嫌味なくらいいい天気だな。雲一つない、気温も高すぎず低すぎず。時々吹く風が心地良いね。どこかに出かけるには絶好の日和だよ。ユウゴやユズハでも誘って行ってこようか。
・・・・・・こいつさえいなければ。
「いかがなされました」
「いや、父さんやミコト、どうしているかな、ってね」
「お2人とももうそろそろオンカミヤムカイに着いたころではないでしょうか。では次にこちらの木簡に目を通しておいてください。お父様の花押が必要なもの以外は全て貴方様のを入れられるようお願いいたします」
「なあベナウィ、こんなに天気も良いんだし、俺もどっか出かけに・・・・・・申し訳ありませんでした」
「賢明なご判断です」
彼らの目の前に積み上げられているのは天井まで届かんとする木簡の、書類の、報告書の山、山、山。
その一つ一つは単なる「物」でしかないが、これだけの量が集まるとある種畏敬の気持ちさえ生まれてくる。足の踏み場がない。などといった月並みの言葉では、この書斎の惨状を表す事などできはしまい。
その中で彼らは今日も、その畏敬の対象と格闘を、いや、死闘を繰り広げていた。
手渡された木簡を開き一読。報告の内容に問題はないか、どこか抜け落ちている事はないか、事前に頭に入れておいた資料と照らし合わせ、不備がなければ花押を入れ欠点があればベナウィそれを指摘し次の木簡へ。
基本的には彼の仕事は延々それの繰り返し。数字の絡む仕事は全て姐──アルルゥが請け負っている。彼の執務机からやや離れたところでは、帳簿を片手に算盤をはじく彼女の真剣な表情があった。
また、彼の目の前に文官の一人が書類をもってやってくる。
なぜここまで多量の仕事が毎日発生するのか。
どさどさどさ
擬音で表すとこんなところであろうか。
ドサ、ドサ、ドサではない。あくまでも──どさどさどさ。
革新的な政策。斬新な制度。トゥスクルではここ10年、その皇の指導の下多くの改革を進め、そして多くの改革は多くの雑務を、生んだ。
片付けても片付けても次の仕事は途切れることなく彼の目の前に運ばれてくる。はじめはその仕事量にただうんざりしていただけの彼であったが、だんだんと自分に仕事を残して、オンカミヤムカイで開かれる祭に行ってしまった父親に憎しみに近い感情すら湧いてきた。本来ならばここに座っているのは彼の父親だというのに。
どうして、僕を選んでくれなかったんだ。父さん。
「ここ見積もりが甘い、アルルゥ姐様のところ持っていって計算し直してもらえ」
ミコトの奴うらやましいな、くそっ。いいな、あいつだけオンカミヤムカイに連れて行ってもらえて。
「これは俺じゃ判断しかねる、父さんが帰ってきてから決裁を仰ぐ」
ユラゥ姉さん元気してるかな。最後に会ったの、もう1年は前だよな。やっぱり勉強、忙しいのかね。
「フミルは可愛くなっただろうねぇ。何と言っても育ち盛りだ。あんな綺麗な子、妹じゃなかったら兄さんほおっておかないよ」
ほら花押入れたぞ、さっさと次持ってこーい!
「はっ? フミルィル様がどうかなさいましたか?」
目の回るような忙しさに、思わず心中の言葉を口に出してしまう。ただ本人はどうも気付いていない様だ。
「あ、今ぼ──俺、何か言ったか」
「フミルィル様が可愛い、や、兄さんほおっておかない、などとおっしゃっておいででしたが?」
そうベナウィに言われ初めて、自分が口走ってしまった、あまりよろしいとは言い難い言葉に気付く。
「うわぁぁあ!」
と叫び声を上げ、
「わ、忘れろ。特に、特に深い意味のあるもんじゃないから。ほ、ほら、花押入れたから次の木簡」
気まずさを誤魔化すかのように次の書類にとりかかろうとする。睨みつけるかのようなベナウィと、そして離れた所からじとーっとした目で見つめるアルルゥの視線が痛い。
「公務はもう少し真面目にとりかかって頂きたいのですが」
「へんじん──っと、仕事終わった」
それだけを言うと、アルルゥは彼のことになどもはや一瞥もくれず立ちあがる。
「うそ、姐様もう終わったの」
「ご苦労様でございました、アルルゥ様」
こった肩をほぐすかのように首を回すと、彼女は帳簿と算盤をベナウィに渡し書斎から出ていこうとする。
そんなアルルゥを、彼は驚きとも羨望ともつかない表情で見つめていた。
「姐様ぁ。お仕事終わったのでしたらぁ、可愛いこの弟を手つだ──
「やだ」
刹那ほどの間さえおかず即答する彼女。その口調からは、間違って仕事など手伝いはしない、と言う確固たる決意が窺い知れた。
その言葉に叩きのめされる彼の事など全くお構いなしだ。
「カミュちーのところ行ってくる。ムックル」
「ヴォフゥ」
「行ってらっしゃいませ」
颯爽と部屋から出ていくアルルゥと彼女の後をついていくムックル。そしてそれを恭しく送りだすベナウィ。彼にしてみれば、やる事さえ終えたのならば後は遊ぼうが寝ていようが特に干渉するつもりは無いようだ。自分に割り当てられた仕事“さえ”終えたならば、だが。
「それじゃあ俺もユウゴたちのところに行ってくるから」
「どこへ、おいでですか? まだ書類が残っている様にお見受けいたしますが」
アルルゥに続いて書斎から離れようとする彼を、ベナウィの言葉が遮る。口調こそ質問の形式をとってはいるが、その響きの中には有無を言わさぬ凄みが含まれていた。
要は、ひどくおっかない。
中腰のところまで立ち上がった体をまた座らせるあたり、同じ思いを彼も抱いているようだ。いや、普段からベナウィに接している分、それはより一層切実に感じているにちがいない。
何事もなかったかのように、しかしおずおずとベナウィから木簡を受け取る。
そしてこちらも、何事もなかったかのように木簡を渡すベナウィ。このあたりに2人の力関係と言うものが如実に表れているだろう。
