あの日、あの時、もしもあの一枚の板が黒髪の青年に当たらなかったら。
未来は少し変わっていたかもしれない。
「行くな」
「…もうお互いに用はないだろう」
アストレスが求めていたのは『生きた石』。
しかし、サーシャの父親から遺産として残された石は、生きてはいなかった。
遠い昔に、形が残っているのが不思議なほど昔に、死んでしまっていたのだ。
アストレスがサーシャを、サーシャの持つ石を求める理由はない。
それでもアストレスは繰り返した。
ただ一言だけ。
「―――行くな」
これまで向けられてきた、どの表情とも違うアストレスの真摯な瞳に、サーシャはようやく気がついた。
サーシャが鈍かったわけではない。
アレでは誰にもわからない。
サーシャを泣かせて微笑むアストレス。
サーシャが泣くから楽しいのではない。
サーシャが彼を睨みつけている間は、そのわずかな時間だけは……サーシャが見つめてるのは自分だけ。
例え好意ではなくとも、その心を占めることが出来るから。
「………素直に『好きだ』って言ったら、考えてやる」
自然とそんな言葉が出てきた。
屋敷から、奥方から、父の親戚連中から離れたかったのは、今も変わらない。
それでも、目の前の若様との口喧嘩を繰り返す日々は、結構気に入っていた。
「なっ。…誰がおまえみたいな強暴女…」
からかいを含んだサーシャの声に、ムッと顔をしかめてアストレスが言い返す。
「じゃあ、いいな。お別れだ、アストレス。おまえのこと好きじゃなかったが、嫌いでもなかったぞ」
これは本当の言葉。
あれだけ虐められれば好きにこそなれなかったが、嫌いとは言い切れない魅力がアストレスには確かにあった。
年頃の娘を虜にする『美貌』とは違う物。
魔術師連中が全ての価値基準とする『魔力』など、当然サーシャには関係がない。
もっと違う何か。
アストレスという男を、人格を形作る内面的な『魅力』
一本筋の通った、本当の強さ。
それがアストレスの『魅力』
それだけが嫌いになれなかった。
嫌いになれなかったからこそ、サーシャは一言だけチャンスを与えた。
後はアストレス次第。
サーシャは今、出て行くことも、残ることもできるのだ。
くるりと背を向けたサーシャ。
その背中は今にも歩き出しそうだった。
当然、ここで見送りたいわけではない。
別れの言葉に咄嗟に『行くな』と言ってしまったが、これだけは言える。その言葉だけはいつもの天邪鬼ではない。
ただ一言、やっと言えた本心。
顔を合わせればつい喧嘩をしてしまうが、ずっと言いたかった一言。
本当はたぶん、初めてあった時から……胸の中にあった言葉。
決して交わらぬ彼女との平行線を、ほんの少しだけ近付ける可能性を秘めた、唯一つの言葉。
意を決して口を開くが、上手く言葉がでてこない。
水からあがった魚にでもなった気分だ。
喉が乾いて、声が出せない。
それでも、今言わなくてはいけない。
そして、サーシャが背中を向けている今なら、素直に言えるかもしれない。
「………だ。」
ボソリと一言。
情けないことに、自分にすら最後の方しか聞こえなかったが。
それでもサーシャには聞こえたようだった。
「何かいったか? 小さすぎて聞こえないぞ?」
などと振りかえり、腰に手を当てている。
とうとう自分に言わせてやった、という気分なのだろう。
胸を張って自分の顔を見つめるサーシャの瞳はキラキラと輝いている。
そんなサーシャの表情を見て、アストレスはだんだん腹が立ってきた。
「『好きだ』と言ったんだ。この馬鹿女っ!」
いつもの口喧嘩と同じような大声で、盛大に言いなおしてやった。
「好きだ、好きだ、好きだっ!!」
一度言ってしまえば、後は楽だった。
どう好きなのか、何が好きなのかは関係ない。
目の前の娘がびっくりしている顔が、かえって愉快でもある。
ずっと好きだった。
いつも赤毛のアバズレと蔑んでいたが、何処に居ても目をひく鮮やかな髪の色はとても新鮮だったし、その蒼い瞳は空を映すように澄んでいて、一度魅入られると目をそらすことができなかった。
そしてなにより、サーシャの裏表のない性格は、魔術師に囲まれた生活のなかで、ただひとつの安らぎともいえる。
「何度でも言ってやる。俺はおまえが好きだ。おまえを手放すつもりはない」
これまでにない真摯な瞳に射抜かれ、サーシャは戸惑い、どこかのん気に納得した。
年頃の娘は、コレにやられるのか、と。
「………帰るぞ」
アストレスは勢いに気圧されて、ぽかんとしているサーシャの腕を掴む。
そのまま強引に館への道を辿り始めた。
「あ、こら。アストレス……」
せめて手を繋ぐ、という行動に出れないものか。
捕まれた腕が痛かった。
痛かったが…怒っているのか、拗ねているのか。はたまたただの照れ隠しか。むすっと顔をしかめたまま館への帰路につくアストレス。その赤く染まった耳を見たら……サーシャはどうでも良くなった。
(後で腫れたら、こいつに手当させよう)
やはりこう言った事は、言わせたほうが勝ちだ。
などと無理矢理自分を納得させつつ、サーシャは赤く染まった頬を隠すように俯いた。