原因はとても些細な事だった。

 それはエネドの港。砂漠の町オースタンから必死の思いで追いかけてきたヌメロスの軍。だが、奴等の軍艦はカプリとアリアとそして闇の太陽を乗せて彼らの目の前を出港していった。木人兵という置き土産を残して。
 埠頭で囲まれた彼ら。「戦略的撤退を」というフロード。次から次へと湧き出る木人兵に「これは海へ逃げるしかないか」と覚悟を決めた彼らを救ったのは、救世主のように現れた伝説の白い船「プラネトス2世号」だった。

 「フロードさんがあのキャプテン・トーマスだったとはねえ。」
はしゃぐフォルトたち。だが、「キャプテン・トーマス」を知らないアイーダにはそんなことは関係ない。アイーダにとって彼は旅の途中砂漠の町で知り合った「フロード」。陽気で、バザールの人気者で、腕が立って、・・・信頼できる仲間。「フロード」でも「トーマス」でも名前なんか何でもかまわない。

 フォルトもウーナも知らなかったが、「プラネトス2世号」に乗ってすぐ、アイーダは床に崩れ落ちた。それは灼熱の砂漠を旅した疲れと、木人兵と戦った時の怪我と、一先ず船に落ち着いた気のゆるみと。だが、なによりカプリを奪われた事の心労が大きかった。
 床に崩れたアイーダを見つけたのはトーマス。甲板から降りた通路でぐったりとしているのを抱え上げ船室へ運んだのだった。
「大丈夫。ちょっと気が抜けちゃっただけ。ちょっと休めば直るからフォルトやウーナには内緒ね。」
そう言って譲らない勝ち気な少女に、仕方なしに自分の部屋を提供する。着替えの間外で待ち、戻って来て少女の脱いだ上着に血の跡を見つける。
「だってあたしも気が付かなかったもの。」
それが少女の言い訳だった。その様があまりにも能天気に思えて、言いようのない怒りが込み上げる。
彼女が倒れているのを見た時、自分がどんな気持ちだったと思っているのか。
「俺に『無茶をするな』と言った奴の行動とは思えないな。」
目一杯の嫌味を込めて言ってみる。
「そんなこと言ったってしようがないじゃない。戦っている最中に怪我なんて気にしてられないもの。それにカプリのほうが大事だったんだから。」
アイーダの声にも刺が混じる。
そりゃそうだろうとも。自分の体よりもカプリが大事なんだろ。俺がどんなに心配しているかなんて、これっぽっちも気が付いちゃいない。

 それは売り言葉に買い言葉。19も年下の少女に何をムキなったのか。いつもだったら笑って「気をつけろよ」とでも言って御終いにする筈なのに、よりによってカプリを引き合いに出してしまった。彼女が自分のパペットたちをどんなに大事にしているか判っていた筈なのに。
 アイーダはキッと彼を睨むと何かを言いかけたが、突然立ち上がると上着も置いたまま、すたすたと部屋から出ていってしまった。
 一人残されたトーマスはため息を吐いてベッドに腰掛ける。それはさっきまでアイーダが座っていた場所。
 自分はいつもそうだ。今は別行動をしている友人の時も。トーマスと彼が喧嘩をする事は滅多にないけれど、喧嘩をした時の原因はいつも同じ。どちらかが相手を気遣って、もう一方が心配させまいと無理をして、挙げ句に相手を心配の余り怒らせてしまうのだ。同じ事をアイーダともしてしまった。なにをやっているのか、自分でもそうは思うのだが、自分はこの手の事に関しては学習というものを知らないらしい。そう思ってトーマスは一人苦笑する。

 アイーダはどこへ行ったのだろう。もうすぐ辺りは暗くなり甲板には冷たい夜風が吹くというのに、上着も着ないで。それに傷は治療したとは言うものの、かなりの出血をしていたはず。貧血でも起こして倒れなければいいのだが。
 捜しに行こうかと何度も立ち上がる。だが、彼の意地が再び彼を座らせる。何で俺がアイーダに振り回されなきゃならないんだ。しょせん旅の途中で知り合ったもの同士。この旅が終われば再び別々の人生を歩くというのに。
 部屋の中でただじっと彼女が帰ってくるのを待つ。だが、日が沈んで辺りが暗くなっても帰ってくる様子はない。もしかしたら自分の船室に戻っているのか、そう思ってさりげなく階下に降りてみても、そこには捜す相手はいなかった。狭い船内では行くところも限られる。じきに夕食の時間。今夜は久しぶりにみんなで束の間の休息を楽しめると思ったのに。
 そう思うと一人で待っている自分が馬鹿らしく思えてきた。さっさとあの少女を探しにいこう。そして「言いすぎて悪かった」と謝ってしまおう。そうすれば少女は笑って「心配かけてごめん」とちょっと困ったように笑い、それから一緒に夕食をとってくれるに違いない。

