眠りを妨げぬよう、そっと閉じられる扉。
微かに聞こえた音に、目を覚ます。
遠ざかる足音。
(お兄さま……?)
闇の中、ゆっくりと目を開く。
まだ朝日が昇っていないわけではない。
目を開いても、光を捉える事ができないだけだ。
その証拠に、部屋の外からは忙しく働く衛士や女官の足音が聞こえるし、窓辺からは小鳥のさえずりも聞こえた。
(今朝も、ご挨拶ができませんでした……)
毎朝自分の体調を見に来てくれる兄に、目覚めて最初の挨拶が出来なかった。
少し残念に思いながら、オボロの足音に耳を澄ませる。
オボロの足音は聞き取り難い。
ユズハは目が見えないかわりに、耳がよい方だと言われている。が、それでもオボロの足音は聞き取り難かった。ユズハが起きている時間に部屋に来る時はそうでもないが、一歩この部屋を出ると、途端に足音がしなくなる。
ユズハが知るはずもないが、それはオボロが盗賊時代に身につけた習慣だろう。
(……あ)
心にぽっと明かりが灯る。
兄の足音に近付いた、2人と1匹の足音。
羽根のように軽やかな足音と、ぴこぴこと間隔の短い足音。それから、オボロ同様、ほとんど音の聞こえない獣の足取り。
ユズハの大切な親友達。
アルルゥとカミュ、ムックルの足音。
それがオボロの足音と合流して、止まる。
流石に声までは聞こえないが、時間としては本当にわずかばかり。何か話しているのだろう。2人と1匹はその場に止まっている。
(ユズハの所に、遊びに来てくれるのでしょうか?)
広い皇城なので、1本の廊下でもいろいろな部屋に繋がっている。
それでも、2人一緒にこの廊下を通るなら、自分にも一声かけに来てくれるはずだ。
オボロには言えなかったが、朝一番の挨拶を親友達にしようと心に決め、こちらに向かう足音を心待ちにしていたが…オボロにまだ眠っていると聞いたのだろう、アルルゥとカミュの足音は来た方向に戻っていった。
寂しい気もしたが、遠ざかる足音に耳を澄ませる。っと、ほとんど聞こえなくなっていたオボロの足音が再び聞こえた。
(お兄さま?)
不思議に思い、さらに耳を澄ませると別の足音が聞こえる事に気が付いた。
重みのある、大らかな足音。歩幅があるのか、間隔はオボロよりも少しだけ長い気がするが、ほぼ同じ歩調で歩みを進めている。
(クロウさま……?)
廊下ですれ違いにでも、いつもの口喧嘩を始めたのだろう。二人とも足音が乱暴だった。
啀み合っているだろう二人には悪いが、ユズハは柔らかく微笑む。
さきほど沈んだ心が、すぐに浮かび上がるようだった。
一見仲が悪いようだが、あれは2人にとって挨拶のような物だとわかっていたし、何より…以前のオボロからは考えられない、感情がむき出しになった足音だった。
(お兄さま、楽しそう……)
目覚めて随分時が経ってから、ゆっくりと体を起こす。
胸に手を置き、少し思案する。
生まれつき身体の弱いユズハは、毎朝目が覚めてから、自分の体調を感じていた。
今日は軽い、今日は重い、今日は苦しい、と。
普通の人ならば、毎朝何も感じず、当たり前のように目覚め、当たり前のように一日の行動を始めるが、ユズハはそんな『当たり前の事』が出来なかった。
(今日は、体が軽いですね……)
この分なら、日中はカミュやアルルゥと一緒に遊べそうだと、うっとりと微笑む。
寝台横の机を探り、櫛を手に取ると、部屋の外から控えめに声をかけられた。
「ユズハ殿、起きておられますか?」
「はい」
返事をすると、そっと扉が開かれる。
慎重に、しかし無駄のない足運びでトウカが部屋に入って来た。
「オボロ殿に、今朝は御加減が良さそうだと聞いて、迎えに参りました」
聞く者全てが背筋を伸ばしてしまいそうな、トウカの声。
実直な性格が、足音だけではなく声にまで表れているようだ。
「ありがとうございます」
最近は皇城内にも大分慣れたが、一人で外を歩くのには少し不安がある。
そんな時、迎えに来てくれる人がいる事の、なんと嬉しいことか。
身体の軽い日は部屋の外に出られる。
外に出られると言う事は、家族達と朝夕の食事をとることが出来る、という事。
この楽しみを知ってからは、起き上がれない日の1人でとる食事の寂しいこと、悲しいこと。周りにアルルゥやカミュが居てくれても、やはり皆と一緒の方が楽しい。
我侭になってしまった、と反省するが、いつもそうありたいと願う心は止められなかった。
「せっかく迎えに来てくださったのに……少し待って下さいますか?
