【飾紐】

 最初に異変に気がついたのは兄だった。

 訓練の後、汗を流そうと水辺に誘われ衣服を脱ぐ。汗を吸った服は簡単に洗い、その辺の木の枝に干した。そうしておけば、乾燥したギリシアの気候では服はすぐに乾く。少なくとも、水辺で一泳ぎ楽しむ合間には、袖を通すのに抵抗がない程度には水気が抜けているだろう。自分達兄弟の他にも、何人かの候補生が同じように服を干しながら水浴びを楽しんでいた。誰に教えられたわけでもないが、ここは聖闘士候補生達が一時の休息と沐浴を楽しむ場所となっているらしい。
 裸になって汗を流し、そろそろ水から上がろうと後頭部で纏めた髪が含んだ水を絞っていると、兄が面白い形をした白い石を見つけてきた。
 兄曰く、星型――セージから見てみれば、なんとか5つのとんがりが判別できる程度の形ではあったが――の石を使ってゲームをしよう、と。
 遊んでいる暇などあるものか。汗は流したし、そろそろ訓練に戻ろう。
 遊びを提案する兄に、セージはそう提案し返したのだが、兄はそれを黙殺した。
 白い星型の石をひらりと見せ付けるように掲げたかと思うと、今度はそれを水深のある湖の中央へと投げる。
 ――――――ポチャン、と石が湖に落ちる音が響くと同時に、兄は自分に背を向けた。

「あの石を先に見つけた方が勝ちだ!」

 言い終わるより早く泳ぎ始めた兄の行動に瞬いた後、セージは慌てて兄を追いかける。
 兄の持ち出した遊びに乗る気はなかったが、勝ち負けで判断されるとあれば、つい乗ってしまうのは男の性か、双子の兄弟であるからなのか。

 結果、勝者は兄だった。
 息が長く続くのも、丁寧に水底を探すのもセージの方であったが、水底から見事白い星型の石を見つけ出したのは兄の方が早かった。

「おまえは石を探していたから、見つけられなかったんだ。俺には見えたぞ。水底で輝く白い星が、な」

 そう笑いながら兄は自分に勝利をもたらせた白い石に口付ける。
 次の瞬間に、兄が取るであろう行動はセージには判っていた。
 面白い形の石だと拾い上げ、弟にそれを自慢げに見せに来た兄は、もうその石にはなんの興味もないとでも言うように、再び石を湖の中央へと投げ入れる。
 否、投げ捨てた。

「……気に入っていたのではないのですか?」

「気に入ったぞ。星型の石など、珍しいからな」

「では、何故?」

 気に入った石を投げ捨てたのか。
 生まれた瞬間から常に隣にいる兄だったが、未だにその思考が理解できない。

「俺はあの石でもう十分楽しんだからな。……次は別の誰かが楽しめばいい」

 幾分自分よりも厚く筋肉のついた胸を誇らしげにはる兄に、セージは首を傾げる。
 兄の言葉は、時折理解できない。
 もう少し言葉が必要だと催促するため口を開きかけると、今度は兄が首を傾げた。

「セージ、その頭はどうした?」

「……頭、ですか?」

 一体なんのことやら、と兄の指差す方向へと視線を向け――――――当然、自分の後頭部であるために何やら異変のあるようなのだが視界に納めることはできない。
 それでは、と手で後頭部を探れば、自分の手はすべらかに後頭部を撫でて肩まで下りてきた。

「……?」

 気のせいか、と再び後頭部を探る。
 するりと髪を撫でて肩まで下りてくる手に、ゆっくりと思考が追いついた。

「髪紐が……切れた……?」

 いつもは兄と同じように髪を纏めていたのだが。
 今は髪をまとめていたはずの髪紐が無く、長い銀髪が背中に流れている。

「水浴びをする前は、確かにおまえの頭にあったぞ」

「……という事は、石を探している時に…・・・」

 切れて、今頃は水底に沈んでいるのか。
 そう気がついた時、セージは再び水面に顔をつけた。
 
 
 
