バサッ、バサバサッ。

 羽音が乱れる。
 バランスを崩し、高度が下がった。
 手に抱えているものを落としそうになり、慌てて体勢を立て直す。
 疲れが出ているのだろう。既にかなりの時間飛び続けている。
 それも、出すことの出来る最大の速さで。
 かなり前から、羽を動かしている筋肉が痛みを訴えていた。
 しかし、休む気にはなれない。
 早く、もっと早く。
 そう念じながら、研究施設を目指して飛ぶ。

「必ず、お父様とハカセに会える。ずっと、ずっと皆で一緒にいるんだ……」

 そんな思いが、疲労しきった体を支えていた。
 ミズシマと過ごした日々、アイスマンと遊んだ記憶が蘇る。

 ――幻想かもしれないと、判ってはいた。

 何も言わなかったが、ミズシマの体はムツミの目から見ても、病んでいる様に見えた。あんな場所へ来たのだから当然だ。だが、そうまでして自分を助けに来てくれた人の言葉を、疑うのは嫌だった。

「ハカセは嘘なんかつかない。必ず、必ず会える……」

 呪文のように、何度も声に出して呟く。

 気付かないうちに涙が頬を伝っていた――――



  ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 異変を感じたのは、研究施設から逃げてしばらく経った頃のこと。

 ミズシマの気配が弱くなり、やがて感じなくなった。
 それまでは他の多くの気配と共に、確かにその存在を感じていたのに。
 『距離が離れたから』、そう自分に言い聞かせて、不安を打ち消していた。
 しかし、この程度離れたくらいで、感じ取れなくなるはずはない。
 アイスマンの存在は感じていたし、以前はもっと遠い場所でも存在を認識出来たことがある。

 お父様を、見つけた時に――――。

 そう思いながら、記憶の糸を手繰る。忌まわしい記憶だった。

 蘇生されたムツミの最初の仕事、それがアイスマンの捜索。
 別にムツミ自身が探しに行く訳ではない。研究者達が、ムツミの能力を利用しようとしたのだ。その為に、何度も実験を繰り返して。
 もっとも、その目的が無ければ、ムツミは蘇生させられていなかったかもしれない。研究者達はアイスマンの凍結を決定していたのだから。仮面もない複製体を蘇生させる理由など、多くあるものではない。
 ムツミがどれだけ苦しむか、研究者達は知る気もなかっただろう。自分のせいで、アイスマン達が捕まってしまう。気が狂うほどの苦悩があるはずだった。だが、幸か不幸か制御装置の支配下にあったムツミは、それを感じることを許されなかった。その時の記憶すら曖昧なほどだ。

 その分の後悔が、今になって心を揺らしている。

 アイスマンとミズシマが無事でいてくれること、それだけがムツミにとって救いとなるはずだった。
 しかし、アイスマンは何時まで経っても追ってくることはなく、ミズシマの存在を感じ取ることも出来なくなった。
 本音を言えば、このまま引き返してミズシマやアイスマンの様子を確認したかった。自分一人なら、すぐにでもそうしていたところだ。ミズシマの存在を感じ取れなくなった時点で。
 しかし、今戻れば何が待っているか判らない。手の中の小さな命を、危険に晒すわけにはいかなかった。

 不安ばかりが大きくなってくる。

 この子がいなければ、押し潰されていたかもしれない。そう思って、穏やかな寝息をたてて眠っている赤ん坊を見つめる。

「この子の安全だけでも確保しないと……」

 そう思う。
 しかし、良い方法を思いつくことが出来ないまま、時間だけが過ぎていく。


  ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 ゴクッ、コクッ……

「ふぅ」

 器の中の水を飲み干すと、やっと一息ついた。疲れが少しずつ癒されていく。森の中での休息は、緑が眩しく感じた。

 しかし、心の疲れは簡単には癒えない。赤ん坊を眺めながら、当ての無い逃避行に対する不安を打ち消そうとしていた。


 そんな時間がいくらか過ぎた頃――

  カサッ、ザッザッ

 ――ムツミの耳に、草を掻き分ける音が聞こえた。


 気を抜いていた!


 後悔と共に体が強ばる。
 今は赤ん坊が一緒だ。動きが制限される。

 次第に足音が近づいてくる。

 獣ではない。二足歩行の生き物、それも複数だ。
 足音から、そう判断する。
 アベル・カムルでないことに、僅かながら安心する。あれでないのなら、少なくとも逃げ延びる自信はある。

 ただ、疲れの為か、感覚が鈍っているように感じる。そうでなければ、もっと早く気付いていたはずだ。

 追手ではないことを祈りつつ、いつでもその場から飛びたてるように、体勢を整える。

 あと少しで相手が茂みを抜けてくる。


 あと3歩。


 ……2歩。



 ……1歩。




 やけに時間が長く感じる。

 自分の心臓の音だけが、妙に大きく聞こえていた。




 そして次の瞬間、低く大きな声が響く。


「誰か、そこにいるのか!?」















  ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

「……驚かしてすまなかった」

 リーダーらしき男が謝罪した。非常に恐縮している様子だ。
 無理もない。彼が威嚇するような大声を出したせいで、ムツミの抱いていた赤ん坊が泣き出してしまったのだ。
 火が点いたように泣き出す赤子。
 その泣き声を前にして、お互いに持っていた警戒心など、どこかに吹き飛んでしまった。おろおろと戸惑いながら、あの手この手であやしてみる。だが、その勢いは凄まじく、ムツミですら泣き止ませることが出来ないでいた。
 そんな両者を救ったのは、一人の娘だった。

 落ち着いてから話を聞いたところ、ムツミの前に現れたのは、アイスマンと共に研究施設から逃げていたマルタだった。いくつかの種族が一緒にいる十数人ほどの集団。
 仲間を集めて、一緒に過ごせる場所を探すと言っていた。おそらくは、村や集落のようなものを作るつもりなのだろう。

 その中にいた一人の娘。

 尾と耳の形、なによりその娘の持つ雰囲気。
 それらは、ムツミの知っている女性によく似ていた。

 腕の中で眠る赤ん坊の母親――ミコトと呼ばれていた女性に。

 ムツミと男が取り乱すなか、その娘は横から赤ん坊を取り上げると、腕に抱いてあやし始めた。ほんの僅かの時間で、それまでの声が嘘であったかのように静まってしまう。今は、満足そうな笑みを浮かべ、ムツミの腕の中で眠っている。
 この人になら、預けられるかもしれない。
 その姿を見たムツミには、そう思えた。
 しばらくの逡巡の後、思い切って事情を説明し、手の中の赤ん坊を預ってくれるよう頼み込む。

 その子が自分の妹であること。
 赤子を連れては行けない用事があること。
 必ず戻ってくるつもりであること。
 しかし、戻ってこれないときには、自分の代りに育てて欲しいこと。

 そういったことを話し、持っていた荷物と共に赤ん坊を娘に手渡す。
 相手はさすがに戸惑っていたが、ムツミの事情を聞くと、快く引き受けてくれた。そして、自分達が向かう場所を告げる。

「いつ迎えに来ても良いように、大切にお預かりしますね」

 そう言って赤ん坊を受け取ると、ムツミに向かって微笑んだ。

「お、おい! 安請け合いして大丈夫なのか?」
「大丈夫ですよ。ここにいる子供たちだって、わたしが面倒を見てきたんですから」

 忠告する仲間にそう答えて、赤ん坊に笑いかける。その表情は、既に母親のそれだった。
 回りにいた数人が、いつまでも子供扱いするな、と抗議の声をあげる。
 だが、赤ん坊を預ることに反対する者は誰もいない。
 娘を見つめる視線は、どれも優しいものばかりだった。

 ムツミは、自分の判断が間違っていなかったことを確信した。
 同時に、羨ましいとも思う。

 そんな心の内を見透かしたかのように、娘が声をかけてくる。

「用事が終わったら、わたしたちと一緒に暮らしませんか?」
「それも良いな。歓迎するよ、お嬢さん」

「……ありがとう。でも、先のことは判らないから」

 思わず「うん」と答えそうになるのを堪え、丁寧に礼を言った。
 この人達と家族になれば、それなりの幸せが手に入るかもしれない。
 そんな考えが浮かぶ。しかし、ムツミを制止するまでには至らない。
 ミズシマとアイスマンへの思いは、それほどに強いものだった。

 後ろ髪引かれる思いをなんとか振り払う。


 そして、自分の来た方向を目指して飛び始める。


 娘はムツミの姿が見えなくなるまで、手を振っていた。

 自分の手と、その手で握っていた赤ん坊の手を――――。



  ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

『ガァァアアァァァァ!!』

 低い唸り声が響く。

『汝ノ望ミヲ言エェ! 叶エテヤル! 叶エテヤルゾォォォ!!』

 その声のする一帯は、目も当てられない惨劇の場となっていた。

 得体の知れない存在に恐怖し、当ても無く逃げ惑う者。
 僅かばかりの抵抗を示しながら、絶望に喘ぐ者。
 突如として未知の生命体へと変貌を遂げる者。
 病に倒れ、悶え苦しむ者。
 破壊された壁の下で折り重なる死体と、助けを求める声。
 それらを食らって成長していく赤い肉塊。

