昼なお薄暗い森の中。普段はめったに人の入る事のないこの場所に、一組の少年、少女の声が響いていた。
「まったく、何でこんな事になったのかしら。ねえユウゴ、そうは思わない?」
一方はギリヤギナの少女。幼いながらギリヤギナらしく締まった体には、大の大人でも持つだけで苦労するような大きな刀を抱えている。
「何を他人事の様に。ユズハ殿があそこで無茶さえしなければこんな事にはならなかったものを」
もう一人はエヴェンクルガの少年。生真面目そうなその表情に、今はあせりの色が浮かんでいる。
まるで何かに追われているかのような勢いで2人は森の中を駆けていた。
いや、実際彼らは追われていたのだ。
「煙でいぶす前に蜂の巣に近づくなどどうかしている!」
「あら、もとはといえば松明も袋も忘れたあなたが悪いんじゃなくて?」
彼らを追うのは数千匹にも達するような蜂たちの群れ。そのあまりの数にあたりが霞んで見えるほどである。
「いくら愛しのアルルゥ姐様のためとはいえあの二つを忘れるなんて。まだまだ精進が足りませんわ」
「そ、それはそなたの言うとおりだが・・・だからといってこちらが止めるのも聞かずあれらを刺激したのはユズハ殿の方だぞ」
「だってあれだけの大物、今回とり逃したら次はいつ出会えるか。ユウゴだって姐様も喜んでくれるってはしゃいでませんでしたの」
「確かにあれだけの大きさの巣となると、某が今まで採った蜂の巣の中でも1、2を争う大きさであった」
蜂たちの羽音が一層大きくなる。
何か自分たちは彼らの恨みを買うような事をしただろうか。いや、恨みなら売るほど買っているだろうが、だからってここまで執拗に自分たちを追いまわす事もないだろうに。
「しかし某たちはいつまで逃げ回ればよいのだろう」
「後ろの皆さんに聞いてくださらない」
さらに数を増した蜂たちを振り返る事もなく彼らは必死になって足を動かす。無駄口を叩く余裕さえ、もはや残ってはいない。
「「たぁぁぁぁすけぇぇてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」」
より鬱蒼と茂ってきた森に、彼らの叫び声と虫の羽音だけがこだましていた。
話は少し、さかのぼる。
「黒曜石のごとき深い色に満ちた瞳、風が吹き、野を駆けるたびに波打つその漆黒の髪は何よりも美しく、時折揺れるその耳はどこまでも可憐で、かなう事ならこの体を貴方の胸に抱きしめてもらいたい。ああ、アルルゥ姐様、某の日天之神・・・・・・・・・・・・なんですの・・・・・・これ・・・・・・」
ユウゴの机にあった『それ』を声に出して読んで、彼女―─ユズハは困惑した表情を浮かべた。
おそらくユウゴの日記であろう。彼がいつもマメにそれを書いていたことは、同じ部屋に寝起きしているのだ嫌でもわかる。
いつもなら机の中厳重にしまわれ、他人にはけして見せようとしなかった『それ』が無防備に机の上においてある。これを見ずして何を見るというのだ。うまく行けばユウゴの弱みの一つや二つ、握る事ができるかもしれない。
そう彼女が思ったか思わなかったか、彼女ならざる身では判然としないが、ちょうど暇を持て余していたユズハはそれを手にとって声に出して読んでみた。
その結果が、今の困惑した表情を浮かべる彼女である。
「・・・・・・なんですの・・・これ・・・」
もう一度、そうつぶやく。
日記の内容は大体彼女の想像通りの事が書かれていた。
いや、想像以上のこと、と言ったほうが適当かもしれない。
確かにこれは彼の日記だ、それは間違いない。しかし、その書いてある中身が「アルルゥ姐様に頭をなでてもらった」や「アルルゥ姐様が蜂蜜をくれた」に始まり「ムックルの背に乗って野を駆ける姐様がいかに美しいか」だの「モロロを食べている時の姉様の幸せそうな顔を見るだけで某も嬉しくなる」となりついには「某の日天之神」と結ばれるようになると、ユズハでなくても首を傾げてしまいたくなるだろう。
大人の女性に抱く、少年らしい恋心や憧れ、と言って言えないこともないのかもしれないが。
「あの子、馬鹿、じゃないかしら」
心底あきれたような口調で言うユズハ。しかしその瞳は、新しい暇つぶしを手に入れることのできた喜びで輝いている。
