「アイーダ、アイーダ」
「ここよ、おじいちゃん」
今朝になって何度この言葉が繰り返されたことか。アイーダはそっとため息を吐いた。まったく、おじいちゃんったら。別に今生の別れじゃないって言うのに大騒ぎして。そんなに心配なら自分も一緒に来ればいいのに、「絶対に行かん」だなんて、頑固なんだから。
だが、そうは思っても祖父に面と向かっては言わない。自分には良く分からないが、娘を(この場合孫娘だが)嫁に出す父親と言うのはそういうものらしいから。
アイーダは迎えが来るまでまだ少し時間があるのを確認すると、すでに何度もやっている作業を繰り返した。鞄を開けて持って行く物を確かめる。わずかな衣類と道具。そして・・・ペドロ。カプリは祖父のためにこの工房に置いて行くことにした。それは身を切られるように辛いことではあったけれど、祖父のもとに置いておくことでお互いが身近に感じられるような気がしたから。
あの二年前の日々が嘘のようだ。共鳴石を探して旅をしていたマクベイン、フォルトやウーナ一行に出会ったことがすべての始まりだった。木人兵の強化のためにヌメロスの奴等がおじいちゃんを誘拐して、カプリが奪われて・・・。つらく厳しい旅だった。もう二度と生きておじいちゃんの顔を見れないかも、口に出したことこそなかったけれど、そう覚悟したことも一度や二度ではなかった。だが、終わってみればすべて懐かしい思い出。闇の太陽も無事消滅し、異界の人々のことが気になるとはいえ、とりあえずは平和な日々。そしてあの旅で得たもの。多くの友人、それから……。
「アイーダ、アイーダ」
アイーダは物思いから我に返ると、ため息を吐いて階段を上って行く。まったく、おじいちゃんたら。
階段を上りきって初めて、部屋にロゼット以外の人物がいることに気づく。戸口を背にしたその姿は逆光となって顔が見えない。だが、そのすらりとした姿と長い髪、いや、そんなものがなくたって見間違えるはずはない。
「元気だったか、アイーダ?迎えに来たぜ。」
トーマスは満面の笑顔でアイーダに向けて両腕を伸ばした。
ミッシェルは数ヶ月前のことを思い出していた。
その日、トーマスは何か言いたげな素振りを見せては止めるという仕種を朝から繰り返していた。何事も即断即決、というトーマスにしては非常に珍しい。ミッシェルはそんなトーマスに気づいていたが、あえて知らん振りをする。ついでに言えば、彼が何を言い出そうとしているのかまで予想がついていた。トーマスは数日前に上陸してアイーダに会いに行っており、昨日船に戻ってきたところなのだ。よほど鈍いものでない限り想像が付くというものだろう。
午後になってミッシェルのもとにルカがやってきた。真面目でしっかり者のトーマスの副長も、今は困った顔で真剣に訴える。
「お願いです、ミッシェルさん。キャプテンの話を聞いてやって下さい。このままでは仕事にならないんです。あっちへうろうろ、こっちへうろうろしては船員達の手伝いをしようとして、挙げ句結局邪魔をしているんですから。上の空で作業されては気がきではありません。」
ルカの手は心臓の上に当てられている。かわいそうに、その若さで既に苦労性の心配性とは。日ごろからトーマスに同じ目に合わされているミッシェルとしては、同類がいることに慰めを見出す。……なんとも情けないことではあるが。
「仕事のことなら別に放っておくんですけど、きっとアイーダさんのことだと思いますから、ミッシェルさんじゃないと。」
なんとかミッシェルの協力を得ようと、ルカは言葉を継いだ。
「おや、独身の私にトーマスが女性のことで相談などすると思うのですか?」
とぼけてみせるミッシェルにルカが恨みがましい目を向ける。
「ミッシェルさん……。」
ミッシェルは小さく笑うと頷いた。
「放っておくとトーマスはずっと檻の中の熊よろしくうろうろするでしょうからね。こちらから聞いてみましょう。…ああ、きっとこの後は忙しくなりますよ。トーマスが船を下りるとは思えませんから、船室も一つ用意しなくてはならないでしょうし、ヴェルトルーナにも行かなきゃいけなくなるでしょうね。」
「今のうちに船の整備をしておかなければいけませんね。ペンキも塗り直しておいたほうがいいかな。ああ、やることが一杯ある!あ、では、ミッシェルさんキャプテンのことお願いしますね。」
ルカは笑顔で甲板へ駆けて行った。
ルカの背中を見送ったミッシェルは、船長室のドアをノックする。
「トーマス?入りますよ。」
彼の友人は不機嫌そうな顔で椅子によりかかっていた。
「何だ?」
