“彼”に始めて会ったのは物心も付かないような幼いころ。
自分は“彼”の所有者になるのだと、“彼”の器に自分はなるのだとただそれだけを言われて育てられてきた私に、“彼”はいつも微笑んでくれていた。
それが当たり前なことなのだと、私は“彼”の主となるのだからそれが当然なことなのだと、この安らぎの時といつまでもあることができるのだと。私は、永遠にその笑顔と共にいられるのだと──
何の疑いも持たずに。
足元の砕け散った石──シャレインが、砕けてもなお深い空のような青かったその色を徐々に失い始めている。
なんと言う愚かな振る舞い、許されざる大罪。これで“彼”と、そして私たちの運命は決まった。私たちの一族は消えるだろう、宝玉の存在も失われるだろう。それでも、私の心にあるのは間違えようのない愛おしさ。
これを知れば“彼”はどう思うことだろう。あの微笑をまた浮かべてくれるだろうか、それとも、あの冷たい瞳でこちらを見つめるのだろうか。
そのどちらでも良い。例え私が“彼”の主になれなくとも、これで“彼”が生き続けていてくれるなら。
これは呪い。私から“彼”に送る呪い。自由な風を私の元から放さないための、その最初の一つ。“彼”を永遠に“彼”であり続けさせるための。それが例え、“彼“からあの笑顔を奪うこととなっても。
もはや急速に輝きを失った宝玉の原石をみつめ、私は愛しい“彼” の名を再び呟く。
「ソール・・・・・・
* * *
少女の住まう場所には、いつも優しげな木漏れ日とともに穏やかな風がそよいでいた。それは全ての風の源である大気の〈泉〉、そこから生まれた風。彼女たちはその大気の〈泉〉を探し当てることに長けた一族だった。
彼女たちの一族はその発見した大気の〈泉〉の下に館を構える。それは一族にとって泉から生まれる清浄な風が、彼女たちの扱う魔術にとって必要不可欠だということもあった。
けれどその本当の目的は宝玉のため。彼女たち「風の一族」が守り続けてきた宝玉、シルフソードにとっても大気の〈泉〉から湧き出る風が何よりも大切であったから。
「シルフソード、シルフソード!」
少女は風の一族の中でも特に優れた術師だった。
生まれた時から、まるで風そのものに祝福されるかのように風の魔術を自在に操っていた。その魔力の高さは一族の誰からも感嘆と畏怖とを持って囁かれ、少女が物心付くころには一族どころか魔術師の中で知らない者はいないほどに、彼女の名は語られていた。
そしてその能力の高さゆえだろう。まるでそれが当然とでも言うかのように
宝玉の所有者となるべく、育てられた。
「ああ、シルフソード」
穏やかな風の動きとともに風の宝玉シルフソード、その精霊は少女の前に現れる。
少女は依然この宝玉と契約を結べている訳ではない。訳ではないが、この優しげな微笑を浮かべる精霊の胸に飛び込み、そのブルートパーズの瞳で自分のことを見続けてもらうということは、少女にとっては疑う余地もないほど当たり前のことにもはやなっていた。
「いったい何処へ行ってしまっていたのシルフソード。私がこんなにも貴方のことを呼び続けていたと言うのに」
拗ねたような口調で彼の胸に自分の顔を埋めるのもいつものこと。こうすれば彼は、それが謝罪の代わりかのように自分のことを抱きしめてくれるから。背中に回る彼の腕の感触が心地よくて、それが彼が私のことを想っていてくれる証拠のような気がして、私は何度でも何度でも彼の名前を呼ぶ。
気難しい魔術師の中で、しかも宝玉の所有者として育てられたと言うのに、少女が宝玉の精霊に向けるその表情には屈託がない。子供らしい素直な感情をそのままで、彼女いつも彼と一緒にいる。
特に何があるわけでもない。彼は、少女がそれを願えばいつまでも優しい微笑を浮かべたまま彼女を抱き続け、傍らに寄り添い続ける。
例えそれが、少女を、自らの主とは認めたわけではなくとも。
「・・・ねえシルフソード。また泉が、大気の〈泉〉が枯れ果てようとしています。新しい泉はまだ見つかっておりません。シルフソード、泉が無くなってしまえば主と契約を結んでいない貴方の命も尽きてしまうのでしょう? それなのに貴方はなぜ私と契約をしてはくださらないのですか? 私はこんなにも貴方のことを想っておりますのに。私でしたら、貴方の命を救って差し上げることができますのに・・・・・・」
彼の背に自分の腕をよせ、体を彼に預けたまま少女は呟く。
確かに少女ほどの魔力の持ち主と契約したのならば、彼は〈泉〉がなくともその命を失うことはないだろう。それどころか彼の、宝玉の輝きは今まで以上にその強さをますことだろう。
だが彼はけして肯くことはなかった。懇願の瞳で彼のブルートパーズの瞳を覗く少女に、少女を抱きしめた時と同じ微笑のまま静かに首を振るだけである。
たとえその微笑が、ひどく悲しそうに見えたとしても。
彼は少女を主とは認めようとはしない。
「シルフソード、私では貴方の所有者として相応しくないのですか? どうすれば貴方に相応しい女になることができますか? ねえ、シルフソード、私には、私には貴方を手に入れることはできないのですか? 貴方と共にあることはできないのですか?」
甘えるように、泣き叫ぶように紡がれる彼女のプロポーズのごとき告白は、彼の耳にはどう届いていたのだろう。ただ、今まで少女を抱いていた腕を放し、体を離す。
なぜ彼はこのまま自分を抱いてはいてくれないのか。いつもならけして彼の方から身を離すことなどなかったのに。
彼の体の感触が失われた名残惜しさと、そして彼の常ならぬ行いに一抹の不安を抱えたまま一歩、二歩と少女と彼の間に距離ができていく。その間が、そのまま彼と少女との距離のようで。けして歩み寄ることのできない、深く開いた溝のような。
「自惚れるなよ、たかが人間の分際で」
「・・・シルフ、ソード?」
目の前にいるこの人は誰だろう。シルフソードと同じ顔をした、この男は誰だろう。
シルフソード?