「うふっ、うふふふふふふふふふふふふふふふふふ」
これからどうやってユウゴをからかってやろうか、彼の日記を胸に抱え、それを考えながら押し殺した笑い声を立てていたその時だった。
「ユズハどぬぉ!!」
部屋の入り口に憤怒の形相のユウゴが立っていた。
「そな、そな、そな、そそそそたたたたたたたぁ」
「そなた何を見ている!!」か「そなた何をしている!!」のどちらかを言いたいのだろうが、いかんせん興奮で呂律が回っていない。口から出るのは意味のわからないうめき声だけである。
「あら、ユウゴ。戻っていましたの。こーれ、あなたの日記でしょう、なかなか面白いですわね」
「返せぇっ!!」
彼女の手から日記を取り戻そうとユウゴは飛びかかる。だが彼女の方では十分予測済みの事だったのだろう。向かってきたユウゴの顎に彼女の掌がきまる。
「だめですわよ、そんなミエミエの攻撃。えーっと、『某の身を駆け巡るこの思い、紫琥珀を用いてすら静まる事はないだろう』。あなた、詩の才能はあまりなさそうですわね」
「く、く、く」
「あら、クケーだなんて大きな声上げられたら、私、驚いてこの日記、窓から外に落としてしまうかもしれませんわ」
そう言って日記を持った手を窓の外へと出す。
自棄になってキれることすらも許されず、そんな彼にできる事はただ涙を流しながら口をパクパクとさせる事だけであった。彼の母親が見れば、「何と情けない」と言って天を見上げる事だろう。
「でもあなたがこんなにも姐様のことを想っていらしたなんて」
「そなたには関係ないだろう!!」
涙と鼻水、ユズハに張り倒された時に出た鼻血で顔をぐしゃぐしゃにしながらもそう叫ぶ。
「あら、関係なら大有りですわ。アルルゥ姐様は私たち兄弟全員の姐様ですもの」
怒りと羞恥でもはやぐうの音も出ない。これ以上生き恥をさらすぐらいなら、とエヴェンクルガらしいのかそれとも彼の母親に似たのか、腰の物に手をかけようとする。
「でもユウゴ、そんなにアルルゥ姐様の事を想っているのなら、こんなところで油を売っている暇はないんじゃなくて?」
そんな彼の心境を知ってか知らずか、ユズハが先程よりはやや神妙な口調で話し始める。
自分の事ならともかく姐様にかかわる事ならと、彼も刀の柄から手を離した。
「どういう事でござるか」
「アルルゥ姐様、風邪を召されたみたいで先ほどから臥せっていらっしゃるのよ」
真っ赤だった彼の顔色が一気に蒼ざめる。
「ユズハ殿、それは本当でござるか!?そ、それでアルルゥ姐様の容態は!!」
「幸いそんな酷いものではありませんわ。今日1日安静にしていれば治るだろうと薬師の方もおっしゃっていましたし」
目に見えてほっとするユウゴ。
「お風呂上りにおへそを出して寝ていたらかかってしまったみたいですのよ。ムックルだけが遊びに行ったと文句をおっしゃっていましたわ」
「へそー!う、うん、ごほんおほん。し、しかし父上もエルルゥ様も留守の時に臥せってしまわれるとは。こ、こうしてはおれん。早く姐様のところに行って差し上げねば」
慌てて立ちあがるユウゴ。しかしユズハの言葉がそれをさえぎる。
「お待ちなさいな。あなたが行ったところで何の役にも立ちはしませんわよ」
「だからと言って!!」
「まあお聞きなさいって」
姐様のところへと逸るユウゴを、自分の正面に座らせる。
「アルルゥ姉様の好物、何かおわかり?」
「そんな事決まっている、蜂蜜と蜂の巣、蜂の幼虫であろう」
何を今更、と言った表情のユウゴ。
「病気の人を見舞うのに、手ぶらで行くというのは失礼な事ではなくて?」
「し、しかし蔵のものを勝手に持ち出しては後でエルルゥ様やトゥスクル兄上に」
アルルゥ姐様の喜ぶ顔は見たいが、エルルゥ様にばれた時の事、トゥスクル兄上に見つかった場合の事を考えると恐ろしくて、と目で訴える。
「蔵のものがだめならどうして自分で採ってこようとしないんですの」
「だが」
「情けない。自分の思い人の好物一つ満足に採って来る事ができないなんて、あなたはそ
れでも誇り高きエヴェンクルガの雄ですの!!」
ユウゴの体を稲妻が落ちたような衝撃が走る。それだけ彼女の言葉は彼にとって大きなものだった。