部屋のどこかから書類が派手に崩落する音が聞こえる。
天井まで届かんとしていた報告書はやっと彼の背丈ほどにはなった。書類の山はようやく向こう側が見える程度にまで減らした。木簡の数も・・・こちらはあまり気にしないほうが彼の精神衛生上無難だろう。
在りし日の彼の父親の様に次の報告書をベナウィから受け取る彼の姿には、彼の歳をして既に哀愁すら漂っていた。
誰か・・・・
誰か助けて・・・・
終わんない・・・仕事が終わんないよ
寝ちゃいたい、もう駄目・・・・お願い
目なんかもう覚めなくていい
お願い
誰でもいいから・・・誰か助けて
彼のその悲痛な叫びは大神ウィツァルネミテアにすら届く事は無く、ただ空しく、胸の内にこだまするばかりであった。
誰かぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー・・・・・・
・
・
・
・
・
「この報告書で最後となります」
さて、一体何刻の時間が過ぎただろう。あれだけあった仕事たちも、残すのは今ベナウィの手の中にある報告書ただ1つとなった。
「あ、ありがとうございました」
仕事が終わってお礼を言うというのもどこか妙な話ではあるが、しかし今の彼の心理状態をこれ以上表現している言葉もあるまい。
まるで取り扱いの難しい劇薬でも扱うかのような慎重な手つきで報告書を受け取る。
ああ、これでやっと・・・
今日1日の苦労すべてが報われたかのような清々しい表情で書類に目を通そうとする。ただ、そんな彼のところに来たのは厄介ごとを抱えた彼女であった。
「報告いたします。行商人メイホア様、火急の知らせという事で目通りを願ってございます」
女官の一人が入り口のところからそう報告する。
「メイホアが? 火急の知らせ? ベナウィ」
「はい。今すぐ彼女を謁見室に──
「いや、ここでいい。かまわないな?」
いちいち謁見室まで移動するのも面倒だ。
ベナウィの口を止め、彼女の方をこ書斎まで連れてくる様女官には命令する。
「しかし、火急の知らせとは」
「どっちにしろ俺は、今日はもうこれ以上仕事はしたくないぞ」
報告書をに目を通しながらそう言う。すると、いかにも面倒くさそうにしていた彼の瞳に何か別の光が宿った様だった。
大した時間もおかず女官に連れられて彼女がやってくる。
歳の程はアルルゥと同程度か、1つか2つ、上と言ったところであろう。細い釣目がちの瞳からはどうも感情が読みずらい。絶世の美女と言ほど人目を引く容姿ではないが、それでも海千山千の商人たちと同等に渡り合うだけの凄みのようなものがその身体からは漂ってくる。
「お二人に置かれましてはご機嫌麗しゅうです、はい」
決まりきった口上を言おうとする彼女を彼の言葉が塞ぐ。
「今更ご機嫌もくそもないだろうに、それになんだその口調は。メイホア、あんたの父親の真似か、それは?」
やや剣呑さを含む彼の言葉にもどこ吹く風とばかりに、いささか楽しげな物を含む表情で、彼女はゆったりとした態度で答える。それは自らが扱う品物に対しての自信の表れでもあるかのようだ。
「さて、お得意様の中にはこう語尾につけないと落ちつかないとおっしゃる方もいらっしゃるのですが・・・貴方様にはお気に召さない様でございますね」
「火急の知らせということだが、何があった」
彼女の語りなど自分の持っている商品を少しでも高く売りつけるための準備でしかない事は、その父親のやり口を見るまでも無く十分に解っている。
とりあえず最後に手渡された報告書の内容を知ってしまった彼としては、一刻も早い対策に乗り出したい。
「以前貴方のお父様から捜索を命じられていました、『かの男』の居場所が判明いたしました」
だがメイホアの口から発せられたそれに、場の温度が2度は下がったような錯覚にみまわれる。普段あれだけ冷静なベナウィですら、その言葉には少なからず動揺したようだ。
「あの男、生きていたのですか」
「生きている可能性があったからこそ、私どもに捜索をお命じになられたのでは? さて、この情報。貴方はいくらでお買いに──
「そっちの言い値で買う」
交渉も何も無く、即座に彼はそう言う。
「ふっかけるならそれでもいい。余計な腹芸はナシだ。それだけの価値がその情報にはあるようだし、今は一刻でも早くその情報が欲しいからな。ベナウィ」
「御意に」
うなずく彼を見て、メイホアはいささか感心した風にその細い目を一層細める。
さて、この若さでなかなか解っているじゃない。
とでも言いたげな光がそこには見て取れる。
「それでは。ご報告させていただきます。かの男、この20年間名前を変えながら各地を転々と渡り歩き、その都度名前を変えていたため今まで発見が遅れていたようでございます」
「それでは、なぜ今になって発見できた?」
今までの軽い、ベナウィに睨まれ竦んでいたのと同一人物とは思えないほどの真剣な様子が彼女を見る彼からは発せられている。
まずその瞳からして違う。それは、彼の母親の様に優しげでありながら真剣な色を湛えるそれではなく、その父親も時折見せるような、何事かを深く想いを巡らせているような鋭さに彩られている。
「はい、そこなのですが・・・かの男、今ではシュアリカンと名乗り、ヤマウラの村に留まっているようです。先日私がその村を訪れた際偶然発見したのですが、老いているとはいえ以前提供いただいた人相書きの人物に間違いは無いものかと。足取りその他裏も取っておりますので」
更に、彼女の口から出た言葉には隠しきれないほどの驚愕が彼らを襲う。
よりにもよって、あの男がヤマウラにいるとは、な。しかも・・・この報告書に合わせるように。これも大神の思し召し、ってことなのかね?