違う、彼の瞳はもっと優しげだ。こんな、怒りに満ちた目で私を見るわけがない。風が、こんなに冷たく吹くはずがない。
けれどこの声は、目の前の彼の声は想像していたシルフソードの声そのままで、いつか私の名前を呼んでもらいたかった声と全く同じで
「俺はお前たちとはけして契約などしない。誰がお前たち人間のような者を主と選ぶものか」
少女を見もせず、その彼は断言するかのように言葉を発する。その瞳に窺うことのできるものは怒りか、それとも悲しみか。
ほんの少し前まで自分のことを抱きしめていてくれた彼の変貌に、少女はただ呆然と立ちすくむ。真冬の地吹雪のような冷たい風にその身をさらされながらも、どうにかして目の前にいる彼に声をかけようとする。まるで何か魔術にでもかかったように自由にならない唇を必死に動かして、やっと一言、言葉を紡ぐ。
「どうして」
と。
どうして貴方はそんなに怒っているのか。どうして貴方はそんなに悲しそうなのか。どうして貴方は、私と契約を結んでくれようとはしないのか。
「どうして貴方は、私を受け入れてはくれないのですか」
その言葉に、初めて少女に気が付いたかのように彼は彼女のことを見た。
二人の目が合う。激しい感情のこもった瞳に、少女は息を呑んで見つめ返す。
「どうして、だと!? 見ろ、この今にも涸れようとしている風の〈泉〉を!! お前たち人間の吐く邪気が、この世界から泉を奪っていったんだ。それを今更、契約を結べ、俺を救うだと!? 人間に救ってもらうくらいなら、このまま滅びてしまった方がはるかにましだ!」
「だめ!!」
彼の言葉に、震えていた唇が勝手に声を出した。
死んではだめ
そんなことは言わないで
貴方がいなくなってしまうなんて
「・・・・・・お前がどう思おうと俺はお前たちを主だとはけして認めない。俺が死ぬと言うのならそれも天命だ。お前たちと契約を結んでまで生きながらえようとは思わない」
彼女を見据えたまま、淡々と言葉だけを向ける。その瞳には依然として渦巻く激しい感情があったが、口調だけは落ち着いている。
少女が近寄ろうとすると、彼は風に乗るように身をかわしその場から消えようとする。
「俺は、けしてお前たちを許さない」
彼を掴まえようと伸ばした手が、何も無い空間を虚しくつかんだ。後に残ったのは、冷たくふいた風の名残と、そして温かなそよ風の残滓。
青く輝くシャレインが発見されたのはそれから半年後のことだった。
木々がその命を輝かせる夏は終わり、草々が多くの種子を育む秋も終わろうとしている。
枯葉が一面に敷き詰められた林の中で、少女は一人彼の名前を呼んだ。
「シルフソード」
穏やかな風が落ち葉を舞わせ、一瞬だけあたりが春の暖かさに包まれる。
「シルフソード・・・・・・」
それ以上言葉が続かない。
あの日以来、もう一人のシルフソード、彼と会って以来、私は彼の胸に飛び込むことができなくなってしまった。
シルフソードは前と変わらない微笑でこちらを見つめていてくれるのに、その瞳に浮かぶものが悲しみだと知ってしまったから。
「・・・今まで有難うございました、旧いシルフソード。貴方の番人として、一族を代表してお礼を述べさせていただきます」
あの日私は、彼の番人となった。彼の所有者となれないならば、せめて番人として少しでも近い場所に。そう思って、番人となったのに
「新しいシルフソードの番人も、引き続き私がなることになりました。新しいシルフソードは、私のことを所有者と認めてくれると良いのですけれど」
番人としての少女は、それまでのためらいなどまるで嘘のように淡々と彼に語りかける。そこに逡巡や悲しみは感じられない。一度感情のまま彼と接してしまえば、二度と番人として、宝玉の管理などできなくなるから。番人の使命、それは“宝玉”を守り、ひいては一族の繁栄を約束すること。そこに余計な感情をはさむことはできない。彼女がどのように想おうと、その使命を覆すことは許されない。
少女は完璧に、番人としての役割をこなそうとしている。
「だから、貴方は安心して眠りにお付きください旧いシルフソード。私たちは、これからも永遠に風の宝玉のことを護り続けていきます。私たちは最古の宝玉である貴方のことをけして忘れはいたしません」
宝玉は消えない。その生命が尽きようとしても、その前に新しい宝玉が生まれるから。今、青く輝くシャレインは一族の城奥深くで安置されている。それが新しいシルフソードとなるその日まで誰の目にも触れることが無いよう。