「そ、そうでござるな。アルルゥ姐様の為に蜂蜜の一杯、蜂の巣の一個も取れずして何が
エヴェンクルガか! ユズハ殿、かたじけない。おかげで某目が覚めもうした。早速森に
行って採ってくる事にするでござる」
そう行って立ちあがるユウゴに続き、ユズハも立ちあがりユウゴに続く。
「私も手伝ってあげますわ」
「よろしいのでござるか?」
「かまいませんわ。私もアルルゥ姐様の喜ぶ顔は見たいですし」
「かたじけない、恩に着るでござる」
かくのごときやり取りの後、二人は蜂蜜を採るため出発したのだった。
「くふっ」
そして今に到る。
「後はほっといてもユウゴが蜂の巣を取ってくれると思ったんですけど、当てが外れましたわ」
「何を一人でぶつぶつ言っているでござるか」
2人はいまだに万を越す蜂の群れに追いかけられていた。心なしか先程よりも更に数が増えた気がする。
「どうやったらこの状況から抜け出せるか考えていたのですわ」
必死の追いかけっこも、もはや半刻に及ぼうとしていた。このまま走り続けるのも体力的につらくなってきている。
「ねえユウゴ。あなたたちエヴェンクルガは女子供、老人のような弱者のために戦ったりするんですわよね」
「何を急に。そのような事、武人たる者当然のことではないか」
「そう、それじゃあ私のために盾になってくださらない?」
「な―─
何を、と彼が言おうとしたその時だった。前を行くユズハの体が一瞬にして視界から消えたかと思うと、急に天地が逆さになった。
ユズハに足払いをかけられた。そう気づいたのは激しく地面に背中を叩きつけられた後だった。とっさに受身を取るが木の根や草の蔓で溢れている地面でそう上手くできるものではない。一瞬息が詰まる。
羽音が、一気に彼に近づいた。やられる。そう思ってやがて来るであろう激痛に体を硬くしたのだが、一向にそれがやって来る気配はない。それどころかうるさいほどであった蜂たちの羽音が、だんだんと遠ざかっていく。
「何で私の方にー!!」
恐る恐る目をあけてみれば、既に小さくなっているユズハが蜂たちに追いかけられている光景が飛びこんでくる。
「某、助かったのでござろうか」
それだけつぶやくと、ユズハの逃げていった方向に合掌をする。
「ユズハ殿、そなたの犠牲、決して無駄にはすまい。しかし・・・・・・」
ここはどこであろうか。半刻に渡る追いかけっこは、彼から完全に位置と方向、その両方の感覚を奪っていた。蜂の巣を見つけた時はまだ明るかった森も、今では木が生い茂り夕暮れ時のそれに近くなっている。
とにかく逃げてきた道を戻ればそのうちどこかに着くだろうと、森の中を歩いていく。
「某、遭難したのでござろうか」
そう口に出してしまうと、急に心細さがこみ上げてきた。ユズハと一緒にいた時、または必死になって逃げ回っていた時。その時には気にもならなかった動物の声が、酷く恐ろしいものに感じる。
そんな彼の前方を、大きな白い影が横切った。
自分を襲いに来た獣かと、泣き出してしまいそうになる気持ちを奮い立て刀を抜く。しかし向こうの方ではまだ彼に気づいていない様だ。森の獣と足の速さを競っても意味のないことはわかりきっている。このまま気づかれなければ良いのに、と祈るような気持ちでじりじりとその場から離れる。
大きな獣である。やや距離が離れているためはっきりとはわからないが、ユウゴぐらいなら一飲みにできそうだ。
拷問のような時間が過ぎていく。獣の方では何かを探しているらしく、しきりに地面に鼻を擦りつけている。
この分だと何とか逃げる事ができそうだ、と彼が安堵しかけたその時、急に風向きが変わった。今まで獣の風下にいたものが風上になってしまったのである。獣の耳がピクンと反応し、こちらをゆっくりと振り向く。
目が合ってしまった。
膝が震え、恐怖で目が霞んできた。しかしこうなってしまえば後は戦って切り抜けるしかない。そう覚悟を決め、獣の方をしっかりと見据える。
「このユウゴ、エヴェンクルガの誇りにかけて、例えそれがムックルだとしてもけして引くまいぞ。さあ来いムックル、某が直々に成敗してくれるって、ムックル!?」
