どこで道を過ったのか。

 大切な少女を、殺してしまった。
 もちろん、直接手を下したわけではなかったが……やはり自分が殺した事にかわりなかった。

 他にも道はあると、知っていたのに。

 それでも選ばなかった。
 つまらないプライドが邪魔をして、差し伸べられた手を拒絶してしまった。

 この感情を『後悔』と呼ぶのかもしれない。




 自惚れていたのだ。

 全ての風は、自分の支配下にあると。

 そして人間の力では、決して自分を抑えられないと。

 だから気付かなかった。見逃してしまった。
 ささやかな魔力の流れを。
 繊細な歌声に乗せられた魔力に身を捕らえられた時も、動じる事はなかった。
 人間の力など、風の王子と呼ばれる自分にしてみれば、無力にも等しい。そして、例え捕われても、すぐにその呪縛から逃れる事ができる。

 それは彼の思い違いだった。

 彼女には、最初から王子を捕らえるつもりなどなかったのだ。
 ただ少しだけ、ほんの数瞬だけ、風の王子の干渉を妨げる事ができればよかった。

 これから行う魔術。

 その儀式に気付いた王子に邪魔されぬよう。

 幸か不幸か、彼女の魔力は一族でも抜きん出ていた。
 だからこそ選ばれ、王子と邂逅する事を許された。
 そして『器』として最高に育った時、契約を蹴られても、その番人として王子の側に留まる事を許された。
 王子の本体である宝玉を守護し、管理するために。

 本来は王子を護るための魔力。
 その力を使って、彼女は王子を封印した。

 何よりも自由を尊ぶ風を捕らえた

 己の命を代償に、愛しい王子を生かすため。

『風の宝玉シルフソード』の未来よりも、『ソール』という人格を選んでしまった。


 そして、彼女の屍に抱かれたまま、風の王子は1人。
 永遠とも言える、永い時を生きる。







 ひやりと冷たい指先が頬を撫でた。

 余程深く眠っていたのだろう。
 他人の接近をここまで許すとは。

 あまり良い夢ではなかったが、眠りを妨げられたのも事実。
 不機嫌な顔で目を開く。

 剣呑な光を宿すブルートパーズの瞳に射竦められ、指先の主……黒髪の少女は背筋を伸ばした。

「すみません。……起こしてしまいましたか?」

 相手が目覚めたことにより、木の葉を持った手を胸の前で握り、少女が申し訳無さそうな顔をして覗き込んで来る。
 瑞々しく輝く蒼い瞳と薔薇色の唇。

 くるくると表情の変わる、いつもの少女の顔がそこにあった。

「ソール?」

 返事をしない相手に、どうかしたのか? と身を寄せ、顔を覗き込む少女。

 その存在を確認するように、ソールは少女の頬に触れた。

 指と同じく、冷たい頬。

 その頬に違和感を覚える。
 本来なら人間である彼女の頬は暖かく、柔らかいはずだ。
 それが今は、柔らかくはあるが、まるで宝玉である自分と同じように冷たい。

「……いつからだ?」

「はい?」

 ようやく返って来た問いに、少女は首を傾げる。

「いつから、ここに居た?」

 何を問われているのか理解できていない少女に、ゆっくりと問い直す。
 きょとんと瞬きをして、ちょっと考える少女。

「えっと……2時間ぐらい前、でしょうか」

 それがどうかしたのか? と首を傾げながら答える少女。

「馬鹿が。風邪をひくぞ」

 夕暮れの冷たい風から護るように、ソールは少女の身体を乱暴に抱き寄せ、自分のマントで包み込んだ。

「す、すみません。陽が落ちたら部屋に戻るつもりで…」

 少女の愛する風の王子は、人間嫌いで有名だった。
 その王子がこのように自分を庇う事はありえない。

 よほどの失態をおかし、王子の不興をかってしまったのだろうか。
 少女は王子の腕の中で、おろおろと視線を泳がせた。

 本当は、すぐに部屋に戻るつもりだったのだ。

 生まれて初めて、屋敷の屋根に登るという大冒険。
 動き難いドレスのまま勇気を出して登って来たのだ。
 すぐにその冒険を終わらせてしまうのは惜しかったし、何よりそこは……愛する宝玉シルフソードのお気に入りの場所。
 彼がいつも見ている物。それと同じ風景を見ているという幸福感に、つい長居をしてしまった。

 貴族の娘が屋根の上に登るなど、普通に考えてもおかしい。

 そんな奇行に出た自分に、王子は怒っているのだろうか?
 貴族の娘として、自分の番人として、相応しくないと。

「用があったなら、下で呼べばよかっただろう。俺はともかく、あいつなら応える」

 ソールの言う『あいつ』とは自分の片割れたる、兄の事。
 分かりやすく冷たい言葉しか言わない弟とは対照的な、言葉にしない代わりに穏やかで柔らかな眼差しを持つ兄。
 その兄なら、少女が呼べば応えたはずだ。

「すみません。よく眠っていらしたので、起こしたら悪いと…」

「あ、でも」っと手に持った葉を見つめ、指で転がす。

「結局、起こしてしまいました」

 風の宝玉シルフソードは、何より自由を愛する。
 ゆえに、干渉される事を嫌う。

 起こして機嫌を損ねぬように。
 出来るだけ長く、隣にいれるように。
 呼吸すら慎重にしていたのだ。

 髪に葉が落ちて来なければ、決して触れるつもりはなかった。



 例え、ソールがうなされていようとも。






 何度も謝る少女。
 いつも通りの少女に、夢で見た悲壮な決意も、陰りもない。

 腕の中の少女は、確かに生きている。

 マントに包まれて、温もりを取り戻しつつある肌に触れ、ほっと息を吐く。

 少女を殺す夢を見た。

 間接的に、ではあったが。
 間違いなく、少女を殺したのは自分だ。

 どんな気分だったろうか。
 自ら棺に足を踏み入れる気分は。

 どんな気分だろうか。
 現実に、この瞳の輝きが失われたら。

「ソール?」

 風の王子の思いに応えるように、動き出す風。その変化に気付いた少女が首を傾げる。
 風を操る事など、風の王子にしてみれば呼吸をするのと同じ事。
 人が魔術を扱うように、特別な言葉も道具も必要ない。ただ『意識』すればいい。