彼は手に持つ報告書に視線を落とす。
「・・・ご苦労さん。思った通りものすごーく役だったよ。詳しくは後で書類にして寄越してくれ」
「毎度、ありがとうございます。今後ともご贔屓に、はい」
人を食ったかのようにそう言って、彼女は部屋から出ていく。相変わらず感情の読めない目ではあるが、最後に彼のことを一瞬、楽しげな、どこ感心したかのような視線で見つめたのは気のせいであっただろうか。
そして部屋から彼女の気配が完全に消えると、ベナウィの事を見て彼は口を開く。
「ベナウィ。今のメイホアの件、お前は知っていてこの報告書を・・・・・・いや、違うな。ならばわざわざ彼女が俺を訪ねて来はしないか」
ベナウィは全く発言しようとはしない。報告書に目をやりながら、彼は思案気な表情で言葉を続ける。
「トウカさん、表にいるんだろ。貴方も入ってきてくれ。貴方にも、これは深く関わる事だから」
「はっ」
部屋の外で警護を続けるトウカも入ってくる。彼女もわきまえたもので、自分が入ってくると同時に書斎の扉を閉めた。これでこの部屋の中にいるのは彼とベナウィ、そしてトウカの3人だけとなる。
「さてベナウィ、この報告書、アルルゥ姐様は何と言っていた? お前とあの人の事だ、どうせ事前に話はすんでいるんだろ?」
彼のその質問とも確認ともつかない言葉に、ゆっくりとベナウィの唇が動いた。
「まかせる、がんばれ、と。ただそれだけを」
まあ、そうだろうな。この件だけでもアルルゥ姐様にしてみれば冷静ではいられないだろうし、その上ヤマウラだ。
「父さんがいないんじゃ、俺がやらなくちゃいけないだろうな」
どこかしょうがないと言った、疲れたような口調で彼は言う。
「何が、起きたのでしょうか」
尋常ではない2人の雰囲気にトウカも口を開く。
そんな彼女の目の前に、彼はその手に持った報告書を、さも禍禍しい物でも捨てるかのように投げて渡す。
「以前からの懸念事項の1つです。読んでくださいよ、笑えてきますから」
彼から受け取ったそれを拾い上げ一読する。その目が、驚愕に見開かれた。
「これは、まさか、また・・・」
―旧クッチャ・ケッチャ領にて不穏な動きあり。元クッチャ・ケッチャ残党兵によるトゥスクル皇都襲撃の可能性高し。その数最大で200ほど。警戒されたし―
「何で今ごろになって動き始めたかと思えば・・・さて、ヤマウラにいるあの男が目当ての1つとなると少し、計画を変えなきゃいけないか・・・・・・」
炎の中から聞こえてくるのは自分に対する恨みの言葉、呪詛の祈り。この20年間途切れることなく見つづけてきた夢。
彼らが自分を憎むのももっともなことであろう。彼らをその炎の中へと追いやったのはこの私なのだから。
私が全てを悪いわけではない!!
私は夢の中で叫ぶ。しかしそれでさえ十年一日の如く変わり映えのしない内容だ。
何を言う。お前が自らの妻を殺めたのは厳然たる事実ではないか。
まるで他人事の様にその言葉に反論をするのも私。
義兄上、信じてくれ!!
何を信じてもらうと言うのだ。尊敬する義兄、その妹である我が妻を殺しておいて。
あいつは、私に隠れて不義を重ねて
そう。我が妻は私が遊牧のため幕舎を離れている間に
しかしその証拠がどこにあった。
「なぜ信じてくれないの」
炎の中から、彼女の言葉が聞こえる。
「なぜ、私は殺されなくてはいけなかったの」
それは貴様が私に隠れて男と通っていたからだ!!
汚らわしい、汚らわしい、汚らわしい
「違う、私はそんなことはしていないわ」
ああ、そうだ。お前はそんな不義理な女ではなかった。それを一番よく知っていたのはこの私ではなかったか。
貴様のような淫媒、生きている価値すらないわ!!
炎の中に彼女は沈む。炎は彼女の体を包みその勢いを更に増す。
ンギャァ、ンギャァ、ンギャァ
この子供も貴様が通じていた男の、子なのだろう。よくも、よくも我を謀ってくれたな・・・
止めろ、止めるんだ! なぜ殺した。その子供は正真正銘私と彼女の子供だ!!
「止めて、止めてくださいあなた!!」
ああ、その言葉は既にお前からも言われていたのだな。
貴様のような女からあなたなどといわれる筋合いなど無いわ!!
