それは想像を絶する光景だった。
何度も嵐の中を航海し、ガガーブでさえも渡った事のある彼だったが、こんな光景は初めてだった。
天にはひっきりなしに稲妻が走り、波頭は彼の船の高いマストよりも遥か上にあった。風はもうどちらから吹いているかさえ定かではない。恐らくは全方向から吹いているのであろう。
「キャプテン!帆がもちません!機関も限界です!」
「こらえろ!何としてもこらえるんだ!」
船の左右に稲妻が落ちた。それを避けるのは、もう勘でしかない。稲妻を見てから舵を切ったのでは遅すぎる。
左右両舷、舳先、船尾。稲妻を避け、波を被らないように船の姿勢を保ち、悲鳴を上げる帆を騙し騙し。この船には機関も積んでいるが、とっくにオーバーヒート気味だ。それでもなんとかプラネトス二世号はその海域にとどまって居た。
「何を考えてるんだ、ラップ」
思わず罵りの言葉が漏れてしまっても仕方があるまい。
「二日後この海域に船を」
それだけの伝言でいなくなってしまった友人。挙句この天候では文句の一つも言いたくなると言うものだ。
もちろんトーマスだって馬鹿ではない。彼の友人が今何をしているかは推測が付くし、だからこそ、その信頼に応えようとこうして危険の最中にとどまっている。だが、
「そりゃ、調べればあんたのやろうとしていることはわかる。だがな、俺はひとっこともあんたからは聞かせてもらっていないんだぜ?」
もって行き場のない怒りに拳を硬い木材に打ちつける。
「キャプテン、上を!」
頭上に赤味がかった閃光が走り、今にも彼の頭上に落ちかかろうとした、その時。
淡い緑を帯びた閃光が船の上に広がった。
「ラップ!」
船の上ほんの僅かなところでその赤い閃光を受けとめた人物は、彼の呼びかけにちらりと顔を下へ向けた。
「おい、ラップ!大丈夫か!?」
恐らくは全力で戦っているであろうに、彼の友人は瞳と口元にかすかな微笑を浮かべ、それから小さく頷いて再び暗雲と稲妻の中へ姿を消した。
「あれがあいつの『本気』か?じゃあ、今までのは一体なんだったんだ?」
思わずトーマスが呟いてしまうほど、その戦いは激しくまた長く続いた。その間、単なる人の身としては、唯々自分の命を守ることに精一杯にならざるを得なかった。
嵐が収まったのはいつのことだったろう?嵐がどれくらい続いていたのか、それすら思い出せない。ほんの数十分のようにも、何日のようにも感じた。
地を揺るがす咆哮のような音とともに赤い光が弾け、それきり静かになった。
「キャプテン・・・」
「どうやら終わったようだ。ラップの奴を回収次第この海域を離れる。索具の点検をしろ。それから帆を張れ。戻るぞ」
トーマスは頭上を仰ぎそこに豆粒ほどの影を認めると、傍らの副長に指示を出した。
「すぐに出発だ。あとは頼む」
トーマスが自室へ戻るのと、並ぶ者なき大魔道士が現れるのとは殆ど同時だった。
「・・・終わったのか?」
「ええ。これであの魔物が人々を困らせる事もないでしょう」
さすがに疲れたのか、ミッシェル・ド・ラップ・ヘブンは幾分よろよろと椅子に腰を下ろした。この船にいる時は彼の定位置となっている大きな背もたれのある揺り椅子だ。
「・・・あんた、俺に言うことはないのか?」
不機嫌なトーマスの声に、ミッシェルは閉じていた目を片方だけあけた。
「時間どおりに来てくださって感謝していますよ」
それだけ言って目を閉じる。
「っ!あんたなあ!」
トーマスは思わず立ち上がって拳を固めるが、それを友人に向かって振るう前に辛うじて自分を押さえた。大きく息を吸って吐き、頭に上った血を下げようと努力する。彼の友人は体力と魔力の限界まで使ってきたに違いないからだ。狭い船室を大股で横切り、トーマスは窓から外を見た。空は先ほどの暗さが嘘のように晴れ渡り、あんなに荒れていた海は今は日の光を受けて煌いている。
