部屋の中に入り扉を閉めると、オボロは大きく息を吐く。
「ふう」
月明り以外照明のない部屋の中では、遠くから聞こえる虫の声だけがいやにはっきりと響いていた。
昼間、ミコトに斬られできた刀傷に包帯の上から手を当てる。エルルゥには目立つほどの跡は残らないだろうと言われた。
だがこの程度の傷であれば、それこそ今まで数え切れないほどこの身体に刻んでいる。
彼女に言ったことが本心という訳ではないが、いまさら傷痕が一つ二つ増えたところで何がどうなるというものでもない。
「まだまだ、だな」
クロウが本気を出したというのもうなずける。正直、ミコトがあそこまで戦い方を知っているとは実際に相手をするまで思っていなかった。
元々素質には恵まれていたのかもしれない。独学だとは思うが。それで、自分とあそこまで渡り合える。それは頼もしいことでもあり、そして残念でもある。
できることならこのままあの子を鍛えてやりたい。だが、それはあの子が拒否するだろう。自分が関わった段階で、あの子の力はあの子が望むものにはなりえなくなる。
あの子が欲しているのは抗う力ではなく守る力なのだ。
「まだまだだな」
誰に聞かせるわけでもなく。再度、彼はつぶやく。部屋に明りをつけるが虫の声は止むことなく聞こえ続ける。
確かにあの子は強い。しかしまだまだだ。まだ、あの子の力は大切な人を守り通すことのできるものではない。
今のミコトの力では、かつての自分や、あの子の父親と同じ後悔をしてしまいかねない。
大切な人を守る力を得ようとすること、それがいかに難しいことかあの子は知っているだろうか。
・・・・・・ただ、それでも
「それでも覚悟だけは、本物だったか」
それだけ言って、オボロは彼の双剣へと手を伸ばす。
鞘から刀身を抜く。
彼の力そのもの、30年を越す彼の人生の中で手に入れてきた。大切なもの、守りたかったものを守ることはできなかった、数多くの後悔の末今の彼の力があった。
その力を見つめながら、オボロは何を想っているのだろうか。彼にその覚悟を見せたミコトの事か、今はオンカミヤムカイにいる彼が守るべき存在をか。それとも、彼が守り通すことを望んだ、今は亡き彼女のことか。
剣を鞘に収めたところで部屋の扉を叩く音がする。
「誰だ、クロウか?」
よほど真剣に剣を見入っていたのだろう。扉を叩かれるまで誰かが扉の外にいることに、全く気付くことができなかった。
そのことを苦々しく思いながらも、オボロは扉の外の人物に声をかける。
「オボロ、いるのですか? 入りますよ」
そう言って部屋へと入ってきた彼に、オボロはやや驚いた表情を作る。
珍しい奴が来たもんだ。
「丞相殿が俺の部屋に来るなんて珍しいな。仕事はいいのか」
「ええ、今日はいつもほど量がありませんでしたから」
落ち着いた身のこなしで彼の部屋に入ってきたのは、トゥスクル国丞相、ベナウィであった。彼のことをオボロはからかい半分に今の彼の役職で呼ぶが、ベナウィほうでは全く動じた様子はない。
こいつだけは幾つになっても変わらんな。
そう思いながらオボロは口元に笑みを浮かべる。そうだ、この男は自分がまだ未熟だったころから、こうやって何事にも動ぜず俺たちを率いていたのだろう。
「あれでいつもより少なめだとはな。どうだ、侍大将をやっていたころの方が楽だったんじゃないのか?」
わざとあきれたような口調で聞く。
「そうでもありませんよ。これも国を治めるための重要な役目の一つです」
返ってくる答も、やはりあのころとはどこも変わらない。
たったこれだけのやり取りの中に、何か懐かしいものがオボロの胸をよぎる。一度過ぎてしまった時間は二度と取り戻すことができないことはわかっている。わかってはいるが、それでも過去の思い出というものは人を安心させることのできるものだ。
ベナウィの方でもそれは感じているのかもしれない。例によって表面にそれを出すような人間ではないが、少なくとも今のこの雰囲気を彼が疎ましく思っている様子はない。
「あなたこそ、双剣のオボロといえばもはや生きた伝説となっていますからね。そう気楽な立場という訳にもいかないでしょう」
そのベナウィが、彼にしては珍しく気安い言葉をかける。
だが、オボロを見るその瞳には、侍大将として戦場を駆け巡っていたころと同じ静かな力がゆらいでいる。
「おいおい、生きた伝説とは大げさだな。俺はゲンジマルの爺さんじゃないんだぞ」
答えるオボロも、彼の目に宿るものには気付く。
こいつがただ世間話のためだけに俺を訪ねる訳がない、か。
