一方にたたずむは純白の翼を持った少年。

 それは幼かったころの自分。何も知らず、ただ彼女のことを見つめている。

 そのあどけない視線の先にいる一人の少女。自分の白い翼とは対照的な、夜のような黒色の翼の。

 彼女の紅玉のような瞳から流れ落ちる一滴の雫。それが意味するのは悲しみなのか、喜びのためなのか、なぜ泣いているのか、その時は何も、わからなかった。

「母様、どうしたの?悲しいの?どこか痛いの?」

「・・・・・・なぜわたしをそう呼ぶの。わたしはあなたの母親じゃ、ないわ」

「そんなことないよー。母様は母様だよ。そりゃお顔も違うし、母様の目は青だったけど。でも、おめめの赤い母様だって母様だよ。僕が母様のこと間違えるはずないじゃないか」

「あなたはお父様と、あの娘の子供。わたしには、あなたに母様と呼ばれることは、できない・・・・・・」

「ねえ母様、元気出して。僕、何か母様を悲しませるようなこと、した? あっ、そうだ。母様にも『ぎゅー』ってしてあげるね。ねえ母様。僕が『ぎゅー』ってしてあげるとね、ユウゴもユズハもとっても喜ぶんだよ。」

「だめ・・・」

「んふふふふふふふ、母様いい匂い。母様のお羽、黒くてとってもきれい。母様だーい好き」

「―─!」

「うわっ、母様苦しいよ。そんなに強く抱きつかれたら僕、息できないよ・・・・・・母様、泣いてるの?」

「・・・ミコト―─

  

「夢、だよね。やっぱり」

 そうつぶやくと、ミコトはあたりを見渡す。懐かしい夢から覚めても、部屋の中は彼誰時の薄暗さに包まれている。

 部屋の中からは彼の兄弟たちの、規則正しい寝息が聞こえてくる。時折ユウゴが「アルルゥ姐様ー!!」などと寝言を言うのがご愛嬌だ。

 そんな彼に微笑みつつミコトは呟く。

「久しぶりに見たな。あの時の夢」

 まだ完全に覚醒しきらない頭を振り、布団から出る。窓をあけると、紫色に光る山の稜線が霞んで見えた。

「母様もう起きたかなぁ。起きているわけないよねー、こんな朝早く。母様、朝は弱いし、昨日は宴会が終わった後も遅くまでアルルゥ姐様やカルラ様と騒いでたし」

 彼の左手には一振りの直刃の刀。衣装箱の奥から取り出す。白木の鞘に収められたそれを持ち、そのまま窓から外へと飛ぶ。朝の清浄な空気に、夜着しか着ていない肌がさらされる。

「んー、今日もいい天気になりそうだなー」

 高度が増すに連れ、山の影に隠れていた太陽もゆっくりと見えてくる。彼の言う通り今日は言い天気になりそうだ。

 まだ藍色の空で、ミコトは鞘から刀を抜いた。自らの瞳を刃紋に映し、彼は手に持った刀を抜き上段に構え

「おはよう、お久しぶりでした、もう一人の母様」

 そう言うと同時に振り下ろす。まるで鈴が鳴るかのような音をたて空気が切り裂かれる。朝日に照らされ、刀身と、彼の翼が白く輝いていた。

  

 朝まだき。あたりに木刀の乾いた、すんだ音が響いていた。もはや日課となった剣の稽古の音である。広場ではユウゴと、そしてトゥスクルの侍大将、クロウが剣を交わしていた。

「オラオラオラオラ、どうしたユウゴ、息が上がってんぞ!」

「くっ」

 必死でクロウの斬撃を受け止める。一刀一刀がまるで斧のような重い連撃に1歩、また1歩とユウゴは後退する。

「ユウユウがんばれー」

「ユウゴー、だらしがありませんわよー」

 離れた所から、既に今日の稽古を終え体のあちこちに青痣を造ったユズハと、完全に見物客としてそこにいるミコトが声を上げた。

 それが聞こえた訳でもないだろうが、このまま防御を続けていても埒があかないと判断した彼は、一瞬クロウが攻撃を止めたその隙に後ろへ跳ぶ。

 木刀を腰だめに構える。ユウゴを追って前に出るクロウに対し居合の要領で胴を払う。

 クロウの方でもこれは警戒していた。

 ユウゴの攻撃を難なくかわす。

しかしユウゴの攻撃はこれだけで終わらない。

 柄に左手を添え払った木刀の刃を返しクロウの首を狙う。

よけられた。

だが振り上げた剣の勢いそのままに上段から一気に下段へ―─

「遅いんだよ!!」

 ユウゴの剣がクロウを切り裂くと思われた瞬間、彼の剛剣はユウゴの太刀筋をいともたやすく払いのける。その重たさに、ユウゴの手がしびれた。

「うわっ」

「こんなことくらいで声を上げるんじゃねぇ! そんなんじゃいつまでたってもアルルゥは振り向いちゃくれねえぞ!!」

 その一言にユウゴは顔を真っ赤にする。構えをとろうとする腕が、一瞬止まってしまった。

「隙を作るんじゃねえ!!」

ユウゴの腹に、木刀ではなくクロウの腕が飛んできた。

 

ドンッと全身に衝撃が走る。そこで、彼の今日の稽古は終わりを告げた。

「ユウユウだいじょーぶ?」

 数分後、ユウゴが気がつくと目の前には心配そうな顔をした兄と、何の心配もしていなさそうな姉の顔がある。

「ミコトお兄様、そんな心配などしなくてもユウゴは大丈夫ですわよ。ねぇユウゴ」

「そ、某・・・」

 頭がまだくらくらする。殴られたおなかが痛い、この分だと大きな痣ができていることだろう。

「まだまだだな、ユウゴ。いつも言ってるだろうが、お前の剣は素直過ぎるってよ。どこを狙ってるかミエミエなんだよ」

「ありがとうございました・・・・・・しかしクロウ殿、最後のあれは少し卑怯ではござらぬか」

 怒りやら恥ずかしさやらが綯交ぜになった表情でユウゴが食って掛かる。

「なに言っていやがる。あれぐらいで隙ができる様じゃ、一人前の戦士になんざいつまでたってもなれやしねえぞ!」

 こちらは厳しげな口調とは裏腹に、表情にはニヤニヤとした笑みが張りついていた。

「そうですわよユウゴ。これじゃあアルルゥ姉様をお守りできる雄になどいつになったらなれますことかしら」

 

