死んだ。
父が死んだ。
あの臆病者の父が死んだ。
娘を館に閉じ込め自分は違う館に逃げ出した、あの父親が。
心にしみ込む、水の伯爵の言葉。
水が大地にしみ込むように、ゆっくりと静かに広がる父親の訃報。
ゆっくりと世界が歪む。
うす暗い室内が、ぼやけた。
頬を伝うひとすじの涙。
逃げられた。
とうとう追いつけない所まで、逃げられてしまった。
好き勝手に騒ぎを起こす娘を一度も叱る事なく、無関係を貫き通したまま。
「…だから臆病者だと言うんだ」
何が一番父を苦しめ、死に追いやったのか。
エレクラにはわかっていた。
恐れたのだ。
風の娘であるエレクラを。
水の一族の中に、穢れた一族の娘を誕生させてしまった事を。
その秘密が外に漏れるのを、父は一番恐れていた。
宝玉の主が出た栄光の一族から、風の娘を出すわけにはいかない。
だから隠した。
そして閉じ込めた。
それから最後に、自分は館を逃げ出した。
娘に幾人もの見張りを付け、自分一人別の館に。
エレクラには風の一族である事を隠す事もできた。
母がそうやって父に近付いたように。
魔力を持たない無能者のふりをしても良かった。
本当は風の力を持つ事を隠すなど、簡単だった。
そうしなかったのは、望まれなかったからだ。
父親がエレクラに風の力を隠すよう『望まなかった』から。
たった一言、娘に望みを伝えることすらしなかった父。
「…臆病者…」
ぽつりと声を漏らす。
その声に続くように、涙が頬を伝う。
「臆病者、臆病者」
言葉で父親を罵りながら、エレクラは涙を流す。
本当は父親が恋しかった。
4年前に母親が死んでからはなおさら。
愛してくれなくとも、抱き締めてくれなくとも、側にいて欲しかった。
逢うたびに顔をしかめても、背けてもかまわなかった。
ただ同じ館にいるだけで良かった。
どんなに強がっても、一人で不自由なくても、それでも自分がまだ子供だとわかっていた。
両親を恋しがり、涙することだってある。
「何を泣いているんだい?」
突然声をかけられ驚いて顔をあげると、エメラルドの瞳と目があった。
いつのまにかそこに立っていた、ダークブラウンの髪を持つ青年。
人が入ってきた気配は感じなかった。
「泣いてなどいないっ」
きっと青年を睨みつけた拍子に、涙がこぼれ落ちる。
頬を伝う涙に気がついて、エレクラは赤くなった目を隠すように青年から顔をそむけた。っと、肖像画の中の父親と目があう。
何も知らない、穏やかな微笑みの父親。
青年を睨みつける変わりに、エレクラは父の肖像画を睨んだ。
「おまえ、人間じゃないだろう。何者だ?」
涙を止めようと忙しく瞬きを繰り返す小さな少女の姿に、青年は少しだけ後悔した。
この館を訪れたのは別の目的があったのだが、それは何も少女の前に姿を現さなくとも済ませることが出来た。
それでもつい姿を現してしまったのは……父親を亡くして泣いている子供を放っておけなかったからだ。
青年が探している赤毛の少女も、幼い頃に両親を亡くし、こんな風に1人で泣いていたのだろうか?
