「…………ア…ティ」

 羨望、劣情、愛情、嫌悪、感謝、謝罪……溢れだし、混沌とした渦を作り出す感情。それらに翻弄され、やっと一言だけ――――――彼女の名を呼んだ。
 伝えたい言葉は他にも沢山あったのだが、とにかく………今は言葉に出来なかった。

 少し擦れた声で……本当に聞き取れるものなのか、自分でも疑問だったが。
 それでも彼女には十分に、その意味が通じたらしい。

 『ぼく』は『僕』を取り戻した。

 彼女は黒水晶のような瞳を見開いて驚いたあと、涙を浮かべた。
 それからゆっくりと、唇は喜びの形を結ぶ。
 きららかに数滴、涙が頬をつたい落ちたとき……彼女もようやく声を出せたのだろう。
 想いを一言に込めて、微笑んだ。

「お帰りなさい……イスラ」



■ □ ■ □ ■ □ ■ □




(これは、失敗だったかもしれないな)

 少しだけ、これまでの生活を振りかえる。

 記憶を失っている間の、夢のような楽園での生活。
 いつも側にいてくれた姉『アズリア』
 毎日のように遊んだ島の子供たち…『友達』
 別け隔てなく、他の生徒と同じように扱ってくれた『せんせい』

 それらは確かに幸福な記憶だった。
 が、角度を変えて見れば……それは完全に『失敗』だったと言えるかもしれない。

(……まったく、冗談じゃないよ)

 ちらりと横に目をやれば、赤毛の女性が無防備な寝顔を晒している。
 妖精の花畑と呼ばれる、マルルゥお気に入りの場所で。まるで物語に出てくるお姫様のように、手を胸の上で組み眠る姿は……大変愛らしくはあるが。

 イスラは諦めにも似た心境で、深くため息をもらした。

(いや、前々から気づいてはいたけど……)

 普通に考えれば、妙齢の女性が若い男と2人っきりの時に…このように無防備に眠りはしないだろう。

 つまり隣で眠る『女性』に、自分は『男性』として見られてはいない、ということだ。

 その事実をまざまざと見せつけられているようで、男としては『寝顔が可愛い』だとか、『柔らかそうな唇』だなぁ……などと、のん気に考えてはいられない。

 漂流者として出会った頃は、いわば最初に発見したことにより発生した『責任者』という関係。
 次ぎに敵対した時は、大切な親友の『弟』。
 そして最後に…これが一番不味かった。記憶を失っている間の『先生』と『生徒』の関係……どちらかと言うと『保護者』に近かった気もする。

 これでは今更『男』として見てくれ、という方が無理な話だ。
 加えて彼女は、そう言った話には素晴らしく――――――――鈍い。

(まあ、だからこそ……僕にもまだチャンスがある、って事なんだけど)

 アティに好意を寄せている男は決して少なくはない。

 人望厚き美丈夫で、海賊一家を率いるカイル。
 おどけた仕草で本心を隠す、カイル一家のご意見番スカーレル。
 現在は島でアティと同じく、教職についているヤード。
 人外も入れれば、護人のヤッファとキュウマもライバルと考えて間違いはない。

 それらのいずれ劣らぬ男に囲まれて…誰とも『良い仲』になっていないのだ。
 アティの鈍さは筋金入りだろう。



 ふわりと風がアティの前髪を揺らす。

 その額をくすぐる感触に小さく声をもらし、アティが寝返りを打つと…今度は髪が顔にかかり、その表情が隠れてしまった。
 そっと眠りを妨げないように、髪を梳く。

「いつの日か、きっと……」

 不意にこぼれた言葉は、いまだ眠りの中にいるアティには届かない。

 起きている時に伝える勇気は……まだ持てなかった。
 やっと1人で歩きだす準備ができただけの自分には、彼女の周りの男たちのような力も魅力も、何一つとしてないのだから。

 だから、今は『1人の男として見て欲しい』なんて言わないし、言えない。
 ただ……いつの日か、きっと。

 ―――――――意識せざるを得ない『男』になってみせる。

 それだけを、彼女の寝顔に誓った。