彼も驚いたが向こうのほうでも驚いた様だった。白い大きな獣―─ムックルはゆっくりとユウゴの方へと歩いてくる。
「何でそなたがこのような場所で一人でいるのでござるか。アルルゥ姐様のところにいなくても良いのか?」
自分を狙ってきた獣だと思ったのがムックルであるとわかり、それまでの緊張が一気に抜けてしまう。その場にへたり込むと今度は立てなくなった。
「ヴォフゥ」
「申し訳ないが某ではそなたが何と言いたいのかわからんのでござるよ。ミコトの兄上たちならわかるのでござろうが・・・」
「ヴォフゥゥゥゥゥ」
ムックルが何と言いたいのか彼がわからなくても、ムックルのほうでは彼が言っていることはわかるらしい。残念そうな顔でそう咆える。
「そう言えば、そなた何かを探している様でござったが、こんなところで一体何を探していたのでござるか?」
彼がそう言うと、我が意を得たりというような表情をし、ムックルは大きくうなずいた。
そして彼の座り込んでいるあたりを鼻で指し示す。
「ここをどけと言うのか」
「ヴォフ」
いまだに力の入らない足腰を、どうにか動かしてその場からどけるユウゴ。彼がへたり込んでいたその場所に何があると言うのか、ムックルは慈愛と悲しみに満ちた瞳でそこを眺める。
「骨、のようでござるが」
そこには大型の四足獣の物と思わしき骨があった。ここでこの獣が死んでからだいぶ時間がたっているようで、ほとんどその形を留めてはおらずあちこちに苔が生している。
その骸の前に、ムックルはどこに持っていたのか一輪の花を置く。このような鬱蒼とした森の中にあって、この周囲だけは何か静謐な雰囲気に包まれているかのようであった。
「そなた、もしやこの骨はそなたの」
「ヴォフ」
以前聞いたことがある。ムックルの母親は人を殺めたため退治されなければならなかった事を。本来ならばムックルもその時殺されるはずであったが、森の母―─アルルゥのおかげで彼女の子供としてその命をつないだ事を。
「そなた、今日はそなたの母上の墓参りでござるか」
それには答えず、ムックルはただじっと骨となった彼の生みの親を見つめる。ユウゴもつられる様に手を合わせた。
数十分後、ユウゴはムックルの背に揺られ森の中を歩いていた。あの場所がムックルの生みの母親の最後の場所であると言うのなら、ヤマユラからそう離れているわけでもないのだろうがいかんせん蜂との追いかけっことそれに続く緊張で、彼はもうへとへととなっていた。
「なあムックル殿、そなたはそなたの母上の事を、アルルゥ姐様の事をどう思っている」
「キュフゥゥゥン」
何を聞いているかよくわからないと言った風にか細く鳴くムックル。
「某はアルルゥ姐様のことを考えるともうそれだけでだめなのだ。夜も寝られなくなるし食事も咽を通らない。この間など姐様が見ていると言うだけでろくに稽古に身が入らなかった・・・・・・ムックル殿、某は、某は姐様にふさわしいような雄になることができるのでござろうか・・・・・・」
「グルルルルルルオォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ」
森全体に響き渡るような大声で咆える。ユウゴにはそれが、ムックルが自分を励ましてくれている様に聞こえた。
「・・・そうだ、某、アルルゥ姐様のお見舞いの蜂の巣を取りに来たのでござった」
「ヴォフ?」
「ムックル殿、急いで引き返してはもらえないだろうか。先ほどめったに見られないほど大きな蜂の巣を見つけたのでござる。早くしないと誰かに取られてしまうかもしれない」
「ヴォフゥゥゥッ」
「もちろんそなたも一緒に食べるでござる」
来た道を急いで引き返す一人と一匹。彼らの頭には喜ぶ彼らの思い人の顔が浮かんでいるのかもしれない。
―あと十年、男を磨きなさい。そうすれば坊主も私のお母さんに相応しい雄になれるかもしれないから・・・・・・―
終
「何で私がこんな目に合わなくてはなりませんのー、ユーウーゴー、あとで覚えていらっしゃーい!!」
沼に飛びこみ何とか事無きをえたユズハが、泥まみれになりながらも皆の下へ帰ってきたのは次の日の朝の事だった。
腹癒せとばかりにユウゴの日記を皆の前で朗読し、またひと悶着起きるのは別のお話。