えて、魚が食いつくかもしれない。しかし、それも、ガブモンが黙ってしまうまでだ。
ただ糸を垂らすだけのヤマトに呆れて、ガブモンはまた静かになった。
せせらぎだけが聞こえる川辺で、相棒と同じように、ヤマトはたまに浮きを見るだけで、うつらうつらしていた。
わずかな眠りを妨げたのは、竿の手応えではなく、水の流れとは違う、水音だった。
川上から、少年がやって来る。膝下まで、水に浸してこちらに近づいてきていた。
その奇妙な光景が驚きを麻痺させたので、慌てもせず、ヤマトは少年は何をしているのだろうと、様子を眺めていた。
眉を寄せて、じっと水面を見つめていた少年の目が、急にヤマトに向けられた。
たじろいで、ヤマトは少年に、幾分鋭い視線を送った。
少年はヤマトの険しい眼差しに臆することなく、竿を指した。
「それ、俺のところの」
何を言っているか、分からず、ヤマトはまばたきし、少年の視線を辿った。
竿ではなく、浮きを少年は見ており、またすぐに浮きではなく、浮きに引っかかった紅の布を、指差していたことが分かった。
「ああ」
ヤマトはうなずいて、すぐに綺麗に染められた布をすくい上げた。
「ほら」
少年がゆっくりした動きで水の中を歩いてくる。
「助かった」
少年はヤマトから布を受け取ると、ほっとしたように笑った。
「探してたんだ」
「よかったな」
笑みと、それから身に纏った衣服の色合いに、ヤマトは心引かれて、訊ねていた。
「川上に住んでるのか」
「そう」
少年が大切そうに持つ布で、彼の出自が知れて、ヤマトはふと黙り込んだ。
沈黙のためか、今為された質問のためか、少年も訊ねた。
「お前は、川下のやつ?」
「ああ」
「そうか」
少年は困ったような顔で、まだ水の中にいた。背後で、ガブモンが呑気にごろりと寝返りを打つ気配がした。
こうして黙ったままなのも、苦しく、ヤマトは少年を促した。
「上がれよ」
少年が今、気づいたように、水に浸かった自分の膝を眺め、うなずいた。
水から、体を引き上げる少年の動きは軽やかで、飛び散った水しぶきも眩しかった。
「俺、太一」
服を絞りながら、少年が名乗った。
唐突とも言えるその名乗りに、ヤマトはおかしくなった。
ヤマトが笑うと、つられたように、太一も笑った。
「俺はヤマト」
「そっか」
名乗り合うと、緊張が解けて、また意味もなくおかしくなった。
誰もいなかったので、太一の衣服が乾くまで、ヤマトはさきほどと変わらず、釣り糸を垂れていた。
太一も隣りに座って、たまにガブモンのあたたかい毛を撫でていた。
やがて、帰るからと立ち上がった太一は去り際に、自分にもこんな相棒がいるのだと告げて、行ってしまった。
太一に撫でられていた途中で、目を覚ましたガブモンは、あの人、誰だろうと訝しがったが、ヤマトにはもう分かっていた。
厳しく、禁じられているわけでもないが、逢うことを喜ばれる相手でもない。
ヤマトは釣り竿を片づけ、太一が座っていた場所を見つめた。
もう二度と、太一が来ることはなくても、自分は何度となく、ここへやって来るだろう。
確信を抱いて、ヤマトはその日の川辺を後にした。
※
こうして始まった逢瀬が、人々に知られたときには、すでに若さが押し流すまま、体まで重ねていた。
どうしようかと、汗ばんだ肌を触れ合わせながら、想いの大きさを持てあました。出逢った頃に引き離されたのなら、諦め切れただろうか。口づけた頃に別れていたなら、思い出だけで生きる決心を付けていただろうか。
互いの汗の辛さを味わい、不器用な愛撫を知り、幼い睦言を交わすようになると、素知らぬ顔をするのは、難しすぎた。
時間の合間にと自制したはずの逢瀬に、一日のすべてを使うようになってしまえば、まず家族がおかしいと気づく。
己の立場をわきまえろと諭され、相手の部族に対する微かな嫌悪を、ふたたび思い出すよう、促された。