「たった一人で数十体のアヴ・カムゥを屠った。その活躍で一国の軍隊を全滅させた。あなたの活躍はここトゥスクルでもよく耳にしますよ」
「いくら何でもそりゃ話が大きくなり過ぎだ。お前ほどの男がそんな与太話を本気で信用しているわけではないだろうが」
端から見れば世間話にしか聞こえない会話の中で、二人は真剣に何かを待っていた。
「ええ、もちろん。ですがそんな荒唐無稽な話が現実味を持って語られるほど、あなたの存在は大きくなっているということですよ」
まるで空気が固体と化したかのような雰囲気の中、彼らはお互いを見据えたまま世間話を続ける。
「昔は俺に稽古をつけていた人間の言葉とは思えんな。どうだ、久しぶりにこれから一勝負してみないか。丞相なんかになったところで、修練を止めたわけではないんだろう?」
「止めておきましょう。いくらあなたが手負いとはいえ、今の私では勝負になりませんよ」
空気が動く。固体と化した空気は、今の彼の言葉とともにその場を揺らめき始めた。
ああ、やはりそのことだったか。
十秒。それが、動き始めた空気がまた落ち着くまでに要した時間だった。十秒の沈黙の中、2人の男はお互い身じろぎもせず次の言葉を待つ。
「・・・・・・オボロ。あなたがミコト様の真意を確かめてくれたこと、感謝します」
ベナウィの発するその言葉に、オボロは用意していた答えを言う。
「気にするな。あの役目をお前やクロウにやらせるのは少々酷だ。カルラの奴ならうまいこと聞き出せたのかもしれんが、それでもよそ者である俺がやるのが一番適当だろう」
もはや、そこにあるのは友と話す男の表情ではなく、国の行く末を憂える一人の臣下と、そして、一人の雄のそれだった。
「ミコト様のお気持ちがあそこにある限り、あの方に群がる輩を押さえることは容易でしょう。トゥスクルの臣下の一人として、あなたには御礼を言わせてください」
そう言って彼は頭を下げる。
「なあ、ベナウィ」
頭を垂れたままのベナウィに、オボロは肩の力を抜く。
こいつに頭を下げさせるなんて始めてじゃないだろうか。
そう思うと笑いがこみ上げてきた。
「お前に頭を下げさせるのも気分がいいもんだな。若いころはよくお前に説教されていたが、少しはその時の俺の気持ちがわかったか」
心底楽しそうにオボロは笑う。
「オボロ、あなたという人は・・・・・・」
頭を上げたベナウィも、呆れているのだか怒っているのだかという表情の中に、それまでの張り詰めたものとは違う、どこか楽しげな感情が見て取れた。
「カルラではないがな。あの子たちのことはおそらく大丈夫だろう。お前もいるしクロウもいる。それに、兄者がいるんだ。この国は大丈夫だよ」
「ええ」
「私がどうかしたか」
部屋の入り口には、新たな訪問者がやってきていた。
「兄者」
「聖上」
噂をすれば影が差す、という訳でもなかろうが、そこに立っていたのは今2人が話していたトゥスクル皇ハクオロその人であった。
「私のことを話していたようだが」
口元に笑みを浮かべつつ2人にそう聞く。
この様子だと、全部聞いていたな。立ち聞きとは兄者も人が悪い。来ていたのならすぐにでも入ってくればいいものを。
「いや、兄者がいる限りこの国も安泰だろうとな、ベナウィの奴と話していたんだ」
「聖上こそいかがなされました」
ベナウィにそう聞かれるといささか返答に詰まるハクオロ。
「いや、その、なんだ。珍しく時間もできたしオボロと酒でも呑もうかと来てみたんだが」
言いにくそうにベナウィを見る。
「そうでございましたか」
「そうでございましたか、と、それだけか?」
「それだけとは?」
心底不思議そうに問い返すベナウィ。
「いや、何でもない」
てっきり小言の一つ、下手をすればそれだけで人を殺せるのではないかというような目で睨まれると思ってでもいたのだろう。あまりにもあっさりとした彼にいささか戸惑う。
「明日も政務がございます。あまり羽目ははずされませぬ様。では私はこれで」
「おい、ベナウィ」
おいおいおいおい、どうしてそこで出て行こうとする。
「ベナウィ。どうだ、お前は呑っていかないのか」
部屋から出て行こうとするベナウィをオボロが引き止める。
「しかし」
「そうだな。3人で飲むのもまたいいものだろう」
「兄者もそう言っているんだ。一杯くらい呑っていけ」
二人にそう言われ、なにかを観念したように「ふう」と息を吐くと、彼は床へと座り込んだ。
「私が入ると、お二人の取り分が減りますよ」
「なに、オボロとお前の分くらいなら持ってきている」
そう言って、持ってきた碗に徳利から酒を注ぐ。濁りのない澄んだ液体がその馨しい香りをさせながら、音を立てて三人の前に現れた。
そして3人が3人、それぞれに碗に口をつけたとき、この晩3人目の訪問者がオボロの部屋へとやってくる。
「この国では同盟国の皇に見せられぬ、何か後ろ暗い場所でもあるというのか!」
「そ、そう言うわけではござらぬが、ここは客間。例え他国の皇と言えどもお通しするわけには」
表ではここを通せという男と、それを何とか止めようとするトウカの狼狽する声が響いていた。
急に騒がしくなってしまった雰囲気に3人は顔を見合わせる。
「トウカ、どうした」
「はっ、それが」
部屋の中からハクオロが声をかけた。その一瞬の隙を突いて、ということでもないが男の方はトウカの横を強引にすりぬけオボロの部屋の扉を空けたようだ。
「やはりここにいたか」
「お前は」
まだ若い、少なくともハクオロやベナウィよりは若い男である。歳の程は大体30も半ば、オボロと同程度であろうか。だがその身にまとう雰囲気は、上に立つもののみが持つある種威厳に満ちたものだった。
「カルラゥアツゥレイ皇、いかがなさいました」
ベナウィがそう聞くが彼──カルラウァツゥレイ皇デリホウライは気にした風もなく部屋の中へと入ってくる。
「ハクオロ皇。貴公と酒でも酌み交わそうと思っていたのだがどこにも見当たらん。アルルゥ皇女に聞くと『おとーさんオボロのとこ』と教えてくれたのでな」
そして、さもそれが当然であるかのように3人の前に座ると、手に持っていた酒樽を目の前に置く。
「貴殿がオボロ殿か。双剣のオボロの武勇伝はカルラゥアツゥレイでもよくお聞きする。今夜は貴殿のような武の者と呑む機会を得ることができて喜ばしく思うぞ。何だもう呑んでいたのか、それならこの俺も先に誘ってくれればいいものを」
言いたいことを一方的に言い自らの酒碗を取り出す。ベナウィが
「カルラゥアツゥレイ皇、いくら同盟国の皇城内とは言え一国の皇としての御自覚を。しかも貴方様は今回カルラゥアツゥレイの使者としてわが国にいらしているのですから」
と、できる限り遠まわしに諌めようとするが
「なに、これも使者としての役割の一環だ。それにせっかく口うるさいのから解放されたんだ。少しくらい貴殿らと羽目をはずしても罰はあたらんだろう」
カルラといいこの男といい、ギリヤギナというのは全員こうも傍若無人な奴らばかりなんだ。
そう思いながら、半ば呆れつつもオボロはデリホウライに振舞われた酒を口に運ぶ。
ほう、美味いな。
「どうだオボロ殿。本国から持ってきた濁り酒だ。ハクオロ皇ももっとどうだ。足りない様だったらさらに持ってこさせるが」
「いや、これだけあれば十分だ。これ以上呑むと明日の仕事に差支えが出る」
デリホウライの登場で静かだった場は一気に騒がしいものとなった。ハクオロやオボロなどは満更でもなさそうだが、ベナウィだけは憮然とした態度で碗を運ぶ。それでも席を立とうとしないのは、ここで自分がいなくなれば後の面倒を誰が見るのだ、という責任感ゆえか、それとも彼もそうこの雰囲気は嫌いではないのか。
判刻もたち、宴も酣となってきたころ
「しかしアルルゥ皇女も美しくなった。昔会ったときなどただの少女であったというのに」
「お前の息子だってなかなかのものではないか。元服を控え将来が楽しみだぞ」
「あいつはまだまだだ。このオボロ殿のような強い男に育ってくれれば良いのだが」
「それは買かぶり過ぎだ。一国を治める人間に必要なのは俺なんかより兄者やベナウィのような能力だろう」
「いや、しかしギリヤギナの雄としては先ず誰にも負けない強さをだな」
良い感じで出来上がってきた彼らだったが、不意にデリホウライは口をつむぐ。
「どうした?」
ハクオロがそう聞くと、何か思いつめたような表情でデリホウライは口を開く。
「ハクオロ皇。貴公にどうしても聞きたいことが・・・いや、頼みがある」
「なんだ?」
「じ、じつは・・・だな。その前に・・・・あの子、ユズハにはもう心に決めた相手がいるのか?」
急にユズハの名前が出てきたため、ハクオロだけでなくオボロ、ベナウィの二人もいささか面を食らう。
「ユズハ、か? ・・・ああ、そうだな・・・いないといえば、いないが」
「そ、そうか・・・」
「まさかとは思うが、それがどうした」
ハクオロが何か嫌そうな顔をしてそう聞いてみる。以前似たような経験をしているのかもしれない。