違う、違うんだ、信じてくれ。私は今でもお前の事を
夢は妻の目の前から、義兄の前へと移り変わる。
「──――――、貴様、何ということを」
義兄上、違う、違うんだ、私がしたかったことはこのような事では
義兄上、貴様も同罪だ。あのような女、よくも私の妻などに
「貴様はもう既に我が義弟とは思わん。妹の仇、貴様の命で償ってくれる」
全て炎に飲まれてしまえ。
ちがう
我を欺くクッチャ・ケッチャの民など滅んでしまえ。消え去ってしまえ!!
ちがう
「なぜ私を殺したの」
違う
「自らの子さえも手に掛けるとは、既に貴様人ではない!!」
違う
消えろ
違う
消えろ、消えろ
違う、違う
消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ──消えてしまえ!!
違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う──違うんだ────────
彼の夢はいつもそこで覚める。
縄を編んでいる途中にうとうととしていたようだ。あたりには干草の束が積まれている。
彼の目の前にあるのは至極一般的な、辺境の一家屋である。けして炎に巻かれる人々などではない。
しかし、彼の瞳は夢から覚めてもなおその炎を見ているかのように、焦点を結んではいなかった。
20年間各地を転々と逃げ惑い、そして1月ほど前からこの集落、ヤマウラの村に彼は滞在していた。既に50も近いような男である。そのような素性も知れない流れ者をさも当然かのように受け入れるあたり、やはりここは辺境の村、人々が助け合う事で成り立っている場所なのだろう。
だがこの村は、私が逃げ出してきたあの国とも近い。
それまで空ろとも表現できるような男の瞳に、ようやく光が宿ってきた。
目を閉じると夢の中で彼女たちが唱える呪詛の言葉が、直接その場所から響いてくるかのようだ。それでもこの場所に留まりつづけるのは、もう各地を放浪するのにも疲れたからなのだろう。その最後の場所としてあの国から近いこの村は、罪を忘れないという点ではおあつらえ向きなのかもしれない。
しかしその瞳は、苦悩と悲しみに光る、冷たい光であった。
私は自らの妻と、そして子を殺した。
そして、多くの愛すべき仲間たちをも殺害し、敬愛する義兄によって討伐された。
そこで死ぬことができていればどれだけ楽であったことか。一命を取り留めたのは、自らの罪を背負い一生を過ごせという大神の与えた罰なのだろうか?
もしそうだとすると、それは、何という過酷な罰なのだろう!!
各地を逃げ惑っていたこの20年、1日たりとも心休まる日など無かった。眠れば自らが手をかけた人々の夢を見、起きていてさえその恨みの視線は私を見続ける。これ以上の罰がこの世にあるというのか!?
あの時の自分は、本当にどうにかしていたとしか言いようが無い。愛する妻が不義を重ねたと思いこみ、そして彼女、我が子を殺めてまでしまうなど!
後に冷静になって考えてみれば、なぜそのような考えに到ったかすらはっきりとはしていない。ただ、無性に彼女のことが疑わしく思えてならなかった。そう、何かに浮かされ、操られでもしていたかのように。
のろのろと、再び縄を編もうとする。そこにあるのは、もはや自分の罪に押しつぶされようとしている、ただの一人の老人だけであった。
「シュアリカンさん、いるかい?」
その彼の家の扉を開け、初老の男が入ってくる。
「リュウジョさん・・・どうか、なさったのですか?」
「ああ、いた。どうもあんたにお客の様だぜ。今、村長代理の家で待ってる」
彼がリュウジョと呼んだその老人は、男の都合などお構いなしに家の中に上がり彼を連れていこうとする。
「あんた天涯孤独の流れ者って言ってたけど、なかなかどうして、皇城からあんな客が来るなんざ実はどこかのお偉いさんじゃねえのか」
「皇城から?」
感情などもはや磨耗しきってしまったかのような彼の表情に、初めてはっきりと見て取れる驚きの色が浮かぶ。
皇城から・・・ああ、とうとう私の正体が露見したのだな。たぶん、そうだろう。そうでなければ私に客などあるはずが無い。そうだ・・・この国の人間にしてみれば私など本来はしなくてもいい戦争を引き起こした──
「お、おいシュアリカンさん、あんた大丈夫か。顔色が悪いぜ」
「ああ、大丈夫です。村長代理の家ですね。わかりました」
今更何をおびえる。とうに覚悟していたことではないか。それに打ち首にでもなればこの苦しみからも解放される。それは・・・むしろ幸せなことではないか。
リュウジョに答えると、シュアリカンは彼とともに村長代理の家へと向かおうとする。
「おおそうだ。シュアリカンさん、あんたに言われたとおりの薬草、家のウマに食わせたんだが、一発で病気が治っちまったぞ。いやぁ助かった、有難うさん。あんたみたいなウマの扱いに詳しい人間が来てくれて大助かりだ」
道すがら、リュウジョは彼とそのような会話を交わしていた。
「それは、良かった・・・」
疲れた笑みを返すシュアリカン。
彼らが向かったこの村の村長代理の家、その表には毛並みもよい3頭のウォプタルがつながれている。このウマを見ればリュウジョが「あんな客」と言うのもうなずけるというものだ。特に、3頭の中の1頭、白いウォプタルは、今まで数多くのウマを触れてきたシュアリカンをしてもその素晴らしさには見とれてしまう。
「いやぁうらやましいねぇ、お城の人間ってのは。こんな立派なウマに乗れるなんてよ。」
リュウジョの叩く軽口などまったく耳に入らないように、シュアリカンの視線はその家の扉へと注がれる。
これだけのウマに乗ってくるのだ。もはや・・・間違いはあるまい。
「それじゃあなシュアリカンさん。俺はあんたを呼びにやるように言われただけだから。あとで誰が来てんのか教えてくれよ」
そう言ってリュウジョはその場を離れていく。
あと、か。私に「あとで」とはな。
自嘲めいた笑みを浮かべつつ扉を彼は開ける。
薄暗い家屋の中、その中にいたのは表にいるウマの数と同じ、3名の男女であった。
「やっと来たか、待っていたよ」
その3人の中央に座る人間。その少年がシュアリカンが家の中に入ると同時に口を開いた。
何と言う、深い瞳・・・・・・この少年は・・・本当に人間か!?