髪が、寝乱れていますので……」
「これ、おいしい」
アルルゥの声と共に、微かにユズハの持つ皿が重くなる。
「ユズっち、こっちも美味しいよ」
と、こちらはカミュ。
ともに気に入ったおかずを取り、ユズハのお皿に乗せて行く。
美味しい食事をお腹いっぱい食べて、元気になって欲しい二人の気持ちだ。
ユズハのため、というには少しばかり量が多い気がするのは……その皿が安全圏だからだろう。食べきれない程のおかずを盛って置けば、残りをゆっくりと食べられる。飢えた2匹の獣も、ユズハの皿にだけは手を出せない。
そんな意味もあるかもしれないが、とりあえず二人の素直な気持ちである事に、嘘偽りはない。
あれもこれも、と皿におかずをのせられているユズハの後ろに、しなやかな足音が回り込んできた。
「これも、美味しいですわよ」
カルラの声とともに、一気に重量の増えるお皿。
「きゃっほぅ! カルラお姉ちゃん、ふとっぱら〜」
「そんな事ありませんわ。どうせ余り物ですもの」
歓声をあげるアルルゥに、片手をあげて答えるカルラ。
その背に殺気が突き刺さる。
「ちょっと待て、何故某の皿から持っていくのだ!?」
いったい何を乗せたのか、目の見えないユズハには想像できなかったが、声から察するにトウカのおかずだったらしい。
「あら? どうせ残す物ではなくて?」
「誰が残すものか! それは……その焼き魚は某の好物ゆえ、最後の楽しみにと……」
「あら。そうでしたの。それは悪い事をいたしましたわ」
言葉とは上腹に、少しも悪びれた様子のないカルラ。
「ご・め・ん・な・さ・い? ですわね」
明らかにからかいの色が浮かぶ、謝罪の言葉。
「そ、そこになおれ〜っ!」
エヴェンクルガの武人は、いとも容易くカルラに弄ばれ、今にも刀に手をかけそうな勢いで立ちあがった。
「トウカさま……」
ユズハが小さな声で呼びかけるが、興奮状態のトウカの耳には届かない。
「トウカさま、……ハイ」
っと焼き魚の身をほぐし、箸でつまむ。
「あ〜ん、してください」
いまいち状況のわからないまま、トウカの声のする方向に箸を差し出すユズハ。
その顔には、汚れを知らない微笑みが浮かんでいた。
陽の昇りきらない、午前中。
家族全員の洗濯物を干すエルルゥとカミュの横、木陰の柔らかな下草の上に腰を下ろし、ムックルに背をあずけ、ユズハとアルルゥが本を広げている。
いつもと違うのは、カミュだけがエルルゥを手伝い、洗濯物を干している事。
アルルゥが本に顔を近付け、一生懸命ユズハに話して聞かせている事。
その2つだった。
「少女の金色の髪と……翡翠の瞳……には見覚えがありました。少年の……助けた少女は皇城の姿……絵でみた、お姫様だったのです……」
辿々しく読み上げるアルルゥの声は、少し誇らし気だった。
アルルゥは勉強があまり好きではない。
本を読んだりするよりも、畑の手伝いをしたり、外で元気いっぱいに遊んでいる方が好きだった。
昔、祖母トゥスクルに読み書きを教わった事もあったが、興味がなかったので、ほとんど覚えてはない。
そんなアルルゥが文字を覚え、本を読んでいるのは…カミュが読み聞かせてくれるお話が面白いから。それと、お話を聞いている間、ユズハがとても楽しそうに微笑むから。
自分でもユズハの微笑みを作りだす力が欲しかった。
動機はそれだけ。
たった、それだけの事。
それでも本人のやる気の有る無しで、影響ははっきりと現れる。
ユズハの眠っている時間にカミュに読み書きを教わり、カミュにもわからない文字があればムントやハクオロに聞いて……そんな感じで身につけた読み書きの成果を、今日ユズハに披露しているのだ。
時々難しい文字にひっかかるのはご愛敬。
アルルゥの声に耳をすませ、はらはらしながらも、優しい目で見守るエルルゥ。