「あんた、なぜそんなに俺にだけ酷くする?」
ミッシェルの答えはない。
「あんたはあの連中には優しいじゃないか。アヴィンにもフォルトにも、優しくて物分りの良い友人をしているだろう?説明して納得させて。それがあんたのやり方だろう?」
最後のほうは怒りというよりは溜息。だが、ミッシェルは黙ったままだ。
「なぜ俺を納得させてくれない?そうすれば俺はあんたのために何だってするだろうに・・・今度のように訳もわからないままただ待つのはたまらん。俺はあんたのいい友人のつもりでいるんだがな」
小さく肩を竦めてトーマスは友人を振りかえった。
「・・・ラップ?」
ミッシェルは身動きすらしない。
「おい、ラップ」
近寄っていってそうっと顔を覗き混む。
「ラップ!」
思わず叫び、それからトーマスは踵を返すと甲板への階段を駆け上がった。
船縁へ駆けより、思いっきり息を吸った。それから。
「ラップのばかやろぉぉぉぉぉぉーっ!」
みゃあ、みゃあ
海鳥の鳴く声が虚しい気持ちを一層煽る。
トーマスはぐれていた。どこがどうというのではないが、とにかくぐれていた。
「くそっ、人が散々心配して、少しばかり恥ずかしいのも我慢して抗議したってのに、ラップの奴は、ラップの奴は・・・」
嘆くトーマスの横でプラネトス号の若き副長は困った顔をして笑っていた。そうする以外方法がなかったのだ。
彼のキャプテンが甲板へ駆けあがってきた時には一体何事が起きたのかと思った。それから舷側から大声で怒鳴った時には、回収したばかりのあの魔道士の身に何事か起きたのかと思った。言葉が出ないキャプテンを横目に階段を駆け下り、そこで見たものは・・・。
くーくーと気持ちよさそうに椅子にもたれて眠っているミッシェルだったのだ。要するに、彼のキャプテンは散々心配させられたことに対し、(本人曰く)少々恥ずかしい言葉まで使って抗議し、諭したというのに、かの大魔道士殿は疲れの余り眠りこけていてなにも聞いていなかった、と言う訳だ。
ルカとしては「お気の毒です、キャプテン」としか言いようがなかった。彼のキャプテンの心中も十分慮ることができるが、あの凄まじい戦いの後で少しばかり睡眠をとったからといって、ミッシェルを責めるのも間違いのように思えた。
散々副長のルカにこぼしたあと、トーマスはようやく気を取りなおして船室へ戻ってきた。もう日は海の向こうに落ち、再び暗闇がやってくる。だが、今度の暗闇はあの荒荒しい闇ではない。瞬く星をちりばめた、人の心を優しく包み込む闇だ。
ミッシェルはまだ眠っている。寝台に移してやろうかとも考えたが、下手に手を出して起こしてしまうのも気の毒で、結局身体に毛布をかけてやるに留めた。後々身体が痛いだろうが、それくらいは心配の代償として我慢してもらうことにする。
友人の眠りを妨げないように小さな明かりを灯し、その穏やかな寝顔を眺める。こうして何の警戒も抱かず眠っている姿は、先ほどまでの大魔道士と同一人物とはとても思えない。心持ち口角を上げた口元が笑っているようで、それが男を一層若く見せていた。あの凄まじい戦い。その最中に浮かべた不敵な微笑み。不敵な微笑というのも妙な表現だが、この男に関してはそれが不思議としっくりくる。それは自分に絶対的な自信を持っているものの笑みなのだろう。「自分の力」にではない。「自分に」自信を持つ。それがどんなに大変なことか、そのためにこの男がどれだけの苦労をしてきたのか。全てを推し量ることはできない。だが、その一端を自分は知っている。だから彼が敗れるとは思っていなかった。・・・それでも万が一ということを思ってしまうのは人の常であろう。
