小さなキャンバスに筆を走らせる。
絵の題材は、今にも泣き出しそうな顔を引き締め、引きつった微笑を浮かべて椅子に座る少女――妹だ。
妹は今日、遠い外国へと貰われて行く。
幼い頃に両親を亡くしたが、自分達は孤児として孤児院に引き取られた。そのおかげで兄妹離ればなれになる事は避けられたのだが……どちらか一方が貰われていくとなると、話は変わってくる。
孤児院とはけっして裕福な施設ではない。預かる孤児は少ない方が助かるのだ。孤児を引き取りたいと申し出る人物が居るのなら――それも、孤児院に多額の寄進をしてくれる人物ならば――喜んで孤児院は孤児の一人を差し出すだろう。
しかも、妹の引き取り手は彼女を大切に扱うと約束してくれている。働き手として孤児を求めるのではなく、妹はどこか外国の身分ある人に養女として大切に育てられると教えてくれた。成長してサイズの合わなくなった服を年長者から譲られ、それを今度は自分の体のサイズに合わなくなるまで着まわす孤児院での生活よりも、女の子である妹にとっては自分のためにあつらえられた新しい服が用意される……そちらの生活の方が幸せだろう。
(綺麗な服を着るサーシャ、か……)
黒と白を基調とした修道服に身を包む妹を見つめ、白いドレスを纏った姿を想像してみる。清潔なドレスに身を包み、髪に櫛を通した妹の姿は――容易に想像できた。元々妹は下町で孤児達に混ざってに暮らす姿に違和感を覚えるほど器量が良い。両親さえ健在であったなら、修道服になど身を包むことは無かったはずだ。明るい色の服に身を包み、街一番の美少女として人々から愛されていたことだろう。
(……今の僕の力じゃ、サーシャに新しい服なんて買ってあげられないし)
妹に服を買うどころか、妹が兄の絵の具を買うため身を粉にして働くのが現状だ。
今、キャンバスの中の妹の瞳を塗っている絵の具も、サーシャが働いて稼いだお金で贈ってくれた物だ。
「……兄さん?」
瞳の色を塗り終わり、筆を下す。
それを見て、絵が出来上がったのだと妹が椅子から下りてきた。
「……これが、私?」
キャンバスに描かれた自分の姿に、サーシャはほんのりと頬を染める。
これまでも何度か妹をモデルにした事があったが、ひとつの作品として仕上げたのは初めてだった。
澄ました表情で椅子に座るキャンバスの中の少女は、どこか大人びている。
「あれ? でも、目が……青い?」
キャンバスの中の少女の瞳は、青い絵の具で塗った。
が、実際の妹の瞳は緑色だ。若葉の色と同じだと、アローンは毎年春が来るたびに若草で花冠を作り、妹の髪に飾っている。
別に、間違えて塗ってしまったわけではない。
今仕上げた絵は、あえて違う色で瞳を塗ったのだ。
「サーシャの瞳の色は確かに緑色だけど……僕のイメージの中では青空の色なんだ」
「青空?」
「気弱ですぐに俯きそうになる僕を、妹の君がいつも引っ張って顔を上げさせてくれた……。サーシャが居ると、僕の世界は青空でいっぱいになったよ」
だからイメージとして、キャンバスの中の妹には青い瞳を入れた。
遠く離れてしまう妹だったが、彼女が自分にもたらしてくれた物を忘れないように。
多少違う色を混ぜ込んだところで、妹の姿はけっして忘れない。今だって、すぐにでも赤ん坊の頃の姿まで思い出せる。大人の女性となった未来の姿でさえも、容易に想像ができた。
けれど、妹の纏っていた雰囲気は。
声や仕草は……時が経つと忘れてしまう物だ。
だから、せめて妹の持っていた雰囲気ぐらいは絵の中に留めておきたかった。
「サーシャは空。綺麗な青空だ。テンマは……温かな光、かな」
「テンマ……」
別れの日だと言うのに朝から姿を見せない幼馴染に、妹の表情が曇る。
乱暴者で泣かされる事もあったが、妹は幼馴染の少年によく懐いていた。
「どこに行っちゃったんだろう?」
「テンマの事だから、絶対に顔を出してくれるよ」
「……うん」
姿を見せない幼馴染と、これから会ったばかりの大人と遠い外国へ旅立つ不安から妹は肩を落として俯く。
――行きたくない。離れたくないと妹が思っていることはわかった。
けれど、自分にはそれに同調することができない。
離れたくないのも、行かせたくないのも同じだが、妹の幸せを願うのならば――
「……シジフォスさんは、優しそうな人だね」
ある日突然孤児院へと現れ、妹を引き取りたいと言い出した青年の姿を思い出す。
少し思いつめた顔をしていたが、誠実そうな人物だった。信頼できる人間だと、お人好しと言われる自分でなくとも思っただろう。事実、サーシャを自分の妹のように大切にしている親友ですらも、彼が妹を引き取ることを認めた。――内心で面白くないのか、今日は姿を見せないが。
「……兄さん、私、やっぱり……」
「また会える約束は、もうしたよね」
行きたくないと、そう言い出すであろう妹に、腕の花輪を見せて言葉を遮る。
行かせたくないのは、兄である自分も同じ気持ちなのだ。
もしも今、妹に行きたくないと泣かれてしまったら、自分はきっと妹を連れて逃げ出してしまう。
そうすれば、待っているのは今よりも酷く惨めな暮らしだけだ。
子ども二人だけで生きていけるはずはない。二人揃って飢え死にするか、元々生活力のない自分を養うために妹が身を売る未来しか待ってはいない。
そんな暮らしを妹にさせるぐらいならば、少しぐらい寂しかろうとも今を我慢し、妹は信頼の置ける人物に貰われていった方が良い。
そちらの生活の方が、妹にとっては自分と孤児院で暮らすよりも幸せなのだ。
そう信じている。
迎えに来た青年に手を引かれ、俯いた妹の背中が街角に消えて行く。
結局、テンマは姿を見せなかった。
親友は妹との別れを理性では納得したが、本心では納得していない。そのために、自分が馬鹿な真似をしないようにと姿を隠したのかもしれなかった。
馬鹿な真似――自分ですらも、ちらりと考えた。妹を連れて逃げようなどと。
(そんなこと、出来るわけないのに……)
連れて逃げることは簡単だが、その選択には後がない。
妹の幸せを願うのならば、見送る事しか子どもの自分達にはできないのだ。
妹の背中が完全に見えなくなり、代わりのように空を見上げる。
キャンバスの中に閉じ込めた妹の瞳が、そこにはあった。
「僕は、もう少し強くならなくちゃいけないね」
妹が隣に居てくれなくとも、顔を上げていられるように。
いつか大人になった時、今日の選択は正しかったのだと、綺麗な服を着た妹に会いに行けるように。
いつか再び、約束どおり三人で逢えるように。
――今は少し寂しくても。
即興小説 60分指定 お題「綺麗な空」
たまにはアローンとサーシャの兄妹。