『次ハ誰ダ!? ノ・ゾ・ミ ヲ 言エェェェェ!!!』

 そして、全てを破壊するかのように暴れまわる巨大な生き物――アイスマンの変わり果てた姿。


 もはや、その目に正常な光などなかった。
 ただ狂気の炎が暗く灯っているだけ。

 目に付く者に望みを言わせ、歪んだ形でそれを叶える。
 その繰り返しを行うだけの存在と化していた。















 その光景が、どれほど続いただろう。

 獲物以外認識出来なくなっていたアイスマンに、声が聞こえた。

 耳ではなく、意識の中に響く声。


 それは、特別大きな声という訳ではなかった。相手を従わせるような力強さを持っていた訳でもない。

 ただ、乾いた砂に水が吸収されるように、自然と心に染み渡っていく。

 アイスマンの空虚な心を満たし、その傷を包み込むように優しく語り掛けてくる。

 ――優しく、強い思い。


 アイスマンの意識から、回りの光景が消える――――




「……ヤメテ……」


「……ヤメテ、クダサイ……」


「……コノママデハ、タイセツナモノマデ壊シテシマイマス……」


「……アノ優シカッタアナタニ、戻ッテ…………」



 静かな闇の中に響くメッセージ。

 肉声が聞こえた訳ではない。しかし、アイスマンにはその声の主が、はっきりと感じられた。

 あれほど酷かった憎しみが、治まっていくのを感じる。

『ミ……コ……?』

 相手の名を呼ぶ。恐る恐る、確かめるように。

 それは、いないはずの人の声。
 狂気の発端となった、愛しい者の声だった。


 思わず、声の方向に手を伸ばす。

 だが、伸ばした手は虚しく空を切る。

 徐々に意識が戻っていく。

 静かな闇の中から現実の喧騒へと。


 幸せだったと言っていた。そして、自分のことを忘れないで欲しいとの言葉を残して、その声は消えていく。


 その言葉と共に脳裏に浮かんだのは、幸せな情景。

 目の前で微笑む大切な人と、その腕に眠る赤ん坊の姿。

 涙が出るほど幸せだった、家族との時間――――










 そして今、アイスマンの目の前にあるのは現実。

 自分の行ったことによる、地獄のような光景。

 その中には、彼の子供とも言えるマルタたちの姿もあった。


 ――ワタシハ、何ヲ……シテイルノダ?




  ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 足元の研究施設を見下ろしている。

 ムツミの目に映るもの、それは地獄絵図だった。

 破壊された研究施設と、そこに蠢く正体不明の生命体。

 何より、その中心で暴れまわる、変わり果てた父親の姿。


 ミズシマの気配は、ここまで来ても感じられない。
 いや、どちらにしても、この状態で生きていることは考えられない。

 自分の抱いていた希望が、粉微塵に打ち砕かれていくのを感じる。

 後に残るのは絶望と孤独。


 呆然と目の前の光景を見つめ続けるムツミ。





 その時だった。

 僅かに動きが止まった後で、アイスマンの様子が変化した。
 頭を抱えるように腕を動かし、意味不明の言葉を洩らす。
 その姿は、苦悩しているようにも見えた。

 それはやがて、願いを込めた叫びとなって放たれる。


『…………セヨ』

『……我ヲ滅セヨ!』

『 我ヲ滅セヨォォォォォォォォォ!!』


 自らの存在を消したいと思う願い。苦しみ、のた打ち回る中から出る、血を吐くような叫び。


 しかし、その願いは、ムツミの望みを打ち消してしまうものでもあった。


「…………お父様も、わたしを1人にするの?」

 誰が見ている訳でもないのに、思わず顔を伏せて呟く。


 悲しかった。


 アイスマンとミズシマに会いたくて、必死になってここまで来た。
 その思いを、全て否定されてしまったように感じる。
 なにより、彼の中に自分の姿がない。
 ムツミが姿を現しても、アイスマンの行動には何の変化もなかった。

