岩肌が露出した壁と、ほのかに揺れる灯火。
 重い湿った空気が、カビ臭さと汚臭を運び、定期的に見回りに来る衛士の足音意外は、耳が痛くなるほど音のない世界。

 地下牢と呼ぶに相応しいその場所で、ベナウィは目を閉じ、座禅を組んでいた。

 一國の侍大将たる者に、不釣り合いなほど粗末な作りの牢。
 地下の冷気に包まれた肌寒いその場所は……頭を冷やすのには最高の環境だった。

 朝夕を知る事が難しいこの場所で、いったいどれほど時間が過ぎたのか。


 叛乱の動向は?


 遠く、微かに聞こえる戦の声。

 確実に、戦火は皇都にまで及んでいた。

 目を開き、遠く想い馳せる。

 護るべき『國』。
 ケナシコウルペの崩壊は、避けられないだろう。
 それは分かっている。

 この國にはもう、護るべき価値も、その必要もない。

 これも、以前から感じていた事だ。
 ケナシコウルペの侍大将として、武人として、『國の崩壊』などわかってはいても、認める事は出来ないが。

 かりそめの平和が終わる時が来た。
 ただ、それだけの事。

『もし地獄と言う物があるのなら、私は確実にそこに落ちるだろうな』

 叛軍の長、ハクオロはそう言った。

 人の上に立つ事も、大切な何かを護る事も、綺麗事だけではすまない。
 自己を正当化する指導者は大勢いる。が、あの男はそれをしなかった。
 あえて認めたのだ、自分のしている事を。

 叛乱という戦をおこす自分の罪を。

 それだけの器を持った男だ。
 インカラ皇の悪政の元、疲弊しきった民を惹き付けるのは必然。

「……出来る事なら」

 自分もハクオロのような皇に仕えてみたかった。

 そして、あの男の作る國を見てみたかった。

 最後まで声に出す事を許されない言葉。
 ほんの少しだけ、本音をもらす。

「オボロが、羨ましいですね」

 不意に出た言葉に苦笑する。

 叛軍に身を置く者が羨ましいなどと、一國の侍大将にあるまじき暴言。
 それでも、これだけは言える。


 オボロの一族が都を追われてよかった、と。


 もし何ごともなく、皇都で成長していたら…今自分のいる場所に立っていたのはオボロかもしれない。民の為に心血を注ぎながらも、一人の皇の前には無力に等しい『侍大将』という場所に。

 再会してわかった。

 オボロは昔から変わっていない。

 オボロの真直ぐな気性は、誰にも曲げられない。たとえそれがオボロ自身であっても。
 オボロに『インカラ皇』に仕える事は無理だ。
 もしそれが出来たとしても、それはもう『オボロ』ではない。


 皇都に残ったのが、自分でよかった。


 


 存在感のある、確かな足音が響く。
 地下の動かない、濁った空気に風が生まれ、灯火を撫でる。

 錠前の外れる音。

 重く開く格子扉から、腹心とも言える男が顔を覗かせた。

「迎えに参りやしたぜ、大将」

 力強く微笑むクロウの声に応えるように、『ケナシコウルペ』に最期の華を飾るため、ベナウィはゆっくりと腰をあげた。







「戦況はどうなってますか?」

 地下の淀んだ空気の中に居てさえ、ベナウィの立つその場所だけは清浄な空気に包まれている。……そんな錯覚をおこすほど、背筋をすっと伸ばし報告を聞くベナウィは、凛とした静けさを纏っていた。

「彼奴の指揮する第弐軍は敗退。ほぼ壊滅状態となりやした」

 ケナシコウルペは崩壊する。

 今まで必死に護ってきた國が、崩壊する。

 そんな時でも、眼前のベナウィは落ち着いていた。

 民を託せる人物が現れたのだ。
 『ケナシコウルペ』という入れ物は、必要ない。

 後はもう…少しでも民の犠牲を出さずに玉座をハクオロに空け渡す事、そして『ケナシコウルペ』に一國が崩壊するに相応しい最期をむかえさせる事。
 その2つだけを考えているのだろう。

「彼奴自身は戦死か、それとも…何れにせよ、消息は不明。
 叛軍は現在、ここに向かって集結しつつありやす。早ければ、あと数刻で戦になりやすぜ」

 淡々と戦況を告げるクロウからは、いつもの陽気さが影を潜め、年相応の思慮深さが顔を覗かせている。

「聖上はどうなさってますか?」

 皇都の周りを叛軍に囲まれた、今この時に。
 この世の春を信じて疑わぬ、あの皇は何をしているのか。

「髪の手入れの真っ最中」

 すかさず答える声に、いつもの揶揄の色が浮かぶ。

「最近は抜け毛が激しいもんで、念入りにやってやす」

「誰も邪魔するなと言ってやしたぜ」っと付け加える。

「そうですか…」

 こんな状況に陥っても、あの皇は変わらない。
 そこまでこの國の皇は……いや、抜け毛から察さるに、少しは感じているのだろう、聞こえているのだろう。
 叛旗を翻した民の声と、滅びの足音が。