「あ、ああ・・・あの子を・・・・・・ユズハを俺の息子の嫁にくれないか」
やっぱりそう来たか、という表情になるハクオロ。
「お前、以前も私に似たようなことを聞かなかったか? あの時はカルラだったと思うが」
「あ、あの事は忘れてくれ。あの時貴公が断っていなければこちらの身が危なかった・・・それよりも、ユズハだ。お互いギリヤギナ同士。相手がカルラゥアツゥレイの皇太子であれば嫁ぎ先としても申し分なかろう」
「いや、だが。こう言ったものは本人同士の気持ちが」
「まだ相手はいないのだろう。ならば問題ないではないか」
「しかしだな」
酔いの勢いに身を任せ、ここぞとばかりに詰め寄るデリホウライ。彼の、自分の果たせなかった願いをせめて息子で果たそうとする執念はなかなかのものだ。対するハクオロの返答はどうも切れが悪い。
兄者もこう言うことになると全く鈍くなるな。
二人のやり取りを眺めながら、オボロが呆れた顔をして口を開こうとする。
「おい、デリホウライ皇」
だがその全てを言いきる前に、それまで全く会話に参加せず酒を呑んでいたベナウィが毅然とした態度でデリホウライに言い放った。
「だめです」
にべもないその一言にあたりが、しん、となる。
「丞相殿はそう言うが、二人が婚姻を結べば貴国にとっても」
「だめです」
再度、にべもない。
「まだ立太子の儀も終えていないわが国で、さらに政紛の火種になりかねない事を増やすわけには参りません。今回のところはお諦めください」
酒も入りやや据わった目をしたベナウィにそう言われると、さすがのデリホウライもこれ以上その話をすることはできそうにはなくなった。
名残惜しそうに身体を引く。
「そう言うことだ。申し訳ないが今回のところは諦めてくれ」
「ああ。だがまだ全てを諦めたわけではないからな。考えるだけは考えておいてくれ。そちらにとっても損をする婚姻ではないはずだ」
それだけを言うと碗の中の酒をあおった。
いささか白けてしまった感のある場に、こんや最後の訪問者がやってきたのはそんな時だった。
「報告いたしやす」
足音も大きく部屋に飛び込んできたのは血相を変えたクロウであった。
「どうしましたクロウ」
「おや、大将までいらしたんですかい」
ハクオロを予備に来てベナウィまでいたものだから、クロウのほうではやや驚いたようだ。
「大将は止めなさいといつも言っているでしょう。今の侍大将はあなたなのですから」
「おっと失礼、そうでやした。どうも癖になっちまってましてね」
いたずらっ子のような顔に一瞬なるが、すぐにその表情も改めて真剣な顔つきとなる。
「聖上、および丞相殿に報告いたしやす。広場にて衰弱しきったムント殿を俺の部下が発見いたしやした。脈も弱まり今も姐さんとトゥスクルの坊やが必死の救命活動を行っておりやすが、今夜が峠だそうでやす。お二方には至急医務室のほうへおいででくださるようとの事です」
「あっ」
クロウの報告を聞いて、先ず声を上げたのはオボロであった。今思い出した、というような表情をしている。
「どうしたオボロ」
「いや・・・なんでもない」
爺さんのこと、完全に忘れてた。まさか姫さんに怒鳴られた後、ずっと固まったままだとは・・・・・・
「わかった、すぐ行く。オボロ、デリホウライ、悪いがそういうことだ。我々は行かなくてはならない」
「俺はかまわない。それよりも早く行った方が良いんじゃないのか」
「俺ももうそろそろお暇することにしよう。それではオボロ殿、世話になった。今度貴殿の武勇伝でも聞かせてくれ」
4人が出ていってしまうと、あれだけ騒がしかった部屋が急にがらん、としてしまった。あたりに残るのは散乱した碗と、デリホウライが置いていった酒樽だけ。
ただ、オボロの胸に去来するものは一人取り残された寂しさや空しさではなく、なんとなく安心するような、そんな気持ちであった。
ミコトにしろユズハにしろ、この国にいる限り道を踏み外すことはあるまい。あの子も、もうそろそろこの国に帰ってきても言いころかもしれんな・・・・・・
静かな笑みを浮かべながら、オボロの中を取りとめない思いが駆け巡る。
もはや敢えて剣に手を伸ばそうとはしない。
転がっている碗を一つ取ると、彼は窓の方へと近寄っていった。
空に煌煌と浮かぶ上弦の月、そしてその横に輝く星を眺めながら碗の中身をゆっくりと飲み干す。
「なあユズハ。お前の愛したこの国は今もお前がいたときのまま、何も変わってはいないぞ。あの時の、あの時のままだ・・・・・・」
虫たちの声は、痛いほど静かにあたりに響いていた。
終