「ユズハ殿、もとはと言えばそなたが某の日記を勝手に読むから!」

「あら、ユウゴがなかなか姐様に告白しないものだから協力して差し上げただけなのに」

 口ではどうやっても彼女にはかなわず男泣きにくれるユウゴ。

「ユズハ、それぐらいにしておけ。お前さんだってオレから言わせればまだまだなんだ」

 やや言葉に真剣な響きを持たせ、ユウゴをおもちゃにする彼女にクロウは話しかける。

「あら。それは。さすがにクロウ様には敵いませんけど、そこら辺の雑兵になど負けはいたしませんわよ」

 

 やや不満げな口調のユズハ。

 その言い分もわからなくも無い。確かに彼女の言う通り、今の彼女であればよほどの相手で無い限りそうそう負けはしないだろう。だが・・・

「お前さんの戦い方はただ力任せに剣を振るっているだけなんだよ。要はギリヤギナって種族の上に胡座かいてんだ。今はまだいいかもしれんが、お前さんより強い相手と戦った時それじゃあ間違いなくやられるぜ」

 口元こそ先ほどのまま笑っているが、鋭さを増したクロウの目に見据えられしゅんとなる。

「まあ2人とも、もっと精進するこったな」

 

 ユズハとユウゴ、それぞれが今日の反省を噛締めたところで、そう言ってクロウは朝の稽古を締めくくった。

「おはようございます、お兄様、お姉様、クロウ様」

「おはよーフミィ」

「うむ、おはようございまする」

「おはよう、フミルィル」

「おっ、姫さん早ええな」

 彼らのところへやってきたフミルィルに、4人が4人それぞれ挨拶を交わす。まだ寝たりないのか眠たそうに目を擦る彼女の愛らしさに、ユズハなどは思わず彼女のことを抱きしめてしまう。

「んー、今日も可愛らしいですわね」

 そう言って自分に抱き着いてくるユズハにフミルィルは困ったような笑顔を向けているが、彼女の方では気付かないのか気付いているのに止めようとしないのか、そのまま頬擦りを続ける。

「ありがとうございますユズハお姉さま。お姉様もとってもきれいですよ」

「あら、ありがとうございますわフミルィル」

 そう言うと、ユズハはやっと彼女を解放した。まだ頬擦りし足りないと言う顔をしていたが、さすがにこれ以上はフミルィルも嫌がるだろうと気付いたらしい。

「ところで姫さん、姫さんも稽古しにいらしたんで?どら、いっちょあっしが鍛えて差し上げやしょうか」

「もうしわけありませんクロウ様。わたくしがクロウ様におあいてしていただいても、おそらくクロウ様にごめいわくをおかけするだけだとおもいます」

 心底申し訳なさそうな表情でそう言うフミルィル。冗談で言ったことにそういう顔をされると、クロウの方でもどう反応していいか悩んでしまう。

「クロウ様みたいな馬鹿力を相手にしていたのではこの子が壊れてしまいますわ」

「然様。フミルィルにクロウ様と稽古をしろと言うのは無茶な注文でござろう」

 ユズハとユウゴにもそう言われると、もはや頭を掻いて苦笑でもするしかない。

「ところでさーフミィ。稽古しに来たんじゃないなら、フミィも僕みたいに稽古を見に来たの?」

 まだ文句を言いたそうな二人を、ミコトのその質問がさえぎった。

 ミコトにそう聞かれ、自分がここに来た目的を思い出したらしい。慌てて伝言を伝える。

「そ、そうでした。あさごはんのよういができたので、お兄様たちをよんでくるようにとエルルゥ様が」

 そう言えば稽古を始めてからだいぶ時間もたつ。薄暗かったあたりも、かなり日が昇ってきている。

「もうそんな時間でござったか」

「そう言われるとお腹がすきましたわね」

「うん、わかったよフミィ、それじゃあ行こうか」

 4人とも一緒になって館の方へと歩いていく。その後姿を見送るクロウも、仲の良い兄弟たちに頬を緩ませていた。

「クロウさんも行こー」

「ああ、あっしは兵舎に顔を出してから行きやすから、先に行っててください」

「うん、わかったー」

 4人の姿が遠くなり、館の中に入ったところで話し声も聞こえなくなった。広場に一人残ったクロウは、彼らに言ったように兵舎の方へと向き直る。

「オイ、鶏がら。テメェ気配を殺して近づくなんざいい趣味していやがるな」

「カンは鈍っちゃいないようだな筋肉ダルマ」

 クロウの後ろに、いつの間に広場へと来ていたのかオボロが立っていた。今こうして話していてさえ、そこにオボロがいる事が信じられなくなるほどの気配の殺し方である。

「まあこの程度も気付かない様じゃベナウィの奴の後任など勤まらないか」

 しかし、そこまで気配を断った彼をすぐさま看破したあたり、クロウの武人としての能力も並大抵の物ではないだろう。

「テメェこそ長旅で腕の方は落ちちゃいないようだな、安心したぜ」

 オボロとクロウ、2人の男が向き合った。

「まともに会うのなんざ久しぶりだな、オボロ」

「お前こそな、クロウ。昨日は残念だったな、宴会に出れず」

「ん、ああ、まあ仕方ないだろうよ。部下に警護をさせておいて侍大将自ら酔っ払うわけにはいかんだろ」

 久しぶりに会う戦友に対する挨拶としては味気ないものだが、それでも彼らにはこれで、十分言いたいことは伝わっているのかもしれない。それに、涙を流しお互い抱き合って再会を喜ぶ二人、と言うのはあまりにも不自然過ぎる。

