空は青く澄み渡り、心地よい風が吹きぬけていく。それはここトゥスクルへと続く山道も例外ではなく、今日も多くの人間がこの道を通りトゥスクルへと北に、または反対にカルラゥアツゥレイ、オンカミヤムカイといった国々へ南にと歩みを進めていた。
「姫さん、疲れただろ。もう少しで旅篭につく。後はここの山さえ越えればトゥスクルだ。そうすりゃベナウィたちが迎えに来てる、輿の一つも持ってきてるだろ」
「いえ、だいじょうぶですオボロさま。このていどでよわねをはいていたのではお父様にあわせるかおがございません」
その中に一つ、一際人目を引く一団があった。
何もオンカミヤリューの旅行者が珍しいと言うわけではない。少数ではあるが周りには旅装束に身を固めた彼らの姿が見える。
その一団が目を引く理由、それはその中にいる一人の少女のためだった。
「しかしオボロ様、よろしかったのですか?」
「ん、何がだ」
「オンカミヤムカイにのこらずわたくしたちのごえいについていただいて」
少女は彼女の横を行く男と話していた。
「もしかして迷惑だったか?一人くらい腕っ節のある奴がいたほうが良いと思ってついてきたんだが」
歳の程はまだ十か、おそらくそれよりも下であろう。
「とんでもございません!オボロ様がいっしょにいてくれるおかげでぶじここまでくることができました。わたくしたちいちどう、オボロ様にかんしゃこそすれめいわくになどおもうわけがございません」
この年齢にして、『可愛らしい』という以上に、『美しい』という表現の似合いそうな少女である。
「けれど、お姉様をくにもとにのこし、しんぱいではありませんか?」
母親譲りの蜂蜜色のその髪は日の光を映しそれ自体が輝いているかのようであり、絹糸のように風が吹くたびにふわり、ふわりと揺れている。
「ああ、あの子のことならかまわない。あの子にはドリィとグラァの二人を付けてきた。あの二人さえいればめったなことは起こらんだろ」
そしてその瞳の奥に見ることのできる一国の皇女としての揺るぎ無い誇り、知性。それは、紛うこと無くこの幼い少女が高貴な血筋のものであることを万人に示していた。
「それに、俺と一緒にいたのではどうしても俺を頼ってしまうからな。それではあの子の為にもならん」
『姫君の中の姫君』とうたわれた母親、『賢皇』と称えられる父親の血は、紛れも無く彼女の中に受け継がれていた
「俺はユズハに犯してしまった間違いを、もう一度あの子に犯すわけにはいかないんでな。姫さんも覚えておくといい。鳥は大空を羽ばたくためにいる。大切だからといって籠の中に閉じ込めておいてはならないことをな」
「はい、オボロ様のそのおことば、このフミルィルのこころにきざみつけておきます」
ふと寂しげな目をして言うオボロを、彼女は真剣な表情で見つめ返した。
そのような2人を、2人の後ろを歩く従者の中から追いついてきた人間がいる。
「いやはや、オボロ様も成長なさりましたなあ」
少女の横に並び、僧衣に身を包んだ老人はそう言う。その瞳もどこか懐かしげである。
「おい、じいさん。それが三十過ぎの男に言う台詞かよ」
オボロが苦笑しながらそう返した。
「そうですよムント、オボロ様にしつれいではありませんか」
「いえいえ姫様、このオボロ殿の妹君への溺愛っぷりはそれはそれは凄まじいものでございましてな。妹君が果物を食べたいと言えばたとえ隣国へでも探しに行き、一度でも咳をしようものなら顔面蒼白にしてエルルゥ様を呼びに行く始末」
楽しげにそうフミルィルに話しかけるムント。
「そのオボロ殿の口からそのような言葉が発せられるとは。月日が経つというのは早いものですなぁ」
オボロは依然として苦笑しながらムントとフミルィルを見ている。