それがシュアリカンの、彼に対して最初に抱いた想いだった。
真っ直ぐに彼の事を見据えるその夜の闇のごとき瞳は、この奥に何があるのか窺い知る事など不可能なほどに深い色を湛え、しかし、澄んだ輝きを放っている。
このような瞳を持つ人間が本当にいるというのか!? これは、まるで
「そんなところに突っ立っていないで、こっちへ来てもらえるかな。いささか込み入った話をしなくちゃならないんでね」
まるで人ならざる者かのような少年の口から再度言葉が紡がれる。
彼の瞳の呪縛から解放されたかのように、シュアリカンはよろよろと3人の方へと近寄っていった。
「あんたには初めまして、と言うべきなんだろうねシュアリカン。いや、ラクシャインと言ったほうがいいかな」
彼のその言葉には今更なんの反応も見せず、それでも自分を見つめる彼の瞳にはいささかの居心地の悪さを覚えつつシュアリカン──ラクシャインは目の前の3人に返答をする。
「貴方たちは、やはり私を捕えに来たのですか」
勤めて無表情を装いそう答える彼であったが、しかし彼に返ってきた言葉はその予測とはいささか別の物であった。
「それもいいかもしれないがね、けど、今日はあんたにはもう少し役に立ってもらうつもりで来た」
彼の口から出る言葉に一層の真剣みが加わる。
「役に、ですか? し、しかし私のような人間に何が──
できる。と続けようとしたラクシャインに彼の言葉が被さる。
「1月ほど前からあんたの故郷、旧クッチャ・ケッチャ領内の反トゥスクル勢力の動きが活発になってきた。以前から何かにつけて動き回ってきた粗忽者たちだったがね、ここのところの急な活性化にはこっちも頭をひねっていたんだよ。後は、ベナウィ。説明を頼む」
「御意に」
語り手が少年から、その少年の傍らに座る男へと移った。男は彼に恭しく頭を下げると私を見、少年のものとは違う、鋭い視線を私へと投げかけてくる。
白いウォプタル。そしてベナウィと言う名前。ではこの男が切れ者として隣国でもその名を響かせるトゥスクル国丞相、ベナウィなのだろう。
ではその反対側に座る女性は、ハクオロ皇のお側付きとして名を馳せるエヴェンクルガの武人、トウカであろうか。
すると、この少年は・・・・・・
「彼らクッチャ・ケッチャ残党の目的。それが20年前に彼らが果す事のできなかったトゥスクル皇都襲撃にある事だけは草の報告から解っていました。しかし、なぜそれが今なのか、それだけはつかむ事が出来なかったのですが」
ベナウィのその言葉に、彼の意識は中央にいる少年からベナウィへと移った。
「まさか、その理由とは私、なのですか」
ベナウィはうなずく事でその問いに答える。
「あなたがこの村に現れたのは1月前。そして彼らの動きが活発になったのもちょうど同じころです。おそらく間違いないでしょう」
愕然とするシュアリカン。
それもそうであろう。20年経った今でも、自らが起こした惨劇は多くの人間の心を今でも縛り付けていると言うのだ。今までそれを思わなかった訳ではない。しかし、あらためてそう人の口から聞かされるということは、自らの罪がどれだけ大きいものであったかということをまじまじと認識させるには十分な事であった。
「・・・それで、私に何をしろと」
覚悟はしていた。しかしその覚悟がまだ甘い物であったという事に、再度彼は打ちのめされる。もはや押し殺すかのようにそう問い掛ける事が、彼に出きる精一杯の事であるかのようだった。
「それは──
ベナウィがそう口を開きかけた時であった。
「ご、ご報告いたします」
家の扉を開け、息を切らせて一人の兵士が飛び込んできた。
「落ちつけ、御主もトゥスクルの兵の一人であろう。何があった!」
今まで黙って座っていたトウカがそう叫ぶ。
緊張しきっていた兵の様子が幾分かは和らぐ。
「は、はい。ご報告いたします。北方より南下する騎兵が確認されました。えー、その数200、ほど。既に北峡谷沿い、サポロペの村は壊滅、ここヤマユラまで10里ほどの距離まで接近しております」
慌てているためかほとんど棒読みに近いその兵の報告であったが、しかしその内容は、既に世捨て人となったシュアリカンをしても驚愕すべきものだった。
「思ったより行動に移すのが早いな」
「こちらの予測では決起まで後数日あるはずでしたが」
兵の報告の重要さにもかかわらず、2人は冷静なままである。義に厚いと言われるエヴェンクルガの彼女ですら落ちついたものだ。村が1つ壊滅したと聞かされても、その表情に焦燥の色はまったく見られない。それどころか少年に到っては口元に苦笑いすら浮かべている。
「なぜ、あなたたちはそう落ちついていられるのですか。村が1つ、襲われたのではないのですか!?」
むしろ、困惑の表情でそう叫んだのはシュアリカンのほうであった。