「なかなか指導者っぷりも様になっているじゃないか」

 先ほどのユズハやユウゴとのやり取りを見ていたのだろう。兵舎へと歩きながらオボロがからかうような口調でそう言ってくる。ただ、そのからかうような口調の中にも、どこか感心したような響きがあるのは気のせいだろうか。

「どうだあの2人は」

「2人とも親が親だ。まだまだ未熟だが十年後が楽しみだぜ」

「そうか・・・あの中じゃユズハ、が一番腕が立ちそうだな」

 彼女の名前を呼ぶ時だけ、複雑な表情をするオボロ。よりにもよって死んだ自分の妹と同じ名前なのだ、しかもあの女の娘として。その心中は平静ではいられないだろう。

「そうだなぁ、ユウゴの奴もがんばっちゃいるんだが、あいつの悪いところはなんでも理詰めで考えすぎちまうってことだな。んなもんだから、でたらめな戦い方をするユズハにゃなかなか勝てん・・・・・・」

 そこまで言って言葉を濁す。

「どうした?」

「いや、な。普通に考えりゃあの4人の中で一番腕が立つっていやあユズハなんだろうがよ・・・・・・」

 

 どうも歯切れの悪いクロウに、オボロが痺れを切らせたかのように問い掛ける。まあ、問い掛けると言っても本気で気分を害しているわけではないのはその内容からも計り知れるが。

「まさか姫さんが一番だと言わんだろうな。どう考えてもあの娘は戦闘向きじゃないぞ。まあ、下手な男より度胸はあるが、な」

「いや、翼の姫さんではないんだが・・・もしかしたら、一番はミコトの奴、かもしれねえんだ」

 彼にしては煮え切らないクロウの言い方に、オボロはいぶかしげな顔をした。

「複数対複数ならともかく、差しでやったら術師に勝ち目はないんじゃないのか?」

 オボロにそう言われ、何かを思い出すかのように話し出すクロウ。しかしその語り方は、どうも言い難そうなそれである。

「ありゃ確か1年くらい前だったか、その日も今日みたいに2人に稽古をつけててよ。ユウゴとユズハの奴は終わった後さっさと飯食いに行っちまったんだが、ミコトだけ残って木刀を握ってたんだ。

―ようミコト、どうだ、いっちょおめえもやってみねぇか―

 今まであいつに剣を教えたこともねえし、他の奴らが教えたって話も聞かねえ。さっきオレが姫さんに言ったように、ふざけてそう言っただけだったんだが。

―うん、お願いします、クロウさん―

 ミコトの奴そう言ってきやがったんだ。まさかやるなんて言うとは思ってもみなかったんだが、こっちから誘っておいて今更止めるとも言えんだろ。それであいつの相手をすることにしたんだが、あっ? いきなり組手から始めたのか、だと? あたりめぇじゃねえか、あれが一番効果的なんだ。話を先に進めるぜ。

―それじゃあ適当に撃ちこんでこいや―

―うん―

 正直言ってよ、完全に油断してたんだよ、オレは。だってよ、オンカミヤリューだぜ。ギリヤギナやエヴェンクルガ、ああ、あとテメェや大将みたいな戦闘向きの種族じゃねえんだ。しかも相手はあの女みたいな顔したミコトだしよぅ。言葉通りの朝飯前の軽い運動くらいに考えていたんだが。

―なっ―

 いきなりあいつが目の前にいてよ、あと一瞬防御が遅れていたら完璧に一本とられてたな。ミコトの奴、二間はあった間合いを一息で詰めやがった。そのあとも十合は一方的にオレが撃ち込まれ続けてよ。何? そんなに早い連撃だったのか? いや、速さだけならユウゴの抜刀の方が速いし、威力もユズハのほうがあったな。でもよ、あいつの攻撃は一刀一刀が変に的確でよ。

―調子に乗るんじゃねぇ!!―

 そのうち俺の方も本気になってきてな、思わず思いっきり撃ちこんじまったんだ。それがきれーにわき腹のあたりに命中してなぁ。

―かはっ―

 たぶんありゃあばらにヒビくらい入っていたぜ。その時は息一つはいただけで叫び声なんざ全く上げなかったがよぅ・・・その後どうなったかっていわれてもなぁ。

―ミコトくーん、クロウさーん、朝御飯できましたよー―

―ありがとうございました。クロウさん、御飯だって、行こっ―

 姐さんが呼びに来たんで稽古はしめぇだ。その時は拍子抜けするくらいあっさり剣を引いたが、もし姐さんが呼びに来ていなけりゃミコトの奴、とことんやってただろうな」

 クロウの話が終わった。しかしオボロでなくとも、いくら彼が油断していたとは言えオンカミヤリューの、しかも十四、五の振るう剣に、たとえ一時でもクロウほどの使い手が追いこまれるとは簡単には信用しずらい。

「何かの間違いじゃないのか?」

 ゆえにこう言った反応が返ってくる。

「テメェ、俺が嘘をついてるとでも言いてぇのか」

 

「いや、そう言うわけじゃないんだが・・・・・・ミコトだぞ」

 依然半信半疑と言った風にオボロ。確かに彼のあのぽわぽわした表情に刀を振るわせてもなかなか想像がつかない。

「オレもそう思うんだが、あいつに撃たれたところにはちゃんと痣ができていたしよぅ。いくらなんでもあれが全部夢ってことはねぇと思うんだな」

 当のクロウが一番疑問に思っているのだ。確かにこれでは言葉尻が濁るのも無理はない。

「それでだ、その時のミコトの剣がまぐれじゃねぇのなら、間違いなく一番はあいつだな、ってな。おそらくユズハでも五合もたんぜ。一気に叩き伏せられてお終ぇだ」

 話しているうちに二人は目的地、兵舎へと到着していた。

「立派なものだな・・・」

 自分が旅に出たときには無かったこの建物に、オボロが感心した様に呟いた。

「まあ、な。お前がいない間にもいろいろあったからよ。おかげで俺まで慣れない書類仕事やらされてなぁ」

 そうぼやきともつかない返答をする。

「おっ、いい匂いがするな。兵士たちは飯か」

「ところでよ。オボロ、テメェは行かなくていいのか。あっちじゃもう朝飯の支度、すんでる様だぜ」

 クロウがそう言うと、オボロの表情が驚愕に包まれた。

「本当か!?」

「本当も何も。テメェ姫さんの言っていること聞こえなかったのか。今ごろ他の連中食い始めてるぜ」

 驚愕は焦りに変わり、オボロの行動を支配する。

「くそっ、こうしてはいられん。クロウ、すまんが俺はもう行くぞ」

 振り向くと、一瞬で屋根の上へと跳ぶ。次の瞬間には彼の姿は既に小さくなっていた。

 既に見えなくなったオボロの後姿を眺めていたクロウが、ふと何かを思い出したかのようにつぶやく。

「ああ、言い忘れてた。ミコトの太刀筋、我流にしちゃどっかで見たことがある気がするんだよなぁ。まあ、あいつにゃ関係ねぇか」

 歩哨に声をかけ、クロウは部下のいる建物へと入っていった。

 

 

 

 決して低くない天井に届かんとする木簡の山。本来ならば数十人は楽にはいれるであろう書斎のほぼ全てを埋め尽くしている。

「いつ見てもすごい光景だよねー。ねえ、フミィの母様もいつもこんなに木簡読んでいるの?」

 その書斎の入り口に、ミコトとフミルィルは立っていた。

「・・・いえ。もうすこし・・・すくないとおもいます・・・」

 毎日の様に眺めているミコトと違い、フミルィルの方ではこの異様とも言える光景にいささか圧倒されている様だ。

 朝御飯も食べ終わり今日も1日が動き出す。

それはこの場所でも例外ではなく、もはや日常と化した、狂気じみた量の木簡の処理に4人の男女が追われていた。

「なあベナウィ。私が一人でやっていたころよりも仕事の量が増えている気がするのだが」

「気のせいでしょう。次はこちらに目を通しておいてください。その次はそちらの書類全てに花押を。半刻後にはカルラゥアツゥレイの使者の方とお会いしていただきます」

「少し・・・休ませてもらっても良いか」

「本気でおっしゃっておいでですか?」

「いや、なんでもない」

「トゥスクル、そこの資料、とって」

「はい。アルルゥ姐様、これですか」

「ん、それ。あとその隣のと上のと下のも」

「はい・・・っと、どれだよ、おい。だから少しは整理しろって」

「あと、この計算やりなおし。間違ってる」

「えっ、うそ!?」

「嘘じゃない。桁が一つ多い。だめ。それとこれ。字が汚い。これも書き直し」

 息つく暇さえなく仕事をさばいていく。死人こそ出ないものの、ここは戦場と呼ぶに相応しい鬼気迫る何かがあった。

「ここにいてもしょうがないし、行こっか、フミィ」

「はい」

 父親たちの仕事を見続けるのも飽きてきたのか、妹を連れ立ってその場から離れようとする。

「おやミコト殿、フミルィル殿、もう行ってしまわれるのですか・・・」

「はい、トウカ様もおしごとがんばってください」

 いささか残念そうに話しかけてくるトウカ。彼らは気付かなかった様だが、フミルィルを見る彼女の表情が時折、崩れていたことは間違いない。

「ムックルはどうするのー、一緒に行かないー?」

「ヴォフゥ」

「んー、わかった。それじゃあアルルゥ姐様のお仕事が終わったら一緒に遊ぼうね」

 書斎から離れ通路に出る。ユズハとユウゴの2人はまた、追っかけっこをしているうちにどこかへ行ってしまったため、今は二人しかいない。行く約束をしていた蜂の巣採りも、アルルゥがあの状態では今日は行けそうにもないだろう。

「どこ行こうか」

「そうですねえ」

 さて何をしよう。通路に立ち止まり何をするか思案をめぐらせる。こんなに天気が良いのだ。部屋に閉じこもって何かする、というのではいかにももったいない。かといって2人でできる遊びなど急にはなかなか思いつかない。

「おや、2人だけでどうしたんだ。ユズハとユウゴは一緒じゃないのか」

「オボロ様」

「オボロさん。さっきは大変だったね。結局御飯食べれたの?」

 そう言われ苦笑するオボロ。彼が遅れて皆の前にやってきたころには、既にろくに食べ物など残ってはいなかった。残っていたのといえばクロウのために取り起きされていた分ぐらいで、それをめぐりクロウと・・・・・・

「まあ、一食くらい抜いてもなんとかなるだろう」

「やっぱり食べれなかったんだ」

「まあ、そんなところだな」

 皿ごと朝御飯をひっくり返し、クロウ共々仲良く御飯抜き。カルラには笑われるしエルルゥには怒られトゥスクルには変な薬を飲まされそうになりベナウィにはあきれられる。踏んだり蹴ったりの彼である。