隣にいると、アルルゥが引っ掛かった文字を代わりに読んでしまい、怒られそうなので。少し離れてエルルゥの手伝いをするカミュ。
穏やかで、優しいひととき。
「こうしてペドロゥ少年は、ディーア姫の……護衛として、皇城にむかえられました」
「人形の武人、6巻に続く」っと、最後まで無事読み終え、本を閉じるアルルゥ。
「アルちゃん、とってもお上手……」
「ん〜」
勉強の成果をユズハに認められ、アルルゥは恥ずかしそうに頬を染め、誤魔化すように立ち上がり、カミュに走りよる。
「カミュち、本の続き」
「あはは、その本、中々揃わないんだよね〜。
オンカミヤムカイの書庫にも全部そろってないんだよ」
「ん〜、ばる」
「チキナロおじ様なら、そろえてくれるかな〜?」
カミュとアルルゥの他愛のないおしゃべりに、ムックルの背を撫でながらユズハが顔をあげる。
自分達のいる方向に近付いて来る2つの羽音。
1つは少し離れた所に舞い降り、優雅な足音。
もう一つは、ユズハのすぐ近くに舞い降りる。
落ち着きのある、一歩一歩に年期を感じる足音。
「カミュちゃん、ムントさまが……」とユズハが声に出すのと、カミュがムントに気がついたのは同時だった。
「姫様……」
「あ、あれ〜? ムント……」
洗濯物のしわを伸ばしていた手をとめ、乾いた笑いを浮かべるカミュ。
引きつった笑顔で動きを止めているカミュに、ムントが近付く。
「今日こそは、逃がしませんぞ」
「あはは〜。じゃ、そういうことで」
ムントに捕まる前に、くるりと背を向け、逃走姿勢。
カミュは気付いていない。
後ろから近付いていた、もう1人の足音に。
助走をつけて、一気に飛び立とうと地面を蹴り……濡れた洗濯物に突撃。そのままの勢いで、近付いてきたもう1人の胸に倒れ込む。
豊かな白い胸と、鼻孔をくすぐる優しい花の香に、カミュは逃げ道がなくなった事を悟る。
「……カミュ」
「お姉様……」
顔をあげると、予想どおり。
黄金の滝のような髪を銀の髪飾りで留め、空と海を移す蒼の瞳に憂いを帯びさせたウルトが立っていた。
「遊んでばかりいるそうですね」
穏やかな声。
けれど、少しだけ悲しそうな響きがある。
「今のカミュには確かに、友達と遊ぶ時間も大切です。
でも、同じようにムントの教えてくれる勉強も、大切な事なのですよ?」
トゥスクルに来て、始めて出来た歳の近い友達だ。
少しぐらいはめを外して遊ぶのは、目を瞑ろう。
けれど、遊ぶ事に夢中になって、勉強を疎かにする事は感心しない。
「カミュにはまだ、学ばなければいけない事が、沢山あるはずです」
尊敬する姉に穏やかに窘められ、うなだれるカミュ。
「姫様、今日はこのムントめに従っていただけますな?」
「はぁ〜い」
いつもは自分に甘い姉が、今日は見逃してくれる気がないのだ。
これは諦めるしかない。
カミュの素直な返事に、満足気に微笑むウルトとムント。
「ここしばらく逃げられてました分の、遅れを取り戻しませんと……」
意気揚々と宣言するムントの背中に続きながら、今日は解放されそうにないなぁ〜っとカミュは盛大にため息をついた。
陽が少し傾き始めた午後。
少し眠っていたらしい。
暖かく柔らかな枕と、規則正しい算盤を弾く音。
自分が今どこで何をしていたのか、ユズハはゆっくりと思考を巡らせる。
確か、カミュと別れた後……アルルゥと違う本を探して……読めない字があったので、ハクオロの所に聞きに来たはずだ。丁度ベナウィが離席しているのをいいことに、長居を決め込んだアルルゥと書斎で本を読みながら……短調な算盤の音に、眠気を誘われ……眠ってしまった。
寝息が聞こえる。
どうやらアルルゥも、この音に誘われたらしい。
規則正しい呼吸にあわせて、ユズハの髪をくすぐるアルルゥの髪。
ユズハとアルルゥは、ひとつの枕を共有して眠っていた。
(そういえば……この枕はどこから……?)
