『お前には、いっぱいの兄や姉がいる……』
今まさに、眠りにつく大神。
石室に響く、暖かく優しい声が娘を諭す。
「でも、おと〜さんいない!」
確かに血の繋がりはないが、自分には兄とも姉とも呼べる家族が大勢いる。
しかし、それは父親の存在があって始めて生まれた家族だ。
厳しくも優しい兄達、暖かで色々な事を教えてくれる姉達。
けれど、その中に。
父はいない。
「ずっと一緒って言った」
昔交わした、小さな約束。
小さいけれど、なによりも大切な……たった1つの約束。
「……うそつき」
頬を伝う一筋の涙。
一粒、また一粒とせきを切ったように溢れだし、袖口に染みを作る。
霞む瞳に父の姿を焼きつけようと、娘は懸命に涙をぬぐう。
「ウソツキ、ウソツキ、ウソツキッ〜!!」
嗚咽の混じった、聞く者の胸を締め付ける絶叫……
「た〜たたらら、たたらら〜」
少し調子の外れた鼻歌が、早朝の広場に響く。
「ハチミツ、ハチミツ、きゃっほぅ!」
今朝の収穫であろう大きなハチの巣を抱え、アルルゥが上機嫌で裏門から走ってくる。
あの日。
國の要たるハクオロ皇が、大封印の向こうに消えた日。
声が枯れるまで泣き、その場を離れようとしなかったアルルゥ。
ハクオロを父と慕い、一番懐いて、一番泣いた少女。
そのアルルゥが、一番最初に立ち直った。
「またハチミツ取りですか。」
不意に聞こえた、ため息混じりの声にギクリと背筋をのばし、立ち止まる。
振り返らなくても分かる、一番苦手な相手……ベナウィだ。
「まったく、あまり無茶をされますと……エルルゥ殿が心配されますよ」
元気なのは結構。
実際、アルルゥの笑顔は、ハクオロ失踪に沈む皇城に微笑みを取り戻す役に立っている。
父を失い、寂しいであろう幼い娘が、誰よりも早く立ち直ったのだ。自分達もいつまでも悲しみに浸っていてはいけない、皇不在の今、自分達が國を守らなければ、と。
しかし、それとこれとは別。
皇城内を元気に遊び回るのは一向にかまわないが、森に出かけハチの巣を取るなどと危険をおかすのは感心できない。
まして、皇女が護衛もつけず、1人で出かける事など。
また説教が始まった、厄介な相手に見つかってしまった……と、うなだれるアルルゥ。
その頬は蜂に刺されたのだろう、赤く腫れている。
「ほら、頬を刺されて……」
「赤くなっています」と髪で隠れて見え難い患部を確認するため、ベナウィはアルルゥの頬に触れた。
赤く腫れた頬……否、目尻にざらっとした感触。
目を合わせようとしないアルルゥと、指に感じた違和感。
違う。
頬が赤く腫れているのは、蜂に刺された物ではない。
そして、指から感じた……何かが乾いたような感触。
これは……
「森で、1人で泣いているのですか?」
護衛がわりのムックルやガチャタラすら置いて、朝早くに1人で森に出かけていたのは、家族に心配をかけまいと、独りで泣くためだったのか。
「泣いてない!」
見透かされたアルルゥが、涙の乾いた跡を撫でるベナウィの手を払う。
「アルルゥ、泣いてない」
きっと睨んだために合わされた目は、確かに泣き腫らし赤くなっている。
「アルルゥ泣く、お姉ちゃん泣く」
誰かに気付かれたことで、今まで隠していた涙が姿を見せた。
アルルゥは涙がこぼれ落ちるのを堪えようと、忙しく瞬きを繰り返す。
「アルルゥ泣かない、お姉ちゃん泣かない」
震えを帯びた声を押し殺し、涙が頬を伝う前に手の甲でこする。
「泣かな……い……」
誰よりも早く、立ち直ったと思われていた。
悲しみを乗り越え、他の者達の止まった刻を動かす力になっているのだと。
だが逆にアルルゥの刻は止まっていたのだ。
涙を止め、悲しみを止め……未だ立ち直れぬ姉に、せめて自分の事で心配をかけまいと無理をして。
辺境の女は強い。
それは幼い少女の中にも確かに息づいていた。
けれど、その強さは……
「アルルゥ様、泣く事も、悲しむ事も……けっして悪い事ではありません」
ベナウィは目線をあわせる様に片膝を付き、力いっぱい目をこすり、涙をぬぐうアルルゥの腕を捕まえる。
「むしろ、1人で隠れて泣いている事の方が……よほどエルルゥ殿が心配されますよ」
頬を伝う涙を指でぬぐい取るが、一度漏れ出た涙は止まる気配をみせない。
「今はまだ、おもいきり泣いて下さい」
涙を殺す強さなど、アルルゥには必要ない。
そんな術を身につけさせてはいけない。
喜びも悲しみも、真直ぐに表現する方がこの少女らしいから。
「それは、聖上がアルルゥ様の心の中におられる証拠ですから……」
泣いてもいいと、誰に心配をかけても、それが父の存在した証だと……。
優しい言葉が胸に響く。
「1人で泣く事を覚えないで下さい」
アルルゥの瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
あの日以来、誰にも見せた事のない涙が。
「あなたには『いっぱいの兄と姉』がいるのですから……」
もっと頼ってもいい。
甘えてもいい、という言葉にアルルゥは顔を歪ませた。
目の前にある、普段はあまり表情を見せない瞳が悲し気に揺れている。
「…………っ!」
首にしがみついて泣きじゃくる、アルルゥの頭を優しく撫でる。
何度も何度も、ハクオロがそうしたように。
自分では父のかわりにはなれないが、せめて兄の1人として、泣き続ける妹を受け止めていようと。
もう随分長い間、アルルゥの心からの笑顔を見ていない気がした。
けれど、もう大丈夫だろう。
悲しみと涙を、共に流すことを受け入れたのだから。
あの日溜まりのような微笑みは、きっとすぐに戻ってくるはずだ。
きっと、その時は……
この皇城を出ていく時になるだろう。