「ところで、どうしたんだ、こんなところで」

「あ、そうだオボロさん。今僕たち何して遊ぼうか考えていたんだけど。オボロさん、今、暇?」

 何かを思いついたような表情で彼にそう聞くミコト。

「まあ、暇と言っては暇だが」

「それじゃあさ、何か僕たちとお話でもしようよ」

「おはなし、ねぇ」

 そう言われても、何を話せば良いか。

「あの、オボロ様。もしよろしければユズハ様の、オボロ様の妹君様のおはなしをしていただけませんか」

 そう顔に書いてあるかのようなオボロに、フミルィルが話しかけた。

「ユズハの、か」

「だめ、でしたか?」

 フミルィルの頼みに、彼の表情に影が差す。しかしそれも一瞬のことで、すぐに普段通りの彼のへと戻った。

「いや。そんなことで良いのならいくらでも話してやるよ」

 柔らかい口調と優しい瞳で、ぽん、と2人の頭に手を置く。

「ありがとうございます」

「ありがとう、オボロさん」

 自分たちの頭を撫でる手にややくすぐったそうにする2人。だが素直に喜んでくれている2人に、オボロも静かな笑顔を浮かべた。

「それじゃあ、どこで話してやればいい?」

「そうだなぁ。天気も良いし広場まで行こっか」

「はい」

「ああ」

 ミコトが生まれてから大体15年。その間にここの館もだいぶ様変わりした。国が豊かになることはいいことなのだが、それに伴って彼らの父親の仕事も増え、増えた仕事はそのまま館が大きくなることを意味した。家族も増えたためその部屋も造りなおさなければならず、館に隣接する兵舎やウォプタルの小屋も以前より大きいものが建てられた。

 そのため、書斎から広場へ、また、広場から別の場所へ行こうとするだけで結構な距離を歩かなければならなくなる。

 道すがら、2人はオボロの昔語りに聞き入る。まだ幼かったアルルゥやカミュたちと楽しそうに遊んでいたユズハ。自分を愛してくれる人々に囲まれ、病弱ながらも幸せだった彼女。そして、自らの子供に命を託し、この世を去っていった彼の妹。

 話がそこまで及ぶと、当然の様に雰囲気は沈んだものとなる。二人を暗くしてどうする、さすがにこれはまずいだろう、と、いささか慌てたオボロは強引に話題を変えることにした。

 話を変えようとしたところで、彼は1つの、ある物事に思い至る。

 いや、オボロにとってこれは話しを変える、などと言う軽い物ではなく、絶対に一度、聞いておかねばならないことであった。

「ところでミコト。お前はこの先どうするつもりだ?」

「えっ、どう言うこと?」

 強引な話の変え方に面を食らう。しかし変えた本人の方では真剣な表情で彼のほうを見ていた。彼を見つめるオボロの瞳に、今までの優しげなものとは違う凄みが宿っている。

「お前は、お前の父親の後を継ぐ気はあるのか、と聞いているんだ」

 敢えて、厳しい言い方で問い掛けるオボロ。

「僕が!? そんなもの無いよー。父様の後はアルルゥ姐様かユラゥ姉様かトゥスクル兄様、誰かが継ぐと思うし」

 ミコトのその言葉を、オボロの容赦の無い問いかけが覆い被さる。

 答える方も、そして問う方も辛いこの問いかけ。その問いかけに目の前の少年はどう答え、そしてそれはこの俺を満足させる事は出来るだろうか。

 自らの感情を消し去り、厳しいまでの言葉を使ってオボロの問いかけは続く。

「なぜそう思う。こう言ってはなんだが兄弟の中で一番、血筋的に相応しいのはミコト、お前だぞ・・・・・・お前の姉や兄は・・・いわば下賎の」

「そこまで!」

 オボロが続けようとした言葉を、ミコトの声が遮ぎった。

「そこまでだよ、オボロさん。その先は、言って欲しくないよ。それに、姉様の事をそんな風に言うオボロさん、とっても辛そうだよ」

 

 

 表情こそいつもの彼だが、その瞳には悲しげな色が浮かんでいる。

 つらそう・・・か。だがな、ミコト・・・

「あの子のことは考えなくて良い。ミコト、これはお前の問題だ。お前が後を継ぐ気さえあるのなら、それはそう難しいことではないだろう。それどころか積極的にお前を擁立させようとする輩まで出てくるかもしれない。どうなんだ、ミコト。お前の本当の気持ちは」

 悲しげな瞳のまま、それでも笑いながら頭を掻くミコト。彼が困った時に出る母親譲りのその癖も、今のそれはどこか寂しげだ。

「僕は、僕には父様の後を継ぐ気は無いよ。うん、確かに僕が後を継げば喜ぶ人たちはいるかもしれないけど、でも僕がそれを言い出したら、母様、とっても悲しむと思うんだ・・・・・・だからね、オボロさん。僕は父様の後を継ぐ気は無いんだ」

 おそらく、今、急に考えついた答えではないだろう。今までずっと考え続けていた答えを、ただ単に今宣言した、そう思わせるだけの意思の強さを持って彼は口を開く。

「そうか。いや、お前がそこまで決めているのなら良いんだ」

 そんな彼に、オボロはまたさっきのような穏やかな瞳でそう言う。

「ではミコトお兄様はなにをなされたいのですか?」

 フミルィルが、そのあどけない瞳でミコトを見つめていた。

「フミィはフミィのお母様の後を継ぐんだよね?」

「はい、そのためにいまはいっしょうけんめいべんきょうをしなくてはなりません。わたくしは、いつかおかあさまをつぐにふさわしいりっぱなじょせいになりたいです」

「そうだね、フミィ。それじゃあ僕はね―─

 

―僕、母様を守れるような男になるよ。だから、だから―

「僕はね、そんなフミィを守れる人間になりたいな。フミィだけじゃなくユウユウやユズっち、兄様や姉様、アルルゥ姐様や父様。それに、母様。僕の大切な人みんなを守ってあげれるようになりたいんだ」