彼らは思い出しているのかもしれない。ユズハがいて、そして、母親となった彼女たちがまだ少女であった十数年前のトゥスクルのことを。
「そう言うじいさんだってなかなかの姫さんたち思いだったんじゃないか?いや、じいさんの場合は今もか。なあ姫さん、姫さんもたまにはこの口うるさいじいさんから解放されてのんびりとしたいとは思わないか」
「オボロ殿、貴殿は何ということを」
「いえオボロ様。ムントがいろいろといってくるのはすべてわたくしをおもってのこと。それをじゃけんにしていては、とてもすぐれたいせいしゃになどなれるはずがございません」
「ひ、姫様」
フミルィルのその言葉に目頭を熱くさせるムント。
しかし
「けれど」
「「けれど?」」
「けれど『としよりのひやみず』ということばもあります。ムントももうわかくないのですからあまりむりをせず、こんかいもくにもとにのこっていたほうがよかったのではないかとおもいます」
彼女の次の言葉にうけた衝撃はかなり大きかったようだ。口を大きくあけてその場に立ち尽くしてしまう。倒れそうになるところを慌てて駆け寄ってきた従者たちに抱きかかえられる。
「年寄りの冷や水、年寄り、私が、年寄り」
からかい半分に言われた事ならムントもここまでの衝撃は受けなかっただろう。しかし汚れを知らない、真っ直ぐな瞳でそう言われたのだ。純粋であることは時に残酷でさえある。
「ハァッハッハッハッ、そりゃいい、年寄りの冷や水か」
オボロが腹を抱えて笑いだす。
「すこしいいすぎたでしょうか」
「いや、姫さん。あんたは正しい事を言っただけだ。気にすることは無い。しかし年寄りの冷や水とはよかったな。おいじいさん、さっさと隠居でもしろって言う姫さんからの心やさしいお言葉、しっかりと承っておくんだな」
「くううっ、オボロ殿、わたしはまだ隠居などはいたしません。姫様、このムントまだまだ老いてなどおりませぬ。姫様が一人前の女性になるまでは教育係として姫様のお世話をさせていただきます」
男泣きにくれるムント。それを見て少年のように大笑いするオボロ。フミルィルはその間に挟まれきょとん、と、していた。
空は青く澄み渡り、心地よい風が吹きぬけていく。それはトゥスクルの空も例外ではないだろう。
一行は、彼らの故郷へと続く山道を歩んでいた。
山間に沈む夕日が木々を染めていた。朱に色づく山中の宿場町では、多くの人々が日中、山道を歩き疲れた体を休めている。
そんな中にある一軒の宿。その宿に彼女はいた。
「いいおゆでした」
風呂から上がりしっとりと濡れた彼女の蜂蜜色の髪、そして純白の翼は、部屋に差し込む夕日に彩られこの世のものとは思えないほどの美しさを放っていた。彼女の世話のためともに風呂に入った女官などは、風呂よりもむしろ彼女のその美しさに中てられ頬を上気させている。
「なんどきてもここのおふろはすばらしいです」
「おっ、姫さん上がったか」
部屋の中には旅装を解き、楽な服装となったオボロがいた。
「飯の用意ができたそうだ、じいさんが風呂から上がったら食べにいくといい」
「オボロ様はどこかへいかれるのですか?」
そう言いながらも、部屋から出て行こうとするオボロに彼女がそう聞いた。
「ん、あっ、ああ。俺は風呂に入ってから食いに行く。先に食っててくれてかまわない」
「はい、わかりました」
「俺の分も残しておいてくれよ」
「はい、ここにはクロウ様もカルラ様もいらっしゃいません。あんしんしてゆっくりとはいってきてください」
自分が言った冗談に彼女がこのような返し方をしてくるとは思わなかったのだろう。いささか面を食らって
「あ、ああ。そうさせてもらう」
とだけ言うとオボロは部屋を出ていった。廊下では「誰に似たんだ?まさか兄者・・・ではないだろうし、翼の姫さんな訳無いしなぁ」などといった独り言が聞こえる。