そう思うと、ただ慰めたくて。
涙を止めてあげたくて、隠れていることはできなかった。
大切な『約束』の少女にはできなかったこと。
少女の父親の魔術のせいで、今なお足跡を辿るぐらいしか叶わない『彼女の娘』。
同じように泣いている少女がいるのなら、せめて涙を止めることぐらいはしてやりたい。
「俺は『地の宝玉グレデュース』。サーシャの娘を探しに来た」
エレクラは正直に応えた青年の正体よりも、聞きなれない単語が気になった。
「『サーシャの娘』? そんな者など知らない。無駄足だったな」
「うん。無駄足になることは分かっていたんだ。そうだな……君たちには『エリオスの娘』って言った方が、分かりやすいかもしれない」
『エリオスの娘』という単語に、エレクラは露骨に顔をしかめた。
確かにそちらなら知っている。
レヴィローズを見捨てたエリオス。
そしてその娘であり、現在のレヴィローズの主ジャスティーン。
つい先日、エレクラ自身が罠に陥れた少女。
「宝玉どもは、余程あの小娘に御執心らしいな」
水の王子ジェリーブルーはジャスティーンを助ける為にこの館を訪れた。
人間嫌いで有名な風の一族の至宝シルフソードですらも、ジャスティーンの味方をした。
「だが、アレはもうレヴィローズの主だ。今更他の宝玉がのこのこ出ていったところで…」
柳眉を険しくし、投げ捨てるような口調の少女に、グレデュースは苦笑した。
優しく抱きしめ、そっと慰めるだけが、『涙を止める方法』ではなかったのだ、と。
歳相応の子供らしい笑顔ではなかったが。
それでも1人で泣いているよりはずっといい。
強がっていられるうちは、まだ元気な証拠だ。
「あの子がレヴィローズと契約を結んでいようと、関係ないよ」
「俺はサーシャとの『約束』を果たすだけだから」っとグレデュースは小さなエレクラの体を抱き上げた。
「お、降ろせっ!」
突然大きな腕に抱き上げられ、エレクラは小さなこぶしで腕の主を叩く。
「泣いている子供は、こうして抱き上げると泣き止むんだ」
くすくすと楽しそうに笑うグレデュース。
「もう少し小さかったら『高い高〜い』ってやってあげられるんだけどね」
「でも、君は小さいから、まだ出来るかも」っと今まさにソレを試そうと真似をするグレデュースの顔面に、エレクラのこぶしが命中した。
「するな〜っ!」
感情が剥き出しになった顔。
向けられる感情は「怒り」であるが、涙や歪んだ微笑よりも、こちらのほうが良い。
ずっと自然で、子供らしい。
「降ろせ」
殴っても蹴っても自分を降ろしそうにないグレデュースに、エレクラの眉間にしわが寄せられる。
「泣いている子供を放っておけるほど、俺は冷たくはないよ。」
「泣いてなどいない」
「ああ、そうだったね」
自分を降ろしそうにないグレデュースに、エレクラは拗ねて顔をそらす。
むっと顔をしかめているエレクラを抱き上げたまま、グレデュースは書斎を出て廊下を歩いた。
「風の娘が、こんな所にいてはいけないよ」
まるで人が住んでいなかったかのような、重く埃臭い廊下の空気。
館の外は陽光が輝き軽やかな風が踊っているのに、1歩壁を隔てた室内はまるで風が死んだように動かない。
「風の姫が、風の…時のとまった屋敷にいてはいけない」
長い間放置されていた中庭へ続く扉が、傷んだ音を立てる。
薄暗い世界から、急に光溢れる世界に連れ出され、エレクラの目がまぶしそうに細められた。
「風の民は、風と共にあるのがいい」
手入れもせずに放置された庭の草木は好き勝手に成長し、屋敷内と同じようにかつての整えられた庭園の面影はない。
しかし、それでもそこは美しかった。
鮮やかな緑と、降り注ぐ陽光。
憎らしいほど光に溢れた世界。
香る風と透き通る空に包まれた、小さな世界。
「父上を憎むなとは言わない。それも君の生き方だから、否定することは誰にもできない」
目を細めたままぼんやりと庭を見つめるエレクラに、グレデュースは囁いた。
「でも……確かに君の父上は、君を愛していたよ」
そう、本気で憎んでいたのなら殺してしまえば良かったのだ。
対面など気にする必要もない。
狸と狐ばかりの魔術師の世界で、人を1人殺すことなど造作もないこと。
証拠など、どこにも残らない。
グレデュースの言葉を、ゆっくりと理解したエレクラの表情が曇る。
「そんな事、あるはずがない」
軽く唇を噛むエレクラの髪をグレデュースは優しく撫でつける。
「信じなくてもいい。君は愛されていた」
だから閉じ込めた。
外に出さなかったのは、確かにエレクラの力を隠すためだった。
忌まわしいとされる風の力を持つエレクラを、水の力しか持たない親族の目から守るために。
大切な娘にその真意は伝わらなかったが。
腕の中で背筋を伸ばし、庭で踊る風を感じながら……小さく震えるエレクラの表情は見えない。
その柔らかなアッシュブロンドの髪を撫でながら、グレデュースはもう一度「愛されていたよ」と繰り返した。