「いっそのこと、このまま永遠に……」

 軽口ついでに漏れそうになった言葉を、ベナウィの一瞥が制する。

「……こりゃ失礼」

 例えどんな皇であろうとも、この國の皇なのだ。
 皇に対する侮辱の言葉など、武人が発する物ではない。

 自分の仕える皇は無能者だと、誰に言われなくともわかっている。

「全軍、出陣します」

 話を変えるように、通路に足を踏み出すベナウィ。
 その背中に問いかける。

「本当にいいんですかい?」

 このまま負けるとわかっている戦場に向かって。

「気付いているハズですぜ。この國にはもう、護るべき価値は何もないって」

 ずっと不思議に思っていた。

 何故こんな所に、これ程の男がいるのか。
 こんな腐り切った國に。

 誰よりも國と民を想い、自身を省みず忠義を尽くす心を持った、誠の武人。

 少々頭が堅すぎるきらいはあるが、目の前の背中がこんな國の為に消えるのは惜しい。

「そうですね」

 足を止め、ベナウィが振り返らず静かに答える。

 一つ二つの部族や集落の叛乱なら、簡単に鎮圧することができた。
 しかし、今や藩主・豪族も加わっての大軍となってしまった叛軍。
 長引いた戦により疲弊しきった兵士と、破竹の勢いにのる民。

 『國』その物と言える、『民』が動き出したのだ。

 『時代』が動く。

 『ケナシコウルペ』という時代が。

 ケナシコウルペの崩壊が、民の望み。
 ならば、それを叶えるのがベナウィの願い。

「もはやこの國の崩壊は必然でしょう」

 事も無げに返される言葉。
 振り返る事はなかったが、うつむく事もなく、真直ぐ前を見つめたままの姿勢。

「だったら、どうして」

 どうしてこんな國に残るのか。
 こんな國に尽くすのか。

「大将なら、どの國だって高く受け入れてくれやす。いや、大将さえその気なら……」

「クロウ、そこまでです」

 クロウの言いたい事が、わからないベナウィではなかった。
 実際、それが一番近道で、確実な道だっただろう。

「……出過ぎた真似を」

 ベナウィがその言葉を、決して受け入れない事もわかっていた。


「あなたの心遣いは感謝します。ですが」

 ゆっくりと振り返ったベナウィは、微笑んでいる。

「それでも私は、この國の侍大将なんですよ」

 兵士を鼓舞する時に見せる、作った微笑みではない。

 滅多に見せる事のない本当の微笑み。
 力強い炎と、静かな水面の共存する、不思議の瞳。

 先を見据える海松(みる)色の瞳に、迷いはない。

「私には、この國と運命を共にする義務があるのです」

 どこか清清しく、そして誇らし気に宣言するベナウィ。

「ですがね……」

「全軍に伝えておいて下さい」

 尚も言いつのろうとすると、言葉を遮られた。

「『劣勢となった場合、すぐに投降せよ』と」

 こんな國の最後を飾るために、無駄に命を散らす事はない。
 その役割は、皇と侍大将たる自分の命だけでいい。
 それぐらい考えているだろう。この男ならば。

「大将、まさか……」

 最初から死ぬつもりで、出陣するのか。


 惜しい。


 こんな所で、あんな皇の為に、ベナウィを失うことは。

 ベナウィが生き残るのには、いくつも道があった。
 『この國』にこだわるのなら、叛軍に加わり皇を打てばいいし、叛軍に加わるのが嫌だと言うのなら、出奔して別の國に行ってもいい。
 その気になれば、この國の皇になることさえ可能だっただろう。
 それでも、その中のどの道も選ばなかった。

 『ケナシコウルペ』を選び、共に滅びようとしている…

 武人として、侍大将として…

「行きましょう。これが最後の戦いとなります」

 静かに告げる、別れの言葉。
 揺るがぬ決意がそこにはあった。

「……ういっス」

 少しだけ目を閉じる。

 正直、これからの人生に少しだけ未練があった。
 が、それも半分はベナウィがいなければ意味がない。

 いつか越えたい男が、今日いなくなるのだ。

 未練もなにも、あったものではない。

「一丁ハデにやりますかい」

 気合いとともに目を開く。

 自然と大きくなった声に、空気が震えた。

 ベナウィがこの國に命をかけるというのなら、自分はそのベナウィに命を預ける。

 昔『この男について行こう』と決めたのは自分だ。
 だから最後までついていく。
 死にに行くのなら、それを見届けてやる。

 恐れるものは、何もない。

 共に歩もうと決めた日から、それは決めていた事だったから。