傍系の血なら、単純な火遊びと認められていた可能性もあった。多くはないが、どちらの部族にも、若い男女がいる以上、似たような例は、幾らもある。だが、結ばれた事例などは、皆無だった。
長く付き合う内に、どうしても交われない心が生まれてくるのだと、若いころに、似たような体験をした男たちは、語った。遠い昔のように戦を起こすほどの憎しみが薄れても、血には、すでにお互いを嫌悪する感情が流れ、消え去らないのだと。
向けられた諫めの言葉は、決して厳しくなかった。若さゆえの情熱をここで、厳しく叱責すれば、逆に悲劇をもたらすと、周りが恐れたためだ。
家族の哀しげな顔に心を締め付けられ、相手の立場を思えば、川辺へと急ぐ足も鈍る。
それでも、求め合ってやまない心を押さえつけるのは、困難なことだった。
川に流れる星屑を掬っては、逢うのを止めようと言い合った。
涙のかわりには、いつも星がきらめいた。
これで明日から、相手は来ないと思い、姿を偲びに川辺へ訪れると、そこに幻でもなく、昨日のままの、相手がいた。
これでは、何度別れを告げあっても、逢瀬を止めることなど出来ない。
やがて、幾らかの時間が過ぎると、まだ成人もしていない年齢と直系という血筋を思いやってか、ヤマトと太一の仲は、表立って人々の口に上らなくなった。かわりに、どこへ出かけるのにも、さり気なく誰かが付いてくるようになった。
同じ部族の人々に遮られては、わずかな時間に、長い距離を経て互いの姿を垣間見るだけが精一杯。言葉の一つでも交わすことができれば幸運だ。そうでなければ、幾月も会えぬ日が続き、それがめずらしくもなくなっていった。
人目をはばかって逢うのは、あまりにもつらい。無言で、いつかは目が覚めることを願う家族を見るのもつらい。
一年に一度、同じ日に行われる祭りの日だけに、監視の目は緩んだ。せめてものお目こぼしなのだと言わんばかりに、その日だけは、たやすく、人の檻を抜け出すことが出来る。
一年ぶりの触れあいと口づけと、何でもない会話。けれど、せかすように、時間は過ぎる。どうしても星の光が強まる前に、帰路へつかねばならない。
星の光が静かな間は、闇が濃い。何が起こっても、人々は見過ごした振りをする。それが哀れな恋への同情だったとしても、それに頼らなければ逢うこともできなかった。
こうして、名残を惜しみ、後ろ髪を引かれながら、ヤマトと太一は川を離れていく。逢瀬が許される日も長くはないと知りながら、いまだ相手への想い以外、自分たちを包む世界に縛られていた。
――逢瀬の終焉は祭りの半年後に、突然訪れた。まるで計ったように、同じ日に、婚姻相手が決まったと、告げられた。
成人の祝宴と同時に婚礼も行われるのが通例だったので、それはつまり、この日を境に、幼い恋を捨てろとの、言い渡しだった。
焦りは決意を生み、二人の変わらない眼差しと想いに、友の手も、ついに差し伸べられた。
いっそう厳しくなる監視の目を、コロモンとガブモン、そして友人と弟妹達の力を借りながら、かいくぐり、言葉も交わさず、抱き合ったときには、すでに心を決めていた。
恋も一度なら、二人でみた夢も一度だけでいい。ヤマトと共に、太一と共にという、思いを遂げねば、生きる意味もない。
今まで育ってきた世界を捨てるのは、その世界での門出を祝う日だった。
※
闇の中に浮かび上がった白銀の毛並みに、太一は立ち上がった。
声もなく、腕を差し伸べ、同じく腕を伸ばしたヤマトと、抱き合った。
何も持たず、身一つで。付き添うのもグレイモンとガルルモンだけだ。
この日、成獣へと進化を許された二匹は、それぞれの友人をうながすように、低い声を上げた。
星が照らす道を、星を蹴り、草花を揺らして、歩き出した。
友らの尽力のためか、追っ手の気配はまだない。
聞こえるのは、出逢ったときと同じ、川のせせらぎだけで、祝宴の騒々しさも、届かない。
二人だけだった。
指を絡ませ、誓いもしよう。どこまでも、二人と。
今から、これからが、二人だけの門出だ。