 『この人間から呼吸を奪う』と。

 生まれた時から宝玉を受け入れるよう育てられた少女。
 宝玉の全てを無条件に愛し、その望みが例え自分の死であっても叶える。宝玉になら、殺される事さえ至上の甘露となる。

 それはこの少女にとって、当たり前の事。

  呼吸する自由を奪われ、少女は少し驚いたような顔をしたが、すぐにうっとりと微笑んだ。

 淡く、儚く消えそうで、けれど光り溢れる、凛とした美しさをまとった微笑み。
 誇りに満ちた、気高い瞳。



『これはあたしたちの我侭よ……。でも生きて欲しいの』

 夢の中の少女が言った言葉を思い出す。
 少し気の強そうな青い瞳と、アネモネのように鮮やかな赤い髪の少女。

 自由を失った自分が、何百年も番人である黒髪の少女を罵り、人間を憎み……そして最後に後悔し、訪れた赤毛の少女を通じて人を許す夢。


 宝玉の主は、本当の意味では宝玉を縛らない。


 それがわからなかった自分。
 結果、彼女を失った。
 自分には何も選ばせない、愛情の押し売りだと…拒絶して、気付かなかった。

 それこそが、自分が選んだ結果だと。


 けれど、今は違う。

 今は、ちゃんとわかっている。

 夢とは違う。

 彼女は生きている。

 今、自分の腕の中にいる。



「……ソール?」

 急に楽になった呼吸に、少女は首をかしげた。

「……お前は馬鹿だ」

 不機嫌な声に、ソールが怒っているのがわかる。

「殺されそうになったんだぞ? 少しは怒れ」

 この少女に『それ』を求める事が無駄である事はわかっていた。

 宝玉である自分に全てを捧げる、そんな生き方しか知らないのだ。
 それでも、求めずにはいられなかった。

 風の象徴するものは『自由』

 その風の一族を統べる者が、風の王子を縛らない為に、誰よりも縛られている。
 『自分』という物を、出す術を知らない。

 それが腹だたしかった。

「でも、私…ソールになら殺されてもいいです」

「…ソールがそう望むのなら」っと事も無げに言う少女。

「だからおまえは馬鹿だと言うんだ。俺の意思こそ関係ない。大切なのは、おまえの意思だ」

 生きたかったら、抵抗すればいい。
 元々、本気で殺すつもりはなかったのだから、彼女がその気になれば容易く逃げられたはずだ。

「ソールの望むままに生きるのが、私の意思。それが私の幸せ」

 ソールが何を言いたいのか、少女には理解できた。
 残念ながら、それだけは……どんなに時間をかけても、叶える事はできそうにないが。

「こう育てられたのは知っています。けど、私自身……シルフソードに、ソールの瞳に捕われているから」

 何ものにも染まらぬ、青い空と透き通った風の色の宝玉。
 そのブルートパーズの瞳に映る事が許されるのなら、どんな事でも出来てしまう。

「この生き方に、不満なんてありません。むしろ、誇りに思っているぐらいです」

 たとえ刷り込まれた感情であっても、これが本心。
 うそ偽りのない、誠の心。

「ああ、でも。ソールが嫌がるのに、こう決めているのは……私の『意思』で、我侭です」

 付け足すように言う少女の瞳に迷いはない。
 作られた自分も、本当の自分だと。






「……契約してやろうか?」

 少し間をおいてからの、突然の申し出に、少女は目を瞬かせた。

 確かに、ソールと契約を結べれば嬉しい。
 幼い時から、その瞬間のためだけに育てられていたのだ。
 けれど……

「ソールは、人に縛られるのは嫌なのでしょう?」

 人間嫌いのシルフソード。
 人間の吐き出す邪気のため、住む場所を奪われ、今も蝕まれ続けている。

 そのソールが、人間である自分との契約を本当に望んでいるとは思えない。そして、ソールが望んでいないのなら、契約などしたくはない。

「確かに契約は俺を縛る」

 主を護らなければならないし、相手が人間である以上、ある程度の行動の制限が生まれる。

「でも、おまえは俺を縛らない」

 器として最高に育った者と言う意味以上に。
 少女は自分を受け入れても、縛り付ける事はない。

「今度こそ、間違えない。俺が決める」

 これは夢の中の自分への宣言。
 そして、赤毛の少女への答え。

「おまえには選ばせない」

 宝玉を優先して、全てを捨てる道は必要ない。
 ソールの望みが、少女の望みだと言うのなら、少女が生きるのがソールの望み。
 後悔しないのが、ソールの願い。

「俺は、おまえを選ぶ。あとは、あいつが決める」

 1つの身体に、2人の人格の住むシルフソード。
 1人が勝手に主を決めるのは不公平。
 だから、選ぶのは弟。決めるのは兄。
 いづれにせよ、2つに別れた人格を持っていても、心は一つ。
 兄が見たものは弟も見ているし、弟が大切に思う物は、兄も大切に思っている。

 ソールの腕の中で、少女は柔らかい風に包まれるのを感じた。

 目の前の、風の王子の表情が優し気に変わる。

 王子はふわりと微笑み、口を開いた。