 どこか恥ずかしげに、しかし揺ぎ無い決意をもって彼はフミルィルに言う。

「なれるかどうかは解らないけどね」

 そうか、お前はその道を選ぶか。

「・・・・・・ミコト、先に広場へ行っててくれ」

 オボロが急にそう言い出した。それだけ言うと二人をおいてどこかへ行ってしまう。

「オボロ様、どうなされたのでしょうか」

「わからないけど、先に行っててくれって言ってたし、広場で待ってようよ」

「そうですね」

 広場には珍しく誰もいなかった。普段であれば追い駆けっこをしているユウゴやユズハ、修練に励むトウカ、それに洗濯物をしているエルルゥの姿が見えるのだが、今に限ってはその誰もがこの場所にはいない。

「待たせたな」

 待つこと十分ほど。広場で待つ二人の下へ、真剣な表情のオボロが来た。

「オボロさん、何かあったの」

 ミコトの問いに答えようとせず、彼は手に持っていたものをミコトへと放り投げる。ミコトの手に、ずしりとした「それ」が収まる。

「・・・ミコト、稽古だ・・・」

「稽古だって、これ、真剣だよ!?」

 驚きの表情で、手の中の刀を見る。刃引きではない、本物の真剣だ。

 オボロは何も答えようとはしない。無言のまま自らの双剣に手をかける。

その瞬間、空気の質が変わった。チリチリと痛いほどの何かで、あたりが満たされていく。

「本気、なの?」

「・・・・・・ミコト。お前は大切な人を守りたい、と言ったな・・・・・・しかしそれは、生半可な覚悟でできることではない・・・お前のその覚悟がどれだけのものか・・・・・・俺に見せてもらう・・・・・・いや、お前は見せなくてはならないんだ」

 オボロは本気だ。それに気がついたミコトの表情が、厳しいものへと変わる。抱きかかえていた刀を腰に挿すと、自分を見るオボロを見据えた。

「お兄様」

「フミィ、危ないよ。悪いけど、少し離れててね」

 肌で感じるほどの殺気を放つオボロの目を、ミコトは必死に見つめ返す。

「はい・・・お兄様・・・・・・がんばってください!」

 だが、彼女のその一言に相好を崩した。彼女のその言葉のおかげで、必要以上に入っていた肩の力が抜けた気がする。

「うん、頑張るよ」

 オボロの方を向き直す。大丈夫、緊張はしていない。オボロさんの瞳も・・・気負いなく見つめることができる。

抜刀。

彼の表情がいつものそれに戻っていた。

「オボロさん。いくよ」

 

 

 

 先に前へ出たのはどちらだったのか。ほぼ同時にお互いの間合いを詰める。

 先に攻撃を仕掛けたのはミコト。右手に持つ刀を足下からオボロの頭上へと切り上げる。

 命中するとは思っていない。左手を柄に添えついた勢いを殺す。オボロの斬撃が跳んでくるがそれを無視。刀を横に払い距離を稼ぐ。

 後ろへ跳んだオボロを追う、一瞬出遅れた。オボロの双剣が両方向からミコトに襲いかかる。左手の剣は刀で防ぐ、右の剣は防ぎきれない。

翼を羽ばたかせ飛翔。右手の刀を地面に突き刺し支点とする。飛ぶと同時に蹴りをオボロの顔面めがけて放つが、こんな苦し紛れの一撃があたるわけが無い。

 それでも体勢を崩すことなくオボロの左側に着地。体をひねり更に追撃をかけるオボロ。ミコトの刀は地面に刺さったままだ、後ろへ避けるのではなく前に進み間合いをなくす。剣を振ることができなくなったオボロが距離を取ろうとする。

 今度はミコトが彼を追う。刀を地面から抜き、青眼から彼の胸元にめがけて突。更に後ろに跳んで避けようとするオボロ、だが再度翼を羽ばたかせ加速。剣先はオボロの胸を掠るものの皮一枚しか切れてはいない、しかし隙はできた。

 刀を上段に振りかぶる。オボロめがけて跳躍と同時にそれを振り下ろす。

―ミコト、お前は、お前の父親がかつて大切な人を守ることができなかったことを知っているか―

 剣が触れ合うごとに火花が散り、白刃が閃くたびに血煙が舞う。

―うん。僕と同じ名前。ミコトさん、だよね―

 一方が踊るは回旋曲。火神の化身の様な激しさで、全てを呑みこむかのように双剣を振るう。

―そして恩人、トゥスクル様もだ。お前の父親は2度、自らの力の無さゆえ目の前の大切な人を守ることができなかった。それがどれだけ辛い事かわかるか? その時自分に力さえあれば、その人たちを守る事ができたんだ―