「ああ、あそこの村が真っ先に襲われるのは予測済みだったんでね」
それがまるで当たり前な事であるかのように言う少年に対して、彼は戸惑いつつもこう問わないではいられなかった。
彼のその瞳は、依然として深い黒に湛えられている。
「自分の国の民が犠牲になっているというのにその言いぐさはなんだ! わかっていたというのならなぜ事前に避難をさせておかなかった!!」
無辜の民が犠牲になるというのは、既に磨耗してしまったかのような彼の正義感をしてもとても看過しきれる物ではなかった。その状況を招いてしまった自分の存在、そしてその事に対してまったく気にも止めていないかのような目の前の彼に対して20年ぶりとも言える怒りが湧いてくる。
「下手にあの村の人間を動かすとこっちが向こうの計画をつかんでいる事が露見するかもしれないだろ。せっかく長年にわたる懸念事項が解決するかもしれなかったんだ。この際少々の犠牲には目を瞑って奴らを一網打尽にしたほうが長い目で見たら得だろうしな。だけど・・・奴らのこの早さはいささか計画外か」
彼のその言いぐさは、とてもではないがシュアリカンの耐える事の出きる物ではなかった。かつて自分もなんの罪も無い人間たちを殺めたからと言って、いや、むしろ殺めてしまったからこそ、その気持は一層強いものとなる。
「馬鹿な・・・」
語尾が振るえるのが自分でもわかるほどに、久方ぶりに覚える感情が彼を満たしていった。
そして、怒りと共にまた別の感情も湧いてくる。それはなぜか、目の前の少年に裏切られた、と言う思い、失望の念であった。
「時間が無いな。ラクシャイン、あんたに頼みがある。あんたはこれから奴らに投降して、少しでも時間を稼いでもらいたい。奴らの目的の1つはあんたの首なんだ。もしかしたらあんたを血祭りに上げれば奴らも満足して帰っていくかもしれないしな。どうだ? 何、いやだと言ってもどうせ最後には打ち首の運命があんたにはまっているんだ、ここで少しでも役に立っておいた方が死んでからも大神様の覚えもめでたいだろうよ」
「・・・無論」
なんとか感情の激発を押さえそう言う。
「今すぐにでも出発しましょう。しかしこれは私や、あなたたちのためではありません。この村に住む無辜の民たちのためにこの命が少しでも役に立つのなら、喜んで彼らにこの身を差し出します。けれどあなたたちは、本当に私が彼らの前に出ていった程度で時間稼ぎができると思っているのですか?」
「できなかった時は、まあ皇都だけはなんとか守り通すよ。それじゃあ頼む」
この少年は、自らの国の民をなんだと思っているのだ。ならば・・・・・・
「・・・行く前に1つだけ聞かせてください。貴方は自分がしていることが正しいと、信じていますか」
一瞬、少年を見るベナウィの顔色が変わった気がした。
「貴様、某たちを愚弄するつもりか! 義は某たちと共にある!」
トウカがいきり立ってそう叫ぶ。
「ああ、トウカさん、あまり気にしないほうがいい。まあ、もっともな疑問だから」
そういう彼の瞳に浮かんだのは、今までのどこか人ならざる輝きではなく、どこか悲しげな何かであった。
「・・・それが正しかったか正しくなかったか、そんなことは地獄に堕ちてからゆっくり考えるさ。どうせ地獄に行かなきゃならんのは決定済みだろうからな」
「それが、答えですか」
急に雰囲気の変わった彼にいささか戸惑いつつ、シュアリカンはそう彼の答えに返答する。
「ああ。それより、時間が無いんだ。行くんなら早くしてくれないか」
「・・・ええ」
そういって、彼は自らの家へと駆けて行く。それは今まで世を捨てていた老人のものとは思えないほど力に満ちたものだった。
「シュアリカンさん、どうしたんだいそんな血相変えて」
途中リュウジョとすれ違う。
この人たちが逃げ出す時間だけでも稼がなくては。
彼は自分のみを差し出したくらいで自分に恨みを持つ、クッチャ・ケッチャの人間が兵を引くとは思っていなかった。彼らの恨みがどれほどのものか、その原因を作った自分が、一番よくわかっていた。
ならば、後はこの身をこの村のために盾と捧げようではないか。
納屋の中にあるのは1本の槍。以前、彼の妻と結婚した時祝いの品として義兄からもらったものだ。各地を流浪する間も、これだけは彼には捨てる事はできないものだった。
自らのウォプタルの背にまたがる。20年ぶりの戦場。彼は自らの四肢が引き締まっていく事を感じる。
風を受けウォプタルを走らせる。
しかし、あの少年が最後に見せた悲しげな瞳は・・・一体。
自らに恨みを持つものたちの下へと向う途中、彼の頭をよぎるのはその少年の言葉と、その瞳であった。
あれだけの悲しみを知るものが、なぜ民を犠牲にしてまで自らを守ろうとする?
