「……今、なんと?」
一日のうちに、何度自分の耳を疑えばいいのか。そろそろ歳だとでも言うのだろうか。まだ三十路にもなっていないというのに。
そうイグニスが自問自答する目の前で、クレアはにっこりと微笑んだ。
「だから、一緒に寝てって言ったの」
さらりととんでもないことを宣うクレアに、邪気はない。湯殿で乳母から花嫁教育をされたはずの姫君に、イグニスは軽くこめかみを押さえた。
「……。……確認させてください。
カーラ殿から今日、何を、どう教わりましたか?」
「大事なところの、お手入れの方法?」
姫君のソコに対する認識が、触ってはいけない場所から、大事なところに変化した。これは大きな進歩だ。――一般的にはほとんど進歩が見られないが。
「他には?」
「他に?」
愛くるしい仕草で瞬く寝台の上の姫君に、イグニスは心の中で空を仰ぐ。この様子では、言葉通りの事しか教わっていないのだろう。
「他に何かあるの?」
「ありすぎます」
「なぁに?」
普段はお説教と授業を嫌がるくせに、今夜に限っては積極的だ。話が長引けは、それだけ一人にならなくてすむ。
急に子ども返りして「一緒に寝て」などと言い出したのも、カルバンがしたことが影響しているのは間違いがない。
おそらくは、乳母にも同じ事を言い、さすがにこの我侭には応えてはクレアのためにならないと、次に声をかけるだろうフィリーを自室へと遠ざけたのだ。
湯殿で授けた知識のおかげで、イグニスにまでは声をかけまいと踏んだのだろうが――半端に教えただけでは、クレアの男に対する危機意識は目覚めてくれなかった。
「お説教は嫌いだけど、今日は特別に聞いてあげるわ」
一緒に寝ましょう、と甘えた声で掛布を捲くりながら誘うクレアに、イグニスはもう何度目かと数える気にもならないため息をもらした。
ため息を吐くと幸せが逃げていくと何処かで聞いたが、自分が不幸になるとしたら、それは全てクレアのせいだ。
「……だから、それはダメです」
「どうして?」
「どうしても、です」
「……意地悪!」
頬を膨らませて拗ねるクレアに、イグニスは内心で舌を巻く。
本当の意味で意地悪を言っているのは、どっちだと思っているのか。
「意地悪じゃありません。明日にでも、カーラ殿がちゃんと教えてくださるはずです」
「イグニスが今教えてくれてもいいじゃない」
「私では上手く教えられる自信がありませんので」
我ながら逃げているとは思うが。
拗ねたままのクレアを強引に寝台の中へと押し込め、イグニスは苦笑した。
「姫様が眠るまで側にいます。お眠りになった後は、扉のすぐ外に居ますから」
一緒に寝ようという誘いには応えられないが、ちゃんと自分の不安を理解してくれていたイグニスに、クレアは掛布の中でホッと息をはく。
「絶対に部屋に戻っちゃダメよ? ずっと側に居なきゃダメよ?」
「はい。今日のような事は、二度と起させません。だから、安心して眠ってください」
側に居ないとダメだという願いに、イグニスはダメだとは答えなかった。ということは、言葉通りずっと側に居てくれるのだろう。そう確信し、クレアはようやく目を閉じ――
(!)
目を閉じた瞬間。
脳裏に浮かんだ父の顔に、クレアは反射的に目を見開いた。
「姫様?」
素直に眠ると思いきや、すぐに目を開けたクレアを、イグニスは怪訝な表情をして見下ろす。
「……ねえ、何かお話を読んで」
「はい?」
「子どもの頃みたいに、眠くなるまでお話を読んで」
一瞬にして顔を強張らせたクレアに、イグニスは悔やむ。これは、相当根の深い傷を付けられた。
すっかり子ども返りしてしまったクレアに、イグニスは幼い姫君にしていたように触れる。さわさわと横になったクレアの前髪を撫でつけ、眠りの淵へと誘いをかけた。
「何のお話がいいですか?」
「何でもいいの?」
「姫様には昔、散々絵本を読まされましたからね。
今でも諳んじられる自信があります」
「じゃあ……」
クレアは少しだけ考えて、幼い頃一番大好きだった童話のタイトルを挙げる。
少し長いお話だったので、本当にイグニスは覚えているのだろうかとも思ったが、心配は杞憂に終わった。
詰まることなくお気に入りの物語を紡いでいくイグニスに、クレアは釣られるように瞼を下ろし――また開く。
目を閉じると、どうしても父の顔を思いだしてしまう。
眠りに落ちそうな気配はあるのだが、目を閉じては開くクレアに気が付き、イグニスは前髪を撫でていた手を瞼の上におろす。
イグニスの手によって出来た影と、淡々とした低い声で語られる物語に、次第にクレアの眠気が誘われた。
瞼から感じるイグニスの体温が、心地よい。
脳裏によみがえる恐怖が、瞼に触れたイグニスの手へと吸い取られていくような気がした。
(カーラが言ってた。男の人は、成長期になると声が低くなるって……)
耳に心地よいイグニスの低い声を聞きながら、クレアはぼんやりと考える。小さな頃から何度も童話を読んでもらったが、イグニスの声音に違和感を覚えたことはない。
ずっと側にいたはずなのに、変わっているはずなのに、変わった気がしない。
(イグニスの手、気持ちいい……)
自分よりも高い体温を持つ手が、再び前髪を撫でつけはじめた。
もう、イグニスが語る物語が聞き取れない。
確かに、何事か言葉を紡いでいる事はわかるのだが、眠りに向かうクレアの思考では、何を言っているのか理解できなかった。
(この手で触られたら、気持ち良かったのかな……?)
カルバンの行為は、クレアの心に恐怖しか刻み込まなかったが。
曖昧な意識で、クレアはカルバンの行為をイグニスに置き換えてみる。
不思議と怖いとは思わなかった。
お話をはじめてから二十分もしないうちに小さな寝息を立てはじめたクレアに、イグニスは髪を撫でていた手を下ろす。
自覚はないようだったが、カルバンの行為にクレアが精神的に参ってしまったのは確かだ。昔のクレアであったら、物語の途中で眠りに落ちることなどなかった。ひとつの物語を読み終わると寝台から起きだして、次の絵本を選んでくるぐらいの子どもだった。
不意に思い立ち、イグニスは上着の隠しにしまったままの包みを取り出す。
数日後の誕生日に渡すつもりではあったが、少しぐらい早くてもいいだろう。イグニス本人がクレアと同じ寝台で眠ることは出来ないが、耳飾り程度であれば問題もない。
イグニスは包みから片方の耳飾りを取り出すと、眠ったクレアを起さないよう、そっと姫君の可憐な耳朶に飾った。
黒髪に映えるよう、特別に注文した耳飾りは、イグニスの目論見どおり、クレアによく似合う。
「……よい夢を」
眠る姫君にはできないが。
そっと手にしたもう片方の耳飾りに唇を落とし、イグニスはそれをクレアの手に握らせる。
成人した今、姫君に対して紛れもなく男である自分は一緒に眠ることはできないが。
せめて耳飾りぐらいは共にありたいと願いを込めた。