 しかし、苦しんでいる父親を放っておくことも彼女には出来ない。


「……いいよ。それが……お父様の望みなら…………」


 顔を伏せたまま呟く。

 そして顔を上げると、もう一度同じ言葉を繰り返す。

 アイスマンに聞こえるように、叫ぶような声で。








 その直後、研究施設は崩壊した――――。




  ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 青白い光が薄れていく。

 それは封印の光。

 輝いていた大地から、徐々にその力が失われていく。

 目の前の存在を戒める鎖の完成と共に。


「お父様……」


 封印されつつある父親を眺めながら、無感情にムツミが呟いた。
 その顔は白く、疲労の色が伺える。

 辺りには、生きているものの気配はない。
 封印が完成するまでの間に逃げ延びたものもいたようだったが、少なくとも研究者たちは、外の環境に耐えられないだろう。
 1つの文明が、終焉を迎えたことになる。

 今この場にいるのは、アイスマンとムツミの2人きりだった。
 そして、アイスマンは封印の最終段階にある。

 本来なら、声など聞こえるはずのない状況。

 そこに、弱々しくも威厳のある声が響く。

「……ア…………トウ………………ミ」
「?」
「ム……ツミ」
「! お……父様!?」

 声は、目の前の封印の中から聞こえていた。
 狂気の響きなどない、とても穏やかな声。
 ムツミは一瞬の驚愕の後、慌てて近寄ろうとする。

「待ってて! 今、封印を解くから……」
「駄目……だ」
「どうして!?」

 アイスマンの否定の言葉を聞いて、悲鳴のような声をあげた。
 それに対し、アイスマンはゆっくりと説明する。

 封印で力が弱まっている為に、正気を保っていられること。
 封印を解いてしまえば、再び暴れ出すかもしれないこと。
 自身がそれを望んでおらず、眠りにつきたいこと。

 そして最後に、自分の望みを叶えてくれたことに対する礼の言葉を口にした。

「嫌、嫌だよ。それじゃあ、お別れみたいだよ……そんなお礼なんて、いらない! ただ、傍に、一緒に……いてくれればいいから。だから、だから、わたしを一人にしないでぇーーーー!!」

 そのまま崩れ落ちるムツミ。
 一度は別れを覚悟したはずだった。封印をすると決めたときに。
 しかし、父親と会話を交わした今、その覚悟は脆くも崩れている。
 両目から、涙が溢れて止まらない。


 しばらくの間、ムツミの啜り泣く声だけが響いた。



「……ムツミ、お前は一人じゃない」

 アイスマンが、語り掛ける。
 威厳のある声ではなく、優しさに満ちた声で。

「一緒に過ごしたことは、ないかもしれないが、多くの兄弟や姉妹たちがいる」

 狂気から解き放たれた時にアイスマンが見た光景、その中には多くのマルタたちの姿もあった。そして、隠されていた真実も。
 アイスマンは全てのマルタたちが自分の子であることを、理解していた。

「お前なら、その中心として上手くやっていけるはずだ」

 そう信じていると、心の中で続ける。

 しかし、ムツミは力無く首を横に振った。


「……でも、お父様が、いないよ。それに、ハカセだって……」


「……そんな風に、言ってくれるとはな。良い父親であった自信など、なかったが……」

「良いとか悪いとかじゃないよ。お父様は、お父様だから。他の何も……代りになんてなれない。お父様がいないなんて、わたし、わたし……」

 言葉の最後は、鳴咽となって消えてしまう。
 その言葉を聞いて、アイスマンは微かに笑みを浮かべた。

「……そこまで言ってくれるなら、私も努力しないとな。今は……無理そうだが、必ず再会できるように。また、ムツミと遊ぶことができるように…………」

 二人で遊んだ記憶が蘇る。
 意識だけの逢瀬ではあったが、確かに一緒に過ごした日々。

「ムツミも、祈っていてくれ…………」
「……ほんとに?」
「……本……当…………」

 既に緩慢になっていたアイスマンの動作が、更に鈍くなる。
 封印の光は、今にも消えそうになっていた。

「……約束、だよ? 必ず、必ず、また遊んでくれるって。わたしと、一緒にいてくれるって!」

「……あ……………………」

 その瞬間、大地からの光が消える。


 辺りが暗い。


 何時の間にか、夜になっている。

 月明かりだけが、ムツミを照らしていた。


「お父……様?」


 自分の声が、虚しく木霊する。


「う……そ…………。嘘でしょう? わたしを、からかっているだけだよね? ねぇ、ねぇってばぁ。返事、してよ! 何か……言ってよぉ!! お父様ぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーーー!!」


 自分で施した封印だった。
 完成してしまえばその効力の続く限り、呼びかける言葉など無意味だと、痛いほど判っていた。


 それでも、父親を呼び続ける。


 何度も、何度も、声が嗄れるまで――――


















 そして、時は流れる。

 この時の約束は、後に叶うことになる。

 永遠とも思える時間と、数え切れない悲劇の果てに――――



 ―― 終 ――