例外は番人である彼女。彼女は新しいシルフソードの番人でもあるから。日に日に輝きの増すシャレインを、まるで旧い命を吸い取って生まれようとする宝玉の原石を、彼女は常に見守り続けなければならない。力を失おうとしている旧い宝玉では、一族を守護することなどできないから。だから一族のためにも、新しい、強い力を持った宝玉が誕生することを祝福しなくてはならないから。
だからそれは、仕方の無いことなのだ。
自分に言い聞かせるように何度も何度も心の中でそのことを反芻する。
そう、仕方の無いことなのだ。それに二度とシルフソードと会うことができなくなるわけではない。新しいシルフソードが生まれれば、また新しい彼と出会うことができる。だからこれは永遠の別れなどではない。たった一時、ほんの少しだけ会えなくなるというだけなのだから、だから、だから
「シルフソード!?」
それまで離れて少女を見つめていた彼が、いつの間にか少女の目と鼻の先の場所にいる。少女は慌てて身を翻そうとするが、それより先に彼の腕が、少女の体を抱きしめる。
「やめてくださいシルフソード。私は貴方の主ではないのですよ。私は、私は貴方を殺そうとしている人間なのですよ・・・・・・」
彼の腕には力は込められていない。少女の体を包み込むように抱きしめると、まるで子供をあやすようにポンポンと背中を叩く。
少女もゆっくりと彼と体を触れ合わせていく。久しぶりに感じる彼の体は、以前と全く同じように、やはり冷たくて、そしてこちらを安心させてくれるような心地よさがあった。
2人の別れの抱擁は、少女がその身を離すまでゆっくりと続けられた。
宝玉の精霊は最後に少女の手をとると、その手のひらの上に自分の指を走らせる。
「・・・そ・・・・・・る? ソール?」
そしてその細い作り物のようなしなやかな少女の手を、自分の胸に押し当てた。
「・・・ソール、ソール!! ああシルフソード、これは貴方なのですか、貴方の名なのですか」
彼の名のつづられた手のひらを握り締める。冷たいはずの彼の指が触れていたと言うのに、指の間からは例えようも無い温もりが感じられるようで。
今まで見たことも無いほど幸せそうな笑顔を浮かべる彼は、それを肯定するようにうなずいて見せた。
「ソール、やはり貴方は新しいシルフソードとは違うのですね。新しいシルフソードの誕生とともにソールは消えてしまうのですね」
彼はその問いかけには答えない。幸せそうな笑顔は、最後に宝玉としてではなく、ソール自身として彼女に触れ合うことができたからか。
巻き起こるつむじ風に彼女の視界が奪われると、もうすでにそこに彼の姿は無かった。
「ソール」
まるで大切なもののようにその名前を呟くと、温もりの残る手を握り締め、彼女はその場に崩れ落ちる。
* * *
ごめんなさい
彼女はゆっくりとシャレインに近寄っていく。宝玉の原石の輝きは以前より一段と強くなり、もう後わずかで、本当の宝玉となるだろう。
ごめんなさい
謝罪の言葉を浮かべる彼女。だがその表情に迷いの色は無い。揺るぎない静かな想いをその瞳に宿し、目の前のシャレインへと手をかざす。
ごめんなさい
これから彼女の行おうとしていることは番人として、いや、魔術師であるのならけして行ってはならない禁忌。
ごめんなさい
その謝罪の言葉は誰のためのものか。シャレインが一瞬震えたかと思うと、次の瞬間その宝玉の原石は硝子のような音をたてて砕け散る。
本当に貴方のことを想うのなら、愛しているのなら、このまま眠りに付かせたほうがいいのでしょう。そのほうが、貴方は幸せなのでしょう。
だからソール、これは愛なんかじゃないの。もっともっと深い、恋よりも深い恋、私の我侭、呪い。例え貴方が不幸になっても、貴方の自由を汚したとしても、貴方には生き続けていて欲しいから。風の〈泉〉が枯れようとしているこの世界で、貴方がどれだけ人の事を憎んでも、私をどれだけ軽蔑しても、私はソールとともにありたいから。ソールを失うことなどできないから。
「ソール」
砕けたシャレインが徐々にその輝きを失っていくのを、彼女は身動き一つせず眺めている。
許されざる大罪を犯したと言うのに、心の中はひどく穏やかだ。後悔など微塵も感じられない。
けれど、毅然と立つ彼女は、愛する者とい続けられるという喜びなど全く感じさせず、今にも泣きそうなほど、悲しそうに見えた。
終