かすかな月明かりの下、花びらがはらはらと舞い落ちる。本来なら淡い桃色の筈なのに、なぜかこの木だけは真っ白な花が咲くのだった。音もなく舞い落ちる白い花びらはまるで雪のようで、それが見てもいない光景を彼の脳裏に蘇らせた。
白い雪
すれ違う二人
雪の上に崩れ落ちる影
駆け寄る男
彼は拳を硬く握り締めた。わかっていた事。自分にはどうする事もできなかった事。それでもやりきれない思いが残る。
桜の木の下、彼は、かつてオルテガと呼ばれた男は、舞散る花びらに一人の娘を思い浮かべていた。
一人の剣士が彼のもとを訪れたのは昼間のことだった。かつて自分に教えを請いに来た事もあるその男は、悲痛な表情で語った。
「それが娘の残した唯一つのものです。」
男が置いた一本の杖、それを信じられない思いで手に取る。そこには彼女の想いが込められていた。そう、肉体は滅びても彼女の魂はここにある。
最初に彼女に会ったのは何年前になるだろうか。一刻の猶予もならない危機の最中、一人の音楽家が残した手がかりを手繰ってたどり着いた場所。常に夜の帳が下りたその世界の、結界に守られたそこに彼女はいた。彼らが連れてきた犬と戯れる姿は年相応で、とてもほほえましかった。犬を見たのははじめてだろうか。どこの世界でも子供は変わらないな、そう思ったものだ。だが「心配してくれてありがとう。」と言ったそのどこか悟りきったような瞳が気になった。「また会えるといいですね。」思わず言って、本当は「また会いに来ます。」と言いたかったのだと気づいた。
最後に彼女に会ったのは彼女が常夜の世界を離れる前。幼かった少女は一人の娘に成長していた。
「それが私にできる唯一のことですから・・・。」
そう言って寂しげに笑った彼女。こうならなければいいと祈り続け、自分の同朋が下す決断を見守ってきた彼女。だが、彼女の同朋は彼女の願いとは別の道を歩んだ。
自分は何もできなかった。「いずれ異界の人々と戦うことになったときのために」その準備は十分してきたつもりだ。その闘いでどういう結果が出るにしろ、悔いを残さないための準備。だが、彼女の苦しみを和らげてやるためには自分は無力だった。慰めも、力付けも彼女には役に立たない。なぜなら彼女は自分の行く末を知ってしまっているから。使命半ばでその短い生を終えることを。
「あなたが犠牲になる必要があるのですか?」
思わず強い口調で言ってしまった。
「犠牲ではありません。おわかりでしょう?」
彼女の想いを引き継いでくれる者がいるなら、二つの世界が共に救われるのなら、それは犠牲ではない。彼女の愛する二つの世界、自分はその世界とひとつになるのだから。そう言った優しい娘。
彼女がこの杖に祈りを込めたのなら、自分はその祈りの成就に力を貸そう。老いた身ではもはや自らが戦うことはできないだろう。だが、次の世代へ彼女の残した希望を伝えることはできる。それが自分の使命。彼女のためにしてやれる唯一の事。たとえそのために自分の力を使い切る事になろうとも。
月明かりの下一陣の風が花を弄ぶと、白い花びらは吹雪のように舞い上がり、彼の周りをひらひらと舞い落ちた。一度きりの風であっけなく散ってしまう花。だが、それは見るものに強い感動を与えずにはおかない、あの白い娘のように。