「お前なあ、いくらなんだって限度があるだろうが。」
トーマスが呆れた声で言う。
「ごめんなさい。だって珍しくって・・・。」
アイーダの声が小さくなる。
船は今、陸地から遠く離れたところを進んでいる。この辺りまでくると海は魚たちの天国だ。きらきらと背鰭を輝かせた魚が水面から飛び跳ねては潜っていき、船の舳先にはイルカたちが戯れる。イルカたちは舳先のすぐ前を掠めては水面高く跳びあがり、まるで船に挨拶をしているようだ。かと思うとその尾びれを上手に使って海面から顔を出す。かわいらしい小さな目が「なに?なに?」と好奇心を覗かせているようにさえ見えてしまう。平穏な海の上で、それは船乗り達にとっての密かな楽しみ。
アイーダは船でこんなところまで来たのは初めてだった。もちろん魚たちの楽園を垣間見るのも初めてのこと。
「あれ何?魚じゃないみたいだけど、人・・・じゃないよね。」
彼女の指差したのはイルカ。初めて見る生き物の感想に皆が笑いを押さえきれない。
「あれは魚よりは私達に近いのですよ。」
ミッシェルが説明してやると、目を輝かせて見入っている。見入っていたのはフォルトもウーナも同じだったのだが・・・。
アイーダはそれからずっと舳先から海を見ていた。魚が寄ってくると餌をやり、イルカが戯れていれば手をたたいて喜ぶ。
「アイーダ、そんなに身を乗り出して舳先から落ちるなよ。」
「昼飯はどうするんだ?」
トーマスの言葉にもアイーダは上の空である。
「だいじょうぶ。」
「んー、ここで食べる。」
答えながらも視線は海の上からはずさない。
「やれやれ、イルカにアイーダをとられちゃったよ。」
食事のトレイを運びながら、トーマスがそう言って苦笑する。
「アイーダがあんなに魚が好きだとはしらなかったなぁ。」
「でもイルカって可愛いと思わない、フォルちゃん?」
「・・・やっぱり女の子ってわかんないや。」
フォルトとウーナが船室に入ってきた。
「なんだ、フォルトたちだけ戻ってきたのか?」
「ちょっと寒くなっちゃったから。」
「舳先って意外と寒いのねぇ。風が冷たかったの。」
「アイーダは?」
「まだ見てる・・・。」
トーマスは軽く舌打ちをすると、上着を掴んで部屋を出た。
「トーマスどうしたんだろう?」
「潮風と言うのは意外と体を冷やすのですよ。アイーダさんが心配で見に行ったのではないですか?彼はあれで意外と心配性ですから。」
ミッシェルは視線を甲板を望む窓の外へと向けた。
「アイーダのことだけ、なのよね。きっと。」
ウーナの声は少しだけうらやましそうだ。
「夕方は風が冷たいぞ。風邪を引くなよ。」
声と共にバサリと頭の上に降ってくるものがある。それはトーマスの上着。
「大丈夫よ。あたし寒さには強いから。」
「・・・潮風を甘く見るな。」
「トーマスったら心配性。平気よ、あたし丈夫なだけがとりえだもん。」
「それはわかっているが。」
「あ、ひっどーい。他にはとりえがないって言うの?」
「自分がそう言ったんだろうが。」
「否定してくれたっていいじゃない。」
「・・・俺にどうしろってんだ。」
思わず空を仰いだトーマスに、アイーダは笑う。こんな会話も二人には甘いひととき。
「冗談じゃなくてだな、海の風は意外とからだを冷やすんだ。もう部屋に戻れ。」
その声に心配する気色を感じてアイーダも頷いた。
「ん、わかった。エル・フィルディンについても風邪ひいて寝てました、じゃ困るものね。」
ようやく動く気になったアイーダにトーマスがほっとため息をついた。いつのまにか水面は夕焼けに赤く染まっている。
だが、それは少々遅きに逸したと言えよう。
その晩遅くアイーダは熱を出した。夕食のとき顔が赤いなと思ってはいたのだが、皆で食事の後の会話を楽しんだ後、二人で部屋に戻るとふらふらと椅子に座り込んでしまったのだ。
「風邪ひいたか?」
トーマスが額に手を当てようとすると、「なんでもない。」といって逃げ回る。
「何でもないなら額に触ったっていいだろうが。」
「イ・ヤ。」
「・・・なんで。」
「トーマスの手、冷たい。」
「嘘つけ。俺は体温が高いんだ。」
「でも、イヤ。」
このワガママ。そう言うとトーマスはアイーダの手を掴んで引き寄せ額と額をくっつけた。
「やっぱり熱があるじゃないか。まったく。いくらイルカが珍しいったって見てるのにも限度があるぞ。ほれ、さっさとベッドに入る。んー、ラップの奴を呼んでくるか?」
トーマスは怒ったような口調で話しながら、アイーダを急き立ててベッドに寝かしつける。だが結局ミッシェルを呼んでくることだけはやめた。
「もう遅いし、寝てれば直るから。明日の朝になっても熱が下がらなかったら、ミッシェルさんにお願いするから。」
そう言ってアイーダが強硬に反対したのだ。怪我や大病を治すことはよくても、風邪を白魔法で治すのは抵抗があるらしい。そんな些細なことで魔術師の手を煩わせてはいけないと思っているようだ。
ラップの奴だったらむしろ喜ぶと思うけどな。「いつもむさくるしい男ばかり治療するのでは楽しくありません。」彼の相棒はいつだかそんなことを言っていたから。
「ほれ、薬飲んでさっさと寝ろ。灯りは消したほうがいいな。」
「・・・トーマスは?」
「俺はまだすることがある。海図室にでも行ってやるから、気にしなくていいぞ。」
トーマスは、まだまだ減らない書類の束を持って出て行こうとする。
「行っちゃうの?」
そう言ったアイーダの声は、熱で気弱になっているのかいつになく小さい。
「どうした?ん?俺がいないと寝れないか?」
トーマスの声も自然優しくなる。
「そんなことないわよ。」
強がりも口調の弱さに威力が半減している。
「じゃあ、大丈夫だな。この束だけ片付けたら戻ってくるから。」
それから彼はちょっと考えると付け加えた。
「安心して眠れるおまじないをしてやろう。」
それから彼は、手でアイーダの前髪をかきあげ、その額にそっとキスをした。
「な、これで大丈夫だろう?」
アイーダは真っ赤になった顔を布団に隠しながらも一言付け加えるのを忘れなかった。
「おまじないの効力は1時間よ。」
トーマスは笑って「わかった」と手を振ると部屋を出ていった。