「確かにあんたはティラスイール一、いや、この世界一の大魔道士かもしれない。だがな、あんただって怪我もすれば死にもするただの人なんだぞ。あんたのやることにはらはらしている奴がいるんだってことを忘れないでもらいたいぜ、まったくよ」
ぶつぶつと呟いて、トーマスは友人の肩から落ちかかっている毛布を直してやる。
すーすーという気持ちよさげな寝息を聞きながら、トーマスは机に向かった。航海日誌やらなにやら、船長の仕事は山積みだ。ましてここ数日の大騒ぎで日常業務すら滞っている。
カリカリカリカリ。
彼の立てるペンの音だけが静かな船室に響く。時折、ページをめくるパサリという音がそれを乱すが、やがてまたもとのリズムを取り戻す。
きし。
小さなきしむような音にトーマスは日誌から顔を上げた。いつのまにかすーすーという寝息が聞こえなくなっていた。毛布が床に落ちる軽い音が暗闇の中で思いのほか大きく聞こえる。
「起きたか?」
後ろを向かないまま問いかけると、小さな溜息が聞こえた。
「・・・あなたがかけてくれたのですね」
それから立ち上がり、彼の側へ歩いてくる気配がする。
「大分大変だったようだな」
「さすがに長時間の全力での戦いは堪えます。もう若くはないですからね」
幾分笑いを含んだ声は、そんなことなど全く思っていないことを示している。
「今回は私も余力を残す暇がありませんでしたからね。あなたに待機して頂いたのは正解でした」
「そのことだがな・・・」
昼間の怒りを思い出したトーマスだったが、それを吐き出す前に背後の声に打ち消された。
「何の説明もなく呼びたてたのは申し訳なく思っています。ですが今回はその時間がありませんでした」
先に謝られてしまうとそれ以上は文句も言えない。不機嫌そうに黙ってしまったトーマスにミッシェルの微笑む気配がする。
「負ける戦いをするほど愚かではないつもりですが、さすがの私もあの戦いの後自力で戻れるかは自信がありませんでしたのでね」
魔道士を倒すのに一番いいのは、相手が戦いに疲れ魔力体力ともに消耗している時だ。そんな時にこの友人を一人で放り出しておく危険性はトーマスもよく承知している。だからこそ無理を押して船を走らせてきた。
「それに」
背後の声が再び楽しそうな色を含んだ。
「アヴィンさんやフォルト君は私にとっては守ってあげたい対象なのですよ。そうですね・・・弟みたいな。弟に守って欲しいなんて言えないでしょう?私があなたに期待しているのはそういうものではありませんから」
トーマスがゆっくり振りかえった。
「・・・あんた、寝てたんじゃなかったのか?・・・」
彼の声が地を這うようになったとしても無理はあるまい。
「寝ていましたよ、半分ね。だから聞こえても返事はできなかったと・・・うわっ」
ミッシェルが全てを言い終える前に、トーマスの体重をかけた体当たりがミッシェルを襲った。
「ト、トーマス!病み上がりの人間に何をするんです!?」
「誰が病み上がりだ、誰が」
「私です」
「心配するな、この船には薬も常備してある。しばらく寝台に括りつけられれば嫌でも回復する」
見事に四の字固めを決めながらトーマスが笑った。その笑い声がだんだん大きくなる。
「俺はあんたが何をしようと文句も意見も言わないつもりだがな、説明だけはしろ。でないと・・・」
トーマスは逞しい腕に力をこめた。
「わかりましたから」
ミッシェルがバンバン床を叩き、トーマスの笑い声がますます大きくなった。
ぱらぱら。
天井から埃が降ってきて、船乗りにしては幾分繊細な手が、慌ててその落下位置から湯呑を取り上げる。
「ミッシェルさんが床を壊さないうちにキャプテンを止めないといけないかな」
天井を見上げながら少し首を傾けたルカだったが。
「ま、いいか」
小さく呟くと湯呑のお茶を上手そうにすすった。
頭上の音は当分止みそうにない。