「いや、好いお湯でございました」
オボロと入れ違いにムントが風呂から戻ってくる。そしてフミルィルと顔を合わせたとたん全身を硬直させた。
「ゆうごはんのしたくができたそうです。オボロ様はおふろにはいってからたべるそうなので、さきにたべていていいとおっしゃっていました。・・・ムント、どうかしましたか?」
彼女に名前を呼ばれ、はっと我に返るムント。しかしその瞳はまだどこかをさまよっているかの様だ。
「い、いえどうもいたしません。姫様のあまりの美しさにこのムント、見とれていただけでございます」
その言葉に嘘は無いだろう。しかし普段見なれているムントにとってさえ今の彼女は美しすぎた。
「夕御飯でございましたね。それでは参るといたしましょうか。おまえは他の者を呼んできなさい」
そう女官に指示を出す。その言葉のなかに明らかな照れ隠しが見て取れる。ただこの場に、彼のそういった感情の発露を看破する人間がいなかったのは彼にとって幸いであっただろう。オボロがいればからかわれていた事は疑いようが無い。
曰く「おいじいさん、あんたそっちの趣味でもあったのか?」
しかしフミルィルに見とれていたムントをそう揶揄するのは酷であろう。全ての人間がオボロの様に振舞えるわけではないのだ・・・・・・
従者を引きつれ、宿の者に案内された部屋には山海の珍味が並んでいた。このような山の中の宿にあっても、それが一流のもてなしであることがわかる。
「うわぁ、おいしそうなおりょうりですね」
「こちらが蒸したモロロに山菜から造りました餡をかけた物、この魚は先ほど川より釣ってまいりましたものです。足の部分よりお召し上がりいただくとより一層味が引き立ちます」
そう女将が説明する。
従者が毒見をすませると、彼女もそれらの料理に箸をつける。
「ふむ、おいしゅうございますな姫様」
「はい、エルルゥ様やお兄様のおりょうりとおなじくらいおいしいです」
彼女がそう言いながら次の料理に手を伸ばしたその時だった。
バキィ、グシャァ、バグシャァ
それを文章で表すとこんなところであろうか。壁を突き破り、男が隣の部屋より彼女たちの目の前に飛び込んできた。
女官の悲鳴や従者たちの怒号で部屋が混乱に陥る。
「おちつきなさい!!」
「皆の者、落ち付かれよ」
その混乱を収めたのはフミルィルとムントの一声だった。
「何事であるか」
そしてムントがそう叫んだときである。突き破られた壁から男がのっそりと出てきた。巨漢のギリヤギナであった。かなりの量の酒を飲んでいるらしく目が据わっている。飛び込んできた男はこのギリヤギナの男に投げ飛ばされるかどうかしたらしい。
「うぅーい、ひっく」
「お、お客様、お止めください。他のお客様のご迷惑になります」
男を止めようと女将が男に言い寄るが、男はまったく聞く耳を持たず女将を払いのける。そして追い討ちでもかけようというのか、ギリヤギナの男はもう一人の男に近づいていく。
「止められよ、それ以上の狼藉はこのムントが許しませんぞ」
「んだぁ、このジジイ」
「じじっ!」
「くぉの男は、我らギリヤギナを愚弄ーしたのだ。それぐぁ、どれだけ罪、深いことか、体に教え込ん、でいる。邪魔をーするというのなら、たとえジジイといえど容赦は、せぬずぉ」
そう言って、今度はムントに近寄ってきた。女性の胴回りほどもありそうな腕をのばし、ムントの胸倉をつかもうとする。
だがそんな二人の間に、割りこむ小さな影。
「姫様、危のうございます。お離れください!」
しかし彼女はムントの前からどけようとはしない。彼をかばおうとするのか、毅然と男の瞳を見つめる。
「な、なんだぁ、このガキ」