 そしてもう一人、ミコトは円舞曲を舞う。風の様に、水の様に、炎のような苛烈さで放たれるオボロの斬撃をかわし、防ぎ、そして刀を振るう。

―ミコト、お前のその力、オンカミヤリューの力は確かに人を守る事ができる。だがそれは多くの人間、国の、村の、家々の、そういった数限りない人々を守る力だ―

 彼らの舞う命を賭けた踊は戦いの場にあってもなお美しく、しかしこれを芸術的と表現するにはあまりにも壮絶に、彼らの勝負を飾っていた。

―剣を磨け、力をつけろ。大切な人を守りたいと思ったのならな。自らの力の無さを後悔する前に―

「どうしたミコト! これがお前の覚悟か! この程度の力で、本当に愛する人を守れるとでも思っているのか!!」

 オボロが叫ぶ。まるで自らの思いを振り払うかのように。

 ミコトは答えない。しかしその純白の翼は彼をオボロへと向かわせる。

「正面からだと・・・なめるなぁー!!」

 真っ直ぐに彼へと飛ぶミコト。しかし、オボロは剣を構え、彼の攻撃を待ち構えていた。

 その時、オボロの後ろで空気が動いた。

「何っ!?」

 オボロの後方より、何物かが彼に向かって斬檄を繰り出す。

 その後方からの影もミコト。その刀は仄蒼い光に包まれ、防御したオボロの剣ごと彼を切り裂こうとする。

 持つ剣ごと叩き切られそうなその刃を、腕より力を抜いて受け流す。辛くも避けきったが、体勢を立て直す暇もなく正面にいたもう一人のミコトの刀が襲いかかる。

「くっ」

 オボロの胸に赤く一本の線が描かれる。だが、まだ浅い。

 お互いが間合いを取った。

真っ直ぐに相手を見る2人。今まであれだけ激しく切り結んでいた事が、まるで嘘のような静けさにあたりは包まれる。

「そうか、この技・・・・・・お前の剣の師匠は、彼女だったのか」

「うん、僕のもう一人の母様なんだ」

 2人いたミコトは1人へと戻った。しかしミコトの持つ刀から仄蒼い輝きは失われてはいない。

 今の攻撃を避けられたのはミコトにとってかなり痛かったようだ。分身しての攻撃、それは彼の体力を著しく奪っていた。ミコトの息が上がる。

「今まで2回しか会った事ないんだけどね。でも、僕の大好きな母様だよ」

 再び剣を構える。短い休憩も終わりだ。じりじりと間合いを詰め、互いの隙をうかがう。

 しかし、次の一撃は珍入者の出現により妨害された。

「うゎぁくぁさむぅゎぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!!」

「げっ」

「ムント!」

 鬼のような形相をし、館の方よりムントが禍日神オイデゲェもかくやという勢いで走りこんできた。

「若様、一体何をなさっておいでですか! オボロ殿! これはどういう事ですかな、どうして若様がそなたと斬り合いをしているのでございますか!! ふわっ、若様、その傷!! オーボーローどーのー」

「いや、これはだな」

「ええいこうしてはおれん。若様、さ、早くお手当てを。薬師、薬師はいずこだ、エルルゥ様ー!!」

 完全に錯乱しているムント。ミコトの手を引き館の方へと連れていこうとする。

「ムント、ちょっと待ってよ」

 全く聞く耳を持っていない。ぐいぐいとミコトを引っ張っていく。

 そんなムントの目の前に、小さな影が立ちふさがる。

「邪魔してんじゃねぇ、このくそジジイがぁ!!」

 まるで絹糸のような蜂蜜色の髪、ミコトの更に上を行く雪のような純白の翼。

「姫さ、ま?」

 先ほどから2人の戦いを見つめていたフミルィル。幼いながらもこの戦いが2人にとって大切なものだと言うのはよくわかった。

彼女は、ムントを睨み付けそう怒鳴る。

「ミコトの兄貴の全てを賭けた戦い、テメエみたいなのが邪魔して良いと思ってんのか、あん。横から急にしゃしゃり出てきやがって。ミコトの兄貴の覚悟、テメエがどれだけわかってるってんだ。解ったのか、解ったのならとっと去ねや!!」

 ただでさえミコトの怪我を見て混乱しているところにフミルィルに怒鳴られ、ムントの精神はあっさりその許容範囲を超えてしまった様だ。

 その場に固まって、ぴくりとも動こうとしない。もしかしたら心臓の一つも止まっている、かもしれない。

「じゃまものははいじょいたしました。ミコトお兄様、オボロ様、おもうぞんぶんおやりください!!」

 ムントの出現とフミルィルの変容は、2人から完全に毒気を抜いていた。ミコトなど大きな声を上げて笑っている。

「あははははは、フミィ、ありがとう」

「ああ、ありがとよ、翼の姫さん」

 目に涙をためながらミコトは刀を構えた。右手一本でとる、変則的な八双の構えだ。刀身の輝きが増す。半身を引き、その四肢にいつでも跳べるように力をこめる。

オボロの方でも剣を鞘に収める。そのしなやかな弾力ある筋肉は、一瞬にして双剣を鞘走らせることだろう。

「・・・それじゃあオボロさん、続きをやろうか」

「ああ・・・・・・来い!!」

  

「あぁぁぁぁぁぁぁ、痛い、痛い、エルルゥ、もっとやさしくしてくれ!」

 エルルゥの部屋、その中からオボロの叫び声が聞こえてくる。

「これくらい我慢してください。はい、終わりましたよ」

 ポン、とオボロの傷口を叩くエルルゥ。オボロの方では声にならない悲鳴を上げるが、彼女は全く気にした様子はない。

「本当に、オボロさん。あなた、一体何をやっているんですか」

「な、何をって言われてもだな」

 エルルゥのあまりの剣幕に体を引く。

「ミコト君と斬り合いをするなんて。ミコト君のあれ、傷跡残っちゃいますよ。ミコト君の肌シミ一つなくてとってもきれいだったのに、あんな大きな刀傷できちゃって」

「傷痕の一つや二つ、男にとっては勲章だ」

 いささか苦しい弁解を試みるが、すごい目で睨まれてしまう。

「おーぼーろーさーん」

「全く、何歳になってもあなたは騒々しいのですのね」

 そんなエルルゥの部屋に、酒瓶を抱えたカルラが入ってきた。

「あ、カルラさん」

 

「どうした、何か用か?」

 床に腰を下ろしオボロの方を見て笑みを浮かべるカルラ。

「用ってほどのことではありませんけどね、あなたがミコトに負けて大怪我したって聞いたものですから」

「負けたってな、あれはどう贔屓目に見たって引き分けだ。怪我だってミコトのほうが大きい」

 むきになって反論するが、彼のそんな言い訳など彼女は歯牙にも掛けようとしない。

「あなた馬鹿じゃありませんの。子供相手に引き分けてそんなに喜ぶなんて。しかもむきになって大怪我までさせるなんて。ああ、可哀相なミコト。どうせこの男『お前の強さを確かめてやる』とかなんとかある事無い事吹き込んで、無理矢理やらせたにちがいありませんわ」