 
 
 
「……そろそろ諦めんか?」

「兄上は先に聖域へ帰ってください。私はもう少し探します」

 すっかり乾ききった服を纏い水辺で待つ兄に、背を向けたままセージは告げる。
 時刻はすでに夕方に近い。
 もう少しで太陽は完全に沈み、日の光は水底へは届かなくなってしまう。
 そうなってしまえば、髪紐を探すことは不可能になる。
 無くした当日であればなんとか見つかるかもしれない。
 明日になれば、もう見つからないかもしれない。
 そんな埒も無い焦燥感に追われながら、セージは何度も水の中へと身を沈めた。

「セージ」

 苛立ちを僅かに含んだ兄の声音に、セージは捜索の手を止めて振り返る。

「あの髪紐は、母上がジャミールを出る時にくれた物です。形が珍しいからと今日拾ったばかりの兄上の石とは違う。諦めるなんて……」

「俺のをやるから、諦めろ」

 ため息混じりに呟いて、兄は言葉通りに髪紐を解く。
 水から上がって大分経つため、すでに乾いた兄の銀色の髪が風を含んで広がった。

「俺の髪紐も、母が同じ日にくれたものだ。それなら文句あるまい」

 差し出された飾りのついた髪紐と兄の顔とを見比べ、セージは肩を落とす。

「……それは兄上のために母上が持たせたものです。私は受け取れません」

 そう応えてから、セージは水から上がる。
 髪紐の捜索は諦めた。
 兄に髪紐を譲るとまで言われては、引くより他にない。
 自分にとって大切な髪紐は、程度の差こそあれ、兄にとってもまた大切な髪紐であるはずなのだから。
 
 
 
 
 
 
 心中複雑とはこのことか。
 故郷を出る際に母から贈られた髪紐を無くして落ち込むセージは、周囲からは驚くほど好評だった。
 曰く、紛らわしい双子の見分けが容易になった、と。
 セージの方も、最初こそ纏められていない髪を邪魔にも思ったが、慣れてしまえば毎朝櫛で梳くだけで良くなった分楽になったと前向きに捉えるようにもなった。

 そんなある朝。

 枕元に用意しておいた着替えの上に、飾りのついた髪紐が乗っているのをセージは見つけた。
 兄が間違えて自分の服の上に置いたのか? と兄の寝台を覗けば、兄の髪紐はそこにある。
 それではこの髪紐は? とよくよく観察すれば、以前自分が失くしたものとよく似た色合いの――

「……あの水底から、見つけだしてくれたんですか、兄上」

 似た色合いどころか、自分が失くした物とまったく同じ色をした飾り石がセージの手の中で鈍い輝きを放っている。
 兄の髪紐と同じようで微妙に色の違う飾り石は、母が見つけて髪紐に編みこんだものだ。
 紐の部分はさすがに新しい物なのか違う色をしていたが、飾り石だけは以前とまったく同じ物……という事は、兄が髪紐の残骸を見つけ出し、飾り石はそのままに、新たに髪紐を作ってくれたことになる。
 普段は奔放に弟を振り回すくせに、気まぐれのように優しさを見せる兄のこう言う部分を、セージは愛しいと思う。
 水の中に沈んだ失せ物など、探すことは困難を極めただろうに。
 それを誰にも気づかせることなくやってのける兄を、弟としては尊敬せずにはいられない。――――――ただし、普段ののらりくらりとした態度とあまりの奔放っぷりに、つい小言を言ってしまうが。

「ありがとうございます、兄上」

 背を向けて眠る兄にそう礼を言えば、寝息交じりに「フン」と鼻を鳴らす音が聞こえた。
 
 
 
 その後。
 結局は髪を降ろしたままになったセージに、髪紐を見つけ出し修復までした兄が臍を曲げたのはまた別のお話。


戻る