彼のその疑問は、平原の向こうに土煙が見えてきたところで中断される。総勢200もの騎兵の群れが上げる土煙だ。
来たか。
周囲を丘に囲まれたある意味一本道とも呼べるようなこの土地に、彼らを押し留めるようなものは何ひとつとしてない。
「止まれぃ!!」
先頭の騎兵の顔が見える程度の距離で彼はそう叫んだ。たった一人で自分たちの進路を塞ごうとする男に、彼らの間でも動揺が走る。
「我の名はラクシャイン。元クッチャ・ケッチャ皇オリリカンの義弟にしてクッチャ・ケッチャ随一の槍使い。そなたたちが恨みを持つ男よ。さあ、どうした。そなたたちの狙う首はここにあるぞ。しかしこの首、ただではやらん。一人でも多くそなたたちを道連れにしてくれようぞ」
急に目の前に現れた、自分たちの目的の人間に騎兵たちは怒号を上げる。戸惑ったのも一瞬。指揮官らしき人間が号令をかけると、全騎が一斉に彼をめがけて向かってくる。
それでいい。全員、私を狙いにやってくるがいい。
その圧倒的な勢いに身体を強張らせる。もはや形見といっても差し支えないであろう槍を構えた。
お互いの距離が十数間にまで近づいた時であった。
おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ
四方を囲む丘から鬨の声があがる。
続いてやって来たのは、千を超えるであろう兵士たちであった。その鎧にはトゥスクルの文様が彫られている。
不意をつかれ目に見えて狼狽する騎兵たち。慌てて、新たに現れた兵士たちから防御しようとするがそれぞれがぞれぞれに浮き足立ち、とてもではないがまともに陣を張れるような状況ではない。
「退路は開けてやる必要はねえ、全部まとめて一網打尽にしろ。一兵たりとも逃がすんじゃねえぞ!!」
ウォプタルに跨った体格のいい男がそう叫んだ。おそらく、彼がこの兵たちの指揮官なのだろう。だが、この場所にトゥスクルの兵士だと? 一体どこから
「おー、クロウの奴張りきっているなぁ」
今だ呆然として、状況のつかめないシュアリカンの後ろから声が聞こえてきた。
「あ、あなたたちは」
「さすが元遊牧の民だけはあるね。それだけ上手くウォプタルを乗りこなせる人間、うちにもそうそういないよ」
彼の後ろには先ほどヤマユラの村でわかれてきた3人がウォプタルに跨り立っていた。
「この、兵たちは一体」
「ご報告いたします。侍大将クロウ様率いる総勢1200、予定通り所定の位置より攻勢に入りました」
「ご苦労、続いて油断せず命を全うするようクロウには伝えろ」
「はっ」
伝令が、忙しそうに戦場へと戻っていく。
シュアリカンは混乱した頭のまま少年の方を見た。
「まあ、こう言う事でね」
「それでは壊滅した村というのも」
「ご報告いたします。サポロペの村に配置した屯田兵200、敵兵の退路を断つべく所定の位置に布陣、完了いたしました」
その伝令の言葉に、シュアリカンの混乱は一層増してくる。
「ああ、あの村にいたのは全員我が軍の兵士たちだけでね。何かあったらすぐ退却して、敵兵の退路を断つようになっていたんだよ。まあ、一応機密事項ってことになっていたから、あんたが知らないのも無理は無いけど」
「で、では今までのは全て」
「まあ、ね。さっき村長代理にの家に来た伝令も含めて全部演技。まったく、あの伝令兵の大根さにはあんたに計画がバレやしないかひやひや物だったよ」
少年の後ろでは、難しい顔をしたベナウィと苦笑するトウカがいる。
あれは、全部演技だというのか。あの言葉も、態度まで全て。
「なぜ、そのような回りくどい事まで」
「1つはあんたを囮に使う事で奴らの進行方向をひとつに限定してしまうこと。もうひとつは・・・あんたが本当に噂に聞くほどの悪人かどうかを確かめる事、だ」
「わ、私を試したというのですか」
「なに、あんたは合格だよ。あんたは迷うことなくあいつらの前にその身を差し出そうとしたしな。これなら母さんの村──ヤマユラにあんたを置いておいても問題はなさそうだ。なあ、ベナウィ」
「あくまで、この男がシュアリカンとして生きる、という条件はつきますが」
呆然とするシュアリカンを横目に、少年は既に趨勢の決しようとしている戦場のほうへとその視線を移した。最初はどこか辛そうにそれを見ていた彼であったが、急に、何かを見つけたかのようにその目を大きく見開いた。
彼につられてシュアリカンもその方向を見るが、おそらく彼が見つけたものとはあれの事であろう。戦場の中には一匹の白い獣と、それに背を預け薙刀を振るう、一人の美しい女性がいた。
「ベナウィ、なんであそこにアルルゥ姉様がいる!?」
今までどこか冷静な部分を残していた少年は、その冷静さをかなぐり捨てる様に後ろにいるベナウィに向かって怒鳴なった。いや、怒鳴るというよりこれは心底驚いた人間だけが出す、驚愕の大声だろう。
「ぜひ参加したいとのことでしたので」
「参加したいってなぁ。うわ、姐様あれ機嫌悪いぞ。荒れ方がただ事じゃ無い。あ、お前まさか、アルルゥ姐様を止める事ができなかったな。そうだろ、いや、そうに違いない。お前姐様にだけは甘いからなぁ」
ベナウィはそんな彼の詰問とも揶揄ともつかないようなものには答えようともせず、ただ眉間のしわを数本増やしただけである。