確認するように自分達が枕にしていた物を触る。
暖かい……と言うよりは、人の温もりといった感じがする枕。
確かに柔らかいはずなのに、どこか堅い印象を受ける枕。
不思議な感触の枕に眉をよせ、さらに念入りに触り始めるユズハの手。
「うおぉっ!?」
奇妙な悲鳴が聞こえると、目が覚めても変わらず響いていた算盤の音が止まった。
「ハクオロ様?」
「んぅ〜?」
ハクオロの声に、アルルゥも目を覚ましたらしい。ハクオロの膝枕から頭をもたげ、もぞもぞと身体を起こしている。
「なんだ、起こしてしまったか」
奇妙な悲鳴を誤魔化すように、アルルゥとユズハの頭に添えられた手。
優しく髪を梳くハクオロの手に、再びまどろむ。
「んふ〜」と嬉しそうに咽をならすアルルゥ。
そこに微かな足音が近付いて来た。
忙しそうに、それでいてどこか嬉しそうな……華やかな足取り。
ハクオロの膝枕は名残り惜しいが、ユズハはそっと身体を起こし、扉に顔を向ける。
扉の外から聞こえるエルルゥとトウカの声。
「失礼します」
少し間を置いて開かれる扉。
「ハクオロさん、お茶を持ってきました……って」
盆にお茶と茶請けを乗せたエルルゥが、両手の塞がった格好から器用に扉を閉め、ハクオロの隣のアルルゥに気がついた。
「アルルゥ? またハクオロさんのお仕事を、邪魔してるんじゃないでしょうね?」
開口一番に出てきた姉の言葉に、アルルゥは拗ねるように唇を尖らせた。
「アルルゥ、おと〜さんの邪魔してない」
枕にはしたが。
事実、自分達が寝ている間もハクオロは仕事をしていた。
なんの問題もない。
「そうなの? 本当に?」
「ん!」
ハクオロにも確認するエルルゥに、自分が信用できないのか、とアルルゥが尻尾で床を叩く。
「ごめんね、アルルゥ」
エルルゥの謝罪の言葉に、ぷいっと顔をそらすアルルゥ。
不用意な発言でアルルゥを傷つけてしまった。
「おわびに今夜のおかず、アルルゥの好きな物作ってあげるから」
「お姉ちゃん……食べ物でごまかす。ずるい」
アルルゥの鋭い一言。
今まさに、食べ物で機嫌を直そうとしたエルルゥには痛い一言だった。
「……ごめんなさい」
しゅんとうなだれるエルルゥに、アルルゥが一言付けくわえる。
「でも、ネウの乳に林檎付けてくれて、おばあちゃんの卵焼き作ってくれたら……いいよ」
「え?」
なんだかんだと言いながら、やはり食べ物で許すアルルゥ。
『おばあちゃんの卵焼き』という単語に微笑むエルルゥ。
「おばあちゃんの卵焼き、お姉ちゃんしか作れない」
今は亡き祖母の味を受け継いでいるのは、エルルゥだけだった。
「じゃ、腕によりをかけて作るから……アルルゥも手伝って」
エルルゥの誘いに、少し迷うアルルゥ。
「アルルゥ? 卵焼き、食べたくないの?」
「うぅ〜」
卵焼きは食べたい。
ただの卵焼きではない。おばあちゃんの味の卵焼きだ。
でも今は……ハクオロのそばにベナウィがいない。
日中は中々かまってもらえない父に、甘え放題のこの好機。
食べ物ひとつで逃すには……少し惜しい。
父をとるか、食べ物をとるか。
アルルゥとしては大問題だった。
「夕飯の支度をアルルゥが手伝うのか……」
うんうんと唸って、悩んでいるアルルゥの頭に添えられるハクオロの手。
「アルルゥ、今夜の夕飯は期待しているぞ」
その一言がアルルゥの心を決めた。
ぱっと顔を輝かせ、「ん!」と短く返事。すくと立ち上がる。
「ハクオロさん、私にはそんな事言ってくれないのに……」