 まさにぐうの音も出ないほど一方的にやり込められる。この怪我さえ無ければ貴様など、と彼が考えているだろう事は想像に難くない。

「・・・・・・大丈夫ですわよ・・・・・・」

 不意に、カルラが呟く様に言った。

「えっ」

「わざわざ私たちが心配しなくても、あの子は一人で立派に歩いていけますわよ」

「・・・・・・ああ、そうだな」

 そんな彼女に、オボロも静かな笑みを返す。

「ところで、そのミコトはどこへ行きましたの?」

 あたりを見まわして、そう聞いてくるカルラ。

「せっかくお話でもしようと思いましたのに」

「あっ、ミコト君なら―─

  

「く、苦しいよ母様、包帯もっと緩めて」

「あれー、おかしいなぁ。えっと、ここをこうやって巻いて、それからここで縛って・・・できた」

 ミコトのお腹に、包帯を巻いているのだかぼろ切れをまとわり着けているのだか判然としない布があてられていた。それをしているのは黒い翼を持った女性。ミコトが母様と呼ぶ彼女は、今もぎこちない手つきで彼に絆創膏をあてている。

「こんなに傷だらけになっちゃって」

「これくらい大丈夫だよ、心配しないで。すぐ治るよ」

 彼女は包帯の上から彼の傷口を指でなぞる。

「でも、この傷、跡が残るってエルルゥ姉様が」

「へーきへーき。それにほら、傷痕の一つや二つ、男にとっては勲章だって昔から言うじゃない―─

 パン、と乾いた音がした。

 一瞬何が起きたか理解する事ができなかったが、だんだんと頬が痛み出してきたところで自分が母親に平手打ちを受けたんだとわかる。

 それを裏付ける様に、彼の目の前には彼と同じ青玉のような瞳に涙をため、右手を振り上げた彼女がいた。

「ばかっ! ミコトがオボロ兄様に斬られたって聞いたとき、心配で心配で死んじゃうかと思ったんだから!!」

「母様・・・」

「ほんとに、心配したんだから、ううっ、うぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ、うわっ、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 まるで少女の様に泣く彼女。その両の目からは玉の様に大粒の涙が止めど無く溢れていた。

 そんな彼女を、ミコトはそっと抱きしめる。力を入れ過ぎず、彼女の黒い翼ごと体を包み込む様に、ぎゅっと。

「ごめんなさい、母様。僕もう二度と母様を悲しませるような事しないから、だから、お願い、泣き止んで。母様が泣いてると、僕まで悲しくなるんだ」

「ぅぅぅぅぅぅ、ひっく、ミコトー」

 さらに彼の胸にうずくまる様にして泣く彼女。彼はただ彼女の体を抱きつづける。

 泣き疲れた彼女が眠ってしまったのはそれから半刻後だった。彼の腕に抱かれて眠る彼女は、自分という子供がいるとは思えないほど、あどけない寝顔をしていた。

「ねえ、母様。僕、もっと強くなるよ。今日みたいに母様を悲しませない様に。それは、たぶん剣が強くなったり、術を上手く唱えられるようになるだけじゃだめなんだろうけど、でもいつか、みんなを守れるような人間に、僕はなるよ。ねぇ、母様・・・・・・」

  

 その場所に自分は立っていた。

 森の奥深く。少年の横には野生のムティカパの死骸。彼らの領域を侵した自分は、それに襲われて。

そしてその目の前には、彼女が立っている。数年ぶりに会うことができた彼女は、あの時と同じように赤い瞳と黒い翼をしていた。

 ただ一つあの時と違ったことは、自分が彼女のことを母様と呼んでも、悲しそうにその瞳を曇らせることは無かった。

「母様!」

「怪我は、無い?」

「うん、僕は無いけど、母様、腕から血が出てるよ」

「わたしは、平気」

「ごめんなさい、ごめんなさい、母様。僕が言いつけを守らないでこんなところまで来たから、だから」

「あなたは、やはりわたしのことを母親だと呼ぶの?」

「当たり前じゃないか。前にも言ったよ、おめめの赤い母様だって僕の大好きな母様だって! あっ、そうだ。袖をちぎって包帯の変わりにすれば・・・・・・できたー。ねえ、お母様、怪我、まだ痛い?」

「・・・ミコト、あなたはわたしのお父様の子供。もっと強くなりなさい。そして、あの娘の事を守ってあげて」

「うん、僕、母様を守れるような男になるよ。お母様も、おめめの赤いお母様も両方とも守れる様に強くなるよ。だから、そんなお別れみたいなこと言わないで」

「お別れじゃ、無いわ。だから、これはまたいつか会う時までの約束。ミコト、強くなって、あの娘の事を守ってあげて」

「うん、約束するよ。僕、強くなる」

「他のみんなが、あなたのことを探しているわ。ここにいれば見つけてくれる」

「母様、もういっちゃうの?」

「またいつか、あなたが本当に強くなれたとき、会いましょう」

―わたしの可愛い、ミコト―

  

「あの時された口付け、僕の初めてって事になるんだなぁ・・・・・・僕、あの時より少しは強く、母様を守れる様になれたかなぁ」

 太陽はもうほとんど山の陰から顔を出していた。

 ついさっきまで見えていた藍色の空に合った摩天の星たちも、太陽に追われるように地平線の彼方へと流れ消え、大地はその光で色付き始めている。

 一日でもっとも感動的とも言える瞬間。そんな中で、彼は刀を振るう。

 一度だけ見たもう一人の母親の太刀筋を思い出すかのように、一振り一振り、正確に、慎重に。何度も、何度も。

「ねえ、もう一人の母様。僕、母様だけじゃなく、僕の大切な人、みんなを守れるくらい強くなるよ。だから、だからね母様、その時は僕ともう一度―─

 

   終