2人がそんな会話をしている間に、戦闘はもう終結しようとしていた。クッチャ・ケッチャの残党は全て捕らえられるかその命で自らの罪をあがない、動き回れそうなものは既に残ってはいなかった。
その中から、先ほど目に付いた、2人がアルルゥ姐様と呼んでいた女性がこちらの方へ近づいてくる。不機嫌そうに、ムティカパを後ろに引きつれ、大股でこちらへ歩いてきた。
いくら自軍に圧倒的な戦場であったからといって、その身に傷1つどころか返り血の1滴も浴びていないというのは彼女の腕が確かである事の証拠であろう。
その彼女が、自分の目の前で立ち止まる。その大きな黒い瞳に見据えられ、少年のあの瞳に見つめられるのとはまた違った、後ろめたさのようなものを感じてしまう。
「ラクシャイン?」
彼女が、そう問い掛けてきた。その一言には一体どれほどの感情が込められているのだろう。怒り、悲しみ。それは、単純にそれだけのものではないだろう。
「そう、です」
シュアリカンがアルルゥにそう答えた次の瞬間。彼女は渾身の力でラクシャインの事を殴り飛ばしていた。それは平手打ちなどという生易しいものではない。文字通り拳で、彼が吹き飛ぶほどに殴りつける。不意をつかれ1間近い距離を跳ぶ彼。頬の所にはくっきりとした彼女の拳の跡が残っているだろう。
呆気にとられる少年たち三人を尻目に彼女はラクシャインに言って放つ。
「とりあえず、これだけ。ムックル」
そう言ってムックルの背に乗ると兵士たちのほうへと戻ってしまった。
後に残されたのは自分のみに何が起きたかよくわかっていないシュアリカンと、そして3人の男女だけであった。
「くくっ、くははははははははははは」
急に少年が笑い出した。
「おいあんた、よかったな。今日のところはそれで勘弁してくれるんだってさ。あの機嫌の悪さだったら腕の1本や2本、覚悟しなくちゃいけなかったかもしれないのに」
心底楽しそうに、腹を抱えてそう言う。
この少年は、このような顔もできるのか。
彼の瞳に映るのはどこか人知を超越したような光ではなく、彼の年齢にふさわしい少年らしい楽しさに満ちる色であった。
痛む頬を押さえつつ、シュアリカンは少年に問い掛ける。
おそらく、今夜からあの悪夢によってうなされる事は無いだろう。
「貴方の名を」
「俺の名は・・・トゥスクルだ!」
「いや、お見事でございました。初陣とは思えぬあの采配。このトウカ心底感服仕りました」
ヤマユラから皇都へと続く道の途中、ウォプタルに乗るトゥスクルをトウカがそう褒め称える。
「うん、まあ、計画の概要は既に父さんたちと決めていたから」
「しかしあの男、ラクシャインに対する温情溢れるお裁き。また、弱兵に対して一切手を抜こうとしない布陣。将来お父様の跡を継ぐに相応しい態度でございました。それに引き替えユウゴといえば」
「なあトウカさん。貴方はかつて父さんと一緒に戦場に出ていたんだろう。戦いの後、父さんはどんな顔つきだった? 平然と・・・していたか?」
そこまで言われ、彼が何を言わんとしているかようやく彼女は悟る。そうしてまじまじと見る彼の顔つきは、何かに必死に耐えようとする、どこか辛そうなものだった。
「・・・・・・貴方様が何に苦しんでおられるかは某、痛いほどわかりまする。そして、その痛みは貴方様のお父上様も今なお味わう苦しみ。いくら必要な犠牲とはいえ、自らの為命を投げ出した者に心を砕かないようなお方では、このトウカ、忠義は誓いませぬゆえ」
「そうか・・・ありがとう、トウカさん。まったく、戦いのたびにこんな思いをしなくちゃならないなんてな。少しでも死人を減らそうとして増やした兵士だったのに、結局3人も被害が出た。さっさと後継ぎの座から一抜けしたミコトの奴がうらやましいよ」
あえて楽しげに自らの胸のうちの苦悩を吐露する彼。
「では、貴方様もその場所から抜けますか?」
そんな彼に、今まで無言であったベナウィが厳しいといっていいほどの口調で尋ねる。
「ベナウィ殿、今のトゥスクル様にそれは」
「いかが、なさいますか?」
容赦せぬ雰囲気で彼のトゥスクルに対する問いかけは続く。
そしてトゥスクルは、どこか観念したかのように、肩の力を抜いてこう答えた。
「今俺が抜けるとアルルゥ姐様の負担が増えるし、ユラゥ姉様の立場も微妙になる。それに、俺の変わりとばかりにせっかく抜けたミコトにお鉢が回りかねない。こんな思いをするには、あいつは優しすぎる。ミコトじゃこの場所は絶えられないよ。他のみんなじゃ問題外だし。結局しばらくの間は俺がなんとかこの場所にいなくちゃいけないだろうな」
「承知いたしました。しかしトゥスクル様」
「なんだ。まだ俺に何か用か?」
「無理をして『俺』という一人称を使わずとも普段通り『僕』でよろしいかと存じ上げますが。無理をしていてはいつか重圧に潰されてしまいかねませぬゆえ」
そんなベナゥイの物言いに、まるではとが豆鉄砲でも食らったかのような表情となるトゥスクル。
驚きの次に湧いてきたのは、大声で笑い出してしまいたいという欲求であった。
「ああ、そうだな、そうするよ。なんとなくだけど、“僕”は一生かかってもお前に敵わない気がするよ」
その欲求に身を任せ、ウマから転げ落ちそうなほどに身体をそらせて大笑する。
「これからもよろしく頼むよ、トウカさん、ベナウィ」
「御意」
「トゥスクル様の、御心のままに」
終