っと少し拗ねるエルルゥの背を押し、調理場に向かうアルルゥ。
「お姉ちゃん、早く」
遠ざかる仲の良い姉妹の足音を見送って、ハクオロが腰をあげた。
「ハクオロ様?」
仕事の続きはいいのか? と顔をあげるユズハに微笑む。
「こんな所で眠っていたから、身体が冷えただろう。部屋まで送ろう」
ハクオロに促され、ゆっくりとユズハは立ち上がった。
本音を言えば、もう少し一緒に居たかったが、そうそう我侭は言えない。
アルルゥもカミュも、ハクオロと一緒にいたいのを我慢して、それぞれの役割を果たしているのだ。自分だけが甘えていいわけがない。
ハクオロの手につかまり、ゆっくりと書斎を後にした。
ユズハの歩調にあわせた、ハクオロの足音。
いつもは忙しく歩いているハクオロの足音が、今はゆったりとしている。
一歩一歩確実に踏み出す足取り。
そこに自分の軽い足音が並んで歩いているのが、ユズハは嬉しかった。
長い廊下の角を曲がるハクオロに、ユズハは首をかしげる。
「ハクオロ様?」
ハクオロが進もうとしている方向は、ユズハの部屋とは逆方向。
確か、自分を部屋まで送ってくれると言っていたはずだ。
何か用事でも思い出して、見送りはここまでなのか、と少し不安になる。
「ああ、気分転換にな。少し散歩につき合ってくれないか」
「ベナウィの目もない事だし」と付け加えられる言葉に、ユズハが微笑む。
少しでも長く、ハクオロの側にいたいユズハにとって、願ってもない言葉だった。
「……ハイ」
慎重に彫り進められる、小さな丸太。
ハクオロの顔の感触を思い出しながら、何度も削った箇所を確認する。
ここは髪、ここは目、ここは鼻……ここは唇。
完成にはほど遠いが、毎日少しづつ彫り進められる丸太。
目の見えないユズハが刃物を持つと、周りにいる者達が心配するので、誰もいない時しかできないが。これもユズハの楽しみの1つだった。
一通りの確認を終え、作業を再会しようとしている所に、珍しい足音がユズハの部屋の前で止まった。
彼はあまりこの部屋に顔をださない。
部屋の前の廊下を早足に通りすぎる事は、日に何度もあるが。
「失礼します」
そっと扉を開き、ベナウィが顔を覗かせる。
「ベナウィさま……ユズハに何かご用ですか?」
「いえ、オボロが来ていないかと思いまして」
部屋に入らず、首だけをめぐらし中を確認。
「……ここには来ていないようですね」
「ハイ。お兄さまとはお昼に御会いしたきり……この部屋にはいらしてません」
「そうですか」
身内を庇うためとはいえ、ユズハは嘘をつかない。
それがわかっているので、ベナウィもあっさりと引く。
「……もしオボロが来たら、私が探していた事は『伝えないで』、できるだけ引き止めておいて下さい」
ユズハは、ベナウィの奇妙な言い回しに首を傾げた。
世間知らずではあるが、決して愚かではない。
しっかりと言葉を聞き分ける力をもったユズハに、ベナウィは苦笑する。
この感の良さが、兄オボロにもあれば、と。
「それでは、失礼します」
「ハイ」
ベナウィが踵を返す音。
それに続くはずの音がない事に、ユズハはまたも首を傾げる。
「ベナウィさま?」
「怪我をしないように、気をつけて下さい」
去り際になって、ユズハの手に握られた小刀に気がついたようだ。
さり気なく注意を促す。
「ハイ」
ユズハの素直な返事に微笑み、ベナウィは今度こそ扉をしめた。
ベナウィが早足に立ち去ってから……半刻も過ぎただろうか。
よく似た2つの足音が聞こえる。