だが、その不機嫌さは照れ隠しのポーズだということを付き合いの長い彼は知っている。
「いえ、あなたのほうが私に用が有りそうでしたので。」
「おまえなぁ、わかっているんだったらもっと早く来いよな。」
「そんなことを言うのでしたら帰りますよ?」
立場の弱いトーマスが折れる。
「わかった、俺が悪かったよ。」
トーマスは椅子に座り直すと、机の上に両肘をつき、手の甲に顎をのせた。しばらく逡巡するように視線を宙に漂わせていたが、やがてその視線をしっかりとミッシェルに据えた。
「アイーダと結婚しようと思う。」
ミッシェルはにっこり笑った。彼が何かを言う前に、トーマスが慌てて語を足す。
「アイーダも承知してくれた。あと数ヶ月でアイーダの17歳の誕生日だが、その日の朝迎えに行く。」
一気にそこまで言うと、トーマスの頬にかすかに赤味が差す。
「よかったですね。あなたたちならいい夫婦になりますよ。おめでとう。」
「正直言うとな、直前まで迷ってたんだ。なにしろ年が違いすぎるからな。でもアイーダが『そんなことあたしたちが結婚するのと何の関係があるの?』って。女は強いよな。」
苦笑しながらもトーマスは嬉しそうだ。
「では、フォルトくんたちやアヴィンさんたちにも知らせないといけないですね。あ、アイーダさんはこの船に乗ることになるのですか?」
「そのことだがな、ラップ。」
何気ないミッシェルの質問にトーマスが表情を引き締めた。
「その、アイーダはこの船に乗ると言っているんだが、あいつのじいさんはヴェルトルーナにいて、もう年だし…、だからあまりヴェルトルーナを離れられないと思うんだ。俺はエル・フィルディンには未練はないから別にいいんだが、なかなかあんたに会いにティラスイールに行けなくなるかもしれない。…俺がアイーダと結婚することで、あんたが、その……。」
「寂しい思いをする、と?」
トーマスが言い出せない言葉をミッシェルが引き継いだ。
「うーん、まあそんなところだ。」
トーマスがなんともいえない表情で頷く。
自分はトーマスが結婚して幸せになるのを喜んでいるのにどうしてこの友人はこんな表情をするのだろう。そう考えるとミッシェルはおかしかった。笑顔で友人に答える。
「なんて顔をしてるんですか。あなたが結婚したからって何も変わる訳ではないでしょう?あなた達が来れないのなら私が遊びに来ますよ。かまわないでしょう?」
「もちろん!」
「まあ、あんまり頻繁に行くと『新婚の邪魔をするな』と怒られそうですけど。」
誰がそんなことを言うもんか、とトーマスはぶつぶついっていたが、ふとなにか思い付いたようににやりと笑った。
「今のところは、だからな。こんなことを言うのもなんだが、ヴェルトルーナに未練がなくなった時には、二人してティラスイールに世話になりに行くかもしれないぞ。エル・フィルディンで生まれた者とヴェルトルーナで生まれた者が夫婦になってティラスイールで暮らす。ちょっとしたロマンだと思わないか?」
「まったくトーマスったらそわそわして落ち着きがないったら。ここしばらくは仕事になりませんでしたよ。アイーダは逃げやしないって言ったのですけどね。」
ミッシェルが笑う。トーマスとアイーダがようやく周りの人々に気づいて手を放した後、アイーダはトーマスの後ろにミッシェルがいることに気づいたのだった。
「あ、ミッシェルさんいらっしゃい。ごめんなさい、気づかなくて。」
アイーダが頬を染める。
「気にしないで下さい。トーマスの迷惑加減に比べたら可愛いものですよ。」
「俺がいつ迷惑をかけたって?」
トーマスが照れ隠しに凄んでみせる。
「おや、あれを迷惑とは言わないのですか?上の空で人の食事にコーヒーをかけてみたり、望遠鏡を逆さに覗いたり。まあ、操船だけはきちんとやってくれたからいいですが。かわいそうに、ルカが心臓を押さえていましたよ。」
アイーダが思わず笑う。
「笑っていられるのも今のうちだぞ、アイーダ。」
トーマスが薄情な婚約者に恨みがましい目を向ける。
「フォルトとウーナが船でてぐすね引いて待っているからな。」
「フォルトとウーナが来ているの?」
アイーダは久しぶりに会う友人達の顔を思い浮かべる。
「ああ、相変わらず仲がいいよ。二人で結託して人をいびるんだぜ。お前も覚悟しといたほうがいい。」
トーマスが思い出したのか、渋い顔をして行った。
「えー、あたしは大丈夫だよ。日ごろの行いがいいもん。」
「嘘付け。俺だって悪いことはしてないぞ。」
いつもの会話が戻ってきた二人を横目にミッシェルは微笑む。ようやく。文句を言いながらも幸せそうな友人は、今日アイーダを妻に迎える。