 トーマスは椅子に掛けた上着を羽織り、それから少女の上着を手に持つと階段を昇っていった。入り口の扉を開け、夜気の冷たい甲板へ出る。だが、舳先にも後甲板にも彼女の姿は見当たらない。
 船室から下甲板、機関室までくまなく回ってみたが目指す姿は見つからない。行き違いになったかと彼女の船室に戻ってみてもその姿は見えなかった。
 一体どこへ行ったのか。少女の姿を探しながら暗い甲板を歩く。なんだか探して回っている自分が馬鹿みたいだ。それでも船室へ戻って食事をする気にはなれない。あ、なんかまた怒りがふつふつと湧いてきた。木人兵と戦って苦労して、夜気は冷たいし、腹も空いてきたというのになんでこんな思いをしなければならないのか。そう思っておかしくなった。怒っているはずなのに何故か笑いたくなる。この自分が怒らせてしまった相手を探して謝るためにうろうろしているなんて、少し前だったら考えられなかった事だ。自分はあの少女の事を好きなんだろうか。少なくとも気に入っている事は確かだな。

 もうこれでこの船を二周してしまった。いったい彼女はどこへ行ったんだろう。甲板、船室、機関室。他に行きそうなところと言えば・・・。まさか、な。
 再びきびすを返し、甲板に上がる。何本もの支索が張り巡らされたメインマスト。見上げる彼の目に風にはためくオレンジの服。怪我をした腕であそこに昇るとはね。いやはや、勇ましいというかなんというか。
 昇っていっても良かったのだが、彼は彼女が降りてくるのを待つ事にする。夜風の冷たい中、マストの見える壁に寄りかかって人を待つ。こうなったら朝までだって待ってやる。そして降りてきたらせめてもの嫌味を言ってやろう。
 「なにをしてるんです、キャプテン」
見張り番の船員が怪訝そうに声を掛ける。
「ちょっとな。気にせずちゃんと仕事をしろ。」
「アイ・アイ・サー。・・・こんなところで風邪をひかないでくださいよ。」
「いい男は風邪をひかないっていうだろうが。」
「そんなの聞いた事もありませんよ。」
船員との軽口も、人待ちの暇つぶしにはなる。
 そんな彼らの会話が聞こえているのかいないのか。アイーダはなかなか降りてこなかった。あんな寒いところで風邪をひくんじゃないだろうか。上で気を失っていたりしないだろうか。さすがに心配になって昇ってみようかと思い始めた頃、横静索がきしきしと音を立て、小さな人影が降りてくる。
「・・・ごめんねカプリ。きっと連れ戻してあげるから。」
小さな呟きが風に乗って聞こえてくる。
 トーマスはそのままその場で待っていた。彼女はいつ自分に気が付くだろうか。影は近づき、やがて立ち止まる。
「トーマス、こんなところでどうしたの。」
驚きと、呆れと、決まりの悪さと。いろいろな感情が混じり合った声。
「アイーダを待っていたに決まってるだろ。」
それからじっとアイーダの目を見詰める。
「さっきは悪かった。カプリの事をあんなふうに言ったりして。」
「ううん、あたしも悪かったの。トーマスは心配してくれたのに。」
しばらく黙ってまた続ける。
「あのままあそこにいたら言ってはいけないような事まで言ってしまいそうだったから。」
「それで、マストに登ったのか?その腕で?」
「・・・ここから『トーマスのばかー』って叫んだら気が晴れるかと思って。」
その声が小さくなっていく。
「で、叫んでみたのか?」
「ううん。でも今まで覚えた罵詈雑言を全部言ったらすっきりしたの。○○○とか、ね。」
さすがに呆気に取られる。よくそんな言葉知ってたな・・・。
「あたしだってそれくらい知ってるわよ。温室育ちじゃないんだから。」
「いや、ただ言っているところが想像できないから・・・。」
「・・・想像しないでいいわよ。」
「ごめん。」
二人して沈黙し、それから吹き出す。
「まったく何をしているんだろうな。・・・許してくれるかい?」
「もちろん。」
「じゃあ、さっさと戻って食事にしようぜ。さすがに腹が空いた。みんなはもう食い終わったかな。」
「もしかして、食事もしないで待っていたの?この寒さの中を?」
「一人で食べても美味くないだろうが。それより上着も着ずに寒くなかったのか。」
そう言いながら持ってきた上着を差し出す。だがアイーダはそれをトーマスの肩に掛けた。
「あたしは平気よ。寒さには結構強いの。その代わり砂漠みたいに暑いのは苦手なんだけど。トーマスこそ、こんな中に立っていたら風邪をひいちゃうじゃない。あたしのことを怒る前に自分の体の心配をしてよね。・・・あ、もう喧嘩は無しね。」
慌てて両手を挙げて降参の仕種をしてみせる少女に思わず笑う。
「さて、戻ろう。明日の朝も寒そうだ。」
そう言ってトーマスは夜空を振り仰いだ。

 「早く部屋に戻ろう、トーマス。あたし、もうおなかペコペコ。」
凍てつく空には満天の星。
「なあ、アイーダ。」
「なあに?」
「俺、結構お前の事好きかもしれない。」
「んふ。実は知ってた。」
たまにはこんな夜もいい。