自分では見えないのでなんとも言えないが、二人は足音だけではなく、姿もよく似ているらしい。
昔からオボロの側にいる双児、ドリィとグラァ。
珍しい事は重なる物だ。
いつも一緒にいるはずの、オボロの足音が聞こえない。
「失礼します」
「ユズハ様、夕食のお迎えに来ました」
部屋に入って来るドリィとグラァ。
やはり、オボロの気配はない。
「ハイ。ありがとうございます」
ベナウィに注意されたばかりなので、慎重に机の上に広げた道具を片付ける。
引き出しを閉め、そっと立ち上がると……
「ユズハ様!」
ふらりとよろけたユズハを、咄嗟にドリィが支える。
「ありがとうございます、ドリィ」
見えないはずの目で、しっかりと自分の身体を支えるドリィの目を見つめる。
「大丈夫ですか? ユズハ様」
「ハイ。大丈夫です、グラァ」
倒れそうになった姿勢を立て直すため、ドリィの補助に回るグラァにも目を向け、礼を述べる。
ユズハは二人を間違えない。
どんなに姿形が似ていようとも、目の見えないユズハには関係のない事だったし、ユズハにとって、二人は完全に別の人格だった。
混同されがちな双児だからこそ、二人を見分けられる人物が特別に好きだと思えた。
外見的な特徴である袴の色を変えても、オボロは二人を見分ける。
ユズハにいたっては、姿も見えないのに二人を感じわける。
ドリィとグラァにとって、ユズハは『若様の大切な妹君』という以上に大きな意味を持っていた。
「そういえば、お兄さまは……?」
その後、無事ベナウィに捕まったらしい。
「今日、アルちゃんが読んでくれたお話……とても楽しかったです」
夕食が終り、寝台に横になっているユズハが、今日一日の『報告』をオボロにしている。
何をして過ごしたか、どんな話しを聞いたか……他愛のない出来事。
それら一つひとつをオボロに聞かせていた。
「そうか……よかったな」
「……ハイ」
その時の情況を思い出しているのだろう、頬を桜色に染めて、うっとりと微笑んでいる。
近頃のユズハは、ますます笑うようになった。
ハクオロと出会い、エルルゥとアルルゥという友ができた。皇城に来てからはカミュと大勢の姉と兄に囲まれ、毎日を慎ましやかに生きている。普段見落としがちな事から、ささやかな楽しみや喜びを見つけ、本当に幸せそうに微笑む。
死と隣り合わせの、どこか儚い微笑み。
それでも、以前より格段に輝く、命の微笑み。
「今日は疲れただろ。もう休め」
ユズハの肩まで布団をかけ、頭を撫でる。
「ハイ。……明日の朝こそは、お兄さまに『おはようございます』って言いたいです」
なんのことだ? っと首を傾げるオボロに、ユズハはうっとりと目を閉じた。
「毎朝ユズハの様子を見に来てくれているのに、最近ユズハは眠っていて……お兄さまに挨拶が言えていません……」
「そんな事を気にしていたのか……」
申し訳なさそうに眉をよせるユズハに、優しく微笑む。
朝起きられないのは、昼間遊んでいて、疲れているから。
人より疲れやすいユズハが、朝までその疲れを引きずっているからだ。
でも、それは……心地よい疲れ。
体調を崩して咳などで体力を使うのとは、まったく違った健康的な疲労。
よほど疲れていたのだろう。
会話が途切れると、すぐにユズハの寝息が聞こえ始めた。
規則正しい小さな寝息を確認すると、音をたてないように、オボロはそっと腰をあげる。
「おやすみ、ユズハ」
ユズハは今、間違いなく幸せだ。
そして、それは……オボロ自身をも幸せな気持ちにさせていた。