彼女の瞳に見据えられ、やや狼狽する男。もう少し理性が残っている相手であれば、これだけで相手を屈服させることも夢ではなかったであろう。だがこの場合は男の神経を逆なですることしかできなかった。
そして、その後の展開は万人の予想を裏切るものだっただろう。
フミルィルのその整った唇が動く。
「オウニイさん、動けなくなった相手だけじゃなく女老人にまで手を出そうとするなんざ、ニイさんそれでも誇り高きギリヤギナの男かい」
時間が止まった。
「情けないねェ。私の知っているギリヤギナは皆道理をわきまえた人たちばかりだよ」
「ひ、ひひひひひひひひ、ひめ、ひめ、姫さ」
「それに比べてニイさんはどうだい。アン、何が愚弄しただい。あんたの口からは百年早い台詞だね。本当にギリヤギナを名乗りたかったらもっと男磨いて出直して来な、このサンピンが!!」
「姫さ、ひめさ、ひめめめ、姫様ぁぅ」
「ム、ムント様!」
「薬師だ、薬師を呼べ!!」
泡を吹き、白目をむいてその場に倒れこむムント。ビクン、ビクン、と痙攣まで始めた。
従者たちが大慌てでムントを介抱している間も、フミルィルと男のにらみ合いは続く。しかし男の方でも、このような少女にあれだけの啖呵を切られるとはまったく想像していなかった様だ。毒気を抜かれこの先どう対処してよいかさっぱりわからず、ただその場に立ち尽くすことしかできない。
そして
「動くなよ、その先少しでも動いてみろ。貴様の頭は永遠に胴体と別れる破目になるぞ」
オボロの双剣が男の首筋に当てられた。こうして男はそれ以上抵抗することなく宿屋の外へと連れていかれた。
「姫さん、大丈夫か」
その場にしゃがみこむフミルィル。彼女の膝は座り込んでもなお震えているもが、その瞳には何か満足したような色が見える。
「ひざがふるえて、こしに、ちからがはいりません」
明朝。フミルィルとオボロ、そして従者たちはトゥスクルへと向かっていた。ムントはいまだに宿でうなされている。フミルィルはムントが回復するのを待ったほうがいいと言ったのだが、オボロが
「いや、この分だとじいさんが回復するのなんざ何時になるかわからん。山の麓には迎えが待っているし、じいさんには悪いがさっさと出発するべきだな」
と言い、従者を一人宿に残して宿を後にした。
「なあ、姫さん。あんな啖呵、よく言えたな」
道中、オボロがそう言ってフミルィルに尋ねる。昨日のことがまだどこか信じられないと言った風だ。
「いぜんトゥスクルにいったときカルラ様からおしえていただきました」
「カルラから!?」
「はい。なにかこまったことがおきれば、さくばんのようにいうようにと。そうすればだいたいのおとこはだまるから、とのことでした」
「あの女ぁ・・・姫さん、今回は俺が近くにいたから良かったがな、いつもいつも昨日のように上手くいくとは限らないんだ」
「それと、いうばあいはちかくにオボロ様やクロウ様、トウカ様のようなかたがいるときだけにするようにもいわれました。きのうはオボロ様がすぐちかくにまできていたことがわかっていましたので、じしんをもっていうことができました」
堂々とそう言う。
「・・・・・・なあ、姫さん。それはあんたの母親に言ってあるかい」
「はい。ミコトお兄様とれんしゅうしたあと、お母様にもごひろういたしました。とてもよろこんでくださって、お母様、『カルラにも御礼をしておかなくては』とおっしゃっていました」
「・・・そうか」
これまでの旅の疲れが一気に出てきた感のするオボロであった。
「おっ、姫さん、どうやら迎えの連中がきたみたいだな。んっ、ベナウィにトウカに、あれは・・・」
彼女たちの視線は迎えの中心にいる、一人の男に注がれた。特に目立つ格好をしているわけではない。しかしその男からは、人を引き付ける独特の雰囲気が漂ってくる。
「お父様」
終