主のいない書斎にて、
「触れてもいいですか?」
そうささやくと、
「……でぇぇっ!?」
およそ年頃の娘とは思えぬ声を出し、皇女特製のお茶をこぼしながらは國自慢の侍大将から身を引いた。
「……さすがに、傷付きました」
「す……すみません」
床にこぼしたお茶を拭きながら、は顔をあげない……というか、あげられない。
堅物が服をきて歩いているようなベナウィから、いきなりあんなことを言われては、どう対応していいのかわからなかったし、気恥ずかしい。
これが可愛いアルルゥやカミュであったのならば、「どんと来なさい!」と胸を叩いて迎え入れるのだが……さすがに相手がベナウィでは、そうはいかない。
結局は一度も顔をあげることなく床を拭きつづけた。
便宜上、長い毛におおわれた耳と尻尾のないは皇であるハクオロの妹……という事になっている。
ゆえに皇女である自らが床を拭かなくとも、人を呼んで片付けさせればよいのだが、そのあたりは皇女自らが台所を預かる國トゥスクル。すでに皇族が自分の身の回りのことを自分でする事は、あたり前の事だと認識されていた。
皇城に住み始めた頃は動作一つひとつに手を貸され、逆に不自由な思いをさせられたが。
「殿?」
「あ。はひっ!?」
床を拭き終わった頃合をはかり、ベナウィが再び話しかける。
床を睨み付けることで緊張を隠していたは、名を呼ばれて背筋を伸ばした。
「それで、私は貴女に触れてもいいですか?」
「え……ええーと……」
これは、どう受け止めたら良いのだろうか。
『触れる』という行為にも色々とある。
ただ触れるのか、抱き締めるのか、それ以上の――――――
ぽっと頬を染めたに、ベナウィは彼女が何を考えてしまったのかを悟った。
それから自分の言葉が足りなかったと気づき、言葉を追加する。
「貴女の手に、触れてもいいですか?」
「あ……ああ、はい。どうぞ」
ゆっくりと付け加えられた言葉に、はホッと胸をなで下ろし、おずおずとベナウィに左手を差し出す。
その手をベナウィは包み込むように握り、見つめる。
「……小さな手ですね」
「ベナウィさんの手は大きいです」
「男ですから」
苦笑とともに聞こえた言葉に、はますます頬を赤らめた。
ベナウィは何を思って、突然『触れてもいいか?』と聞いてきたのだろうか。
包むように握られた手の温もりに、の中から緊張が抜けていく。
逆に自分の手を握っているベナウィの手をとり、己の手と見比べた。
「マメと小さな傷がいっぱい。
あと……ペンだこならぬ筆だこ?
働きすぎだと思われますよ、侍大将」
先程までの緊張はどこへやら。
くすくすと笑いながら、はベナウィの手を細い指でなぞる。
「『ペン』とは?」
「あ、わたしの国……世界……時間? にあった言葉……道具?
あらかじめ墨が軸に入ってて、とっても便利……で、あってるのