ルカ副長。まだ若いが優秀な機関士であり、プラネトスII世号の機関長兼副長でもある。プラネトスII世号が海賊王ラモンの黒竜号に勝るとも劣らない性能を誇り、知る人ぞ知る例の事件で、異界などと言うところまで無事にいって来れたのも、一重に彼の才能とプラネトスII世号へ注ぐ愛があればこそであった。
 こと機械に関しては知らない事、悩み事、困る事など全くないと思われる彼であったが、今日の彼は大いに頭を痛めていた。彼の日常においてこの船と同じくらい大きな比重を占めている、この船のキャプテンに関してである。
 彼のキャプテンは、腕は立つし操船の技術もピカ一、さっぱりとした気性で上司として仰ぐには真に得がたい人物であるのだが、唯一の難点は自分の事に無頓着であること。あ、それから意外と頑固であること。今日も今日とて・・・。
 ルカとしては言えることは皆言ったし、懇願もしてみた。だが、彼のキャプテンときたら「大丈夫」の一点張り。大丈夫じゃなさそうだから言っているというのに。しかたがない。蛇の道はへび(ちと違う)。こんな時の最後の手段、あの人に頼むしかあるまい。

 ルカ副長がミッシェル・ド・ラップ・ヘブンの船室を訪問したのはその日の午後。
 「おや、珍しいですね。何かご用ですか?」
極めて丁寧な言葉使いと人当たりの良い笑顔でルカを迎え入れてくれた魔術師は、彼のキャプテンとは長年の友人である。「腐れ縁」とか「利害の一致」とか本人達は言っているが、なんだかんだと言っても信頼しあっているのは周知の事実。いまはここにいないキャプテンの想い人を除けば、あのキャプテンにいうことを聞かせられる人はこの人しかいるまい。
 「実は、ミッシェルさんにお願いが・・・。」
かくかくしかじか。
「なるほど。それでトーマスは今朝からだるそうにしていた訳ですね。」
「ええ、昨晩甲板で作業中に急な雨に降られたのがいけなかったようで、キャプテン以外にも何人か体調を崩したものがいます。幸い今日は天候も穏やかですので、その連中には今日は一日休むようにとキャプテンが言ってくれたのですが・・・。」
「トーマス自身は、雨に降られて風邪をひいたにも関わらず、今日も甲板に出ている、と。」
「そうなんです。『俺は大丈夫だ』って言って。でも全然大丈夫じゃないんですよ。あれはきっと熱が出ています。」
「・・・まったく、困ったものですね。普段丈夫な人間は、風邪をひいて熱を出したことにも気付かないのでしょうか。」
穏やかな顔をしながら、魔術師のお言葉はなかなか辛辣だ。それってひょっとして・・・「鈍い」と言いたいのだろうか?
「と、とにかくですね、キャプテンに倒れられては船の皆も困りますし、今回はフォルトさんやウーナさんといったお客さまもいますから、ひどくならないうちに直してもらわないと。それに・・・。」
「アイーダさんに怒られてしまいますね。」
「ええ。・・・お願いできますか?」
「判りました。私から言ってみましょう。」
「助かります。」
ルカはようやくほっと胸を撫で下ろした。あとはミッシェルさんのお手並み拝見。

 ミッシェルが甲板へ出ていくと、若い副長が言っていたとおり、トーマスは甲板で部下たちに作業の指示を出していた。その顔が心持ち赤いような気がするし、身体の動きもいつもの切れがない。やはり熱を出しているのだろう。
「トーマス。こんなところで何をしているんですか。」
些か皮肉交じりの声をかけると、彼の友人は嫌そうに振り向いた。
「・・・あんたもか?」
「何がです?」
「いや、さっきからな、皆が休め休めってうるさいんだ。ルカから始まって、フォルトにウーナ。船の連中にもそれとなく。いい加減うんざりだ。」
「言うことを聞いて休まないあなたが悪いのではないですか?」
「だ・か・ら。俺は大丈夫だって言ってるんだ。」
ルカの言うとおり、これは一筋縄ではいきそうにない。作戦変更。
 「ほー。」
ミッシェルは殊更飽きれたような声を出す。
「・・・なんだよ、その反応は。」
「『大丈夫』ですか。風邪を甘く見ると怖いですよ。」
トーマスが目を眇めた。
「何が?」
「そもそも『風邪』というのは正式な病気の名前ではないのです。薄着をしたりして身体が冷えたりした後で、くしゃみやせき、鼻水が出たり、喉が痛くなったりする症状を総称して言いますが、原因や症状は実に様々です。頭痛や発熱・腹痛などを伴ったりもしますね。空気中に漂っている病気のもとが、鼻や口から入ってなるわけですが、なぜ漂っているかと言えば、それは風邪をひいた人が咳をしたり話をすることによって・・・。」
「わ、わかった、ラップ。そんな風邪の講義をしてくれなくても・・・」
「いいえ、判っていません。ほら、風邪は万病の元と言うでしょう?大抵の風邪は栄養と睡眠をとって大人しく寝ていれば、一日二日で直ります。」
「ラップ。」
「ですが、無理をしてこじらせると、肺炎を引き起こして、体力がない子供や老人などが死亡することもあるのですよ。」
「ラップ!」
「それに、えーと、たしか、風邪の菌が脳に入って・・・などと言う話も聞いたことがあったような・・・」
「ラップ!」
「なんです、トーマス?」
ようやく話すのをやめた友人に、トーマスは風邪のせいばかりでなく、ぜえぜえしながら答える。
「風邪の怖さは判ったけどな、俺にはやらなければならない仕事がだな・・・。」
「・・・まだ判らないようですね・・・。」
にこにこしながら話していた魔術師は、その笑顔を顔に貼りつけたまま、言う。笑っているのになぜか怖い。
「風邪は怖いんですよ。若くて元気だからと言って甘く見てはいけません。」
「だからそれは・・・」
まだ抵抗するトーマスに魔術師は最後の切り札をだした。
「そんな怖いものをアイーダさんにうつすつもりですか?」
 トーマスは何か言いたげに口をぱくぱくしたが、やがて諦めたように言った。
「わかった。船室に戻って大人しく寝てればいいんだな。」
俯き加減で言うトーマスに、ミッシェルは今度は本当の微笑で答える。
「アイーダさんと過ごす時間を少しでも長く取るために、仕事を早く片付けてしまいたいのは良くわかります。でも、それで無理をして寝こんでしまったら何にもなりません。」
そう言いながら、ミッシェルはちらりと横目で階段の陰を盗み見た。案の定、ルカをはじめ何人かが首尾はどうかと窺っていたが、今のトーマスの言葉を聞いていたらしく、驚いたような顔をしていた。ミッシェルが見ているのに気がつくと小さく手を振る。それに答えるべく、魔術師も合図を返す。手を振ってはいくら何でもトーマスにばれるので、変わりにウインクを一つ。
「(まあ、こんなものです。)」
 トーマスはようやく諦めたらしく、部下に声をかけると船室に向かって歩き出す。
「いいですか。大人しく寝ていてください。」
ミッシェルが念を押すと、ちらりと視線を上げて何事か呟く。
「・・ラップの奴、小姑みたいだよな・・・」
恐らく聞こえないと思ったのだろう。だが、それは風に乗ってしっかりと魔術師のもとへ届いてしまった。
「トーマス!」
風邪でふらふらしているはずの男は、その剣幕に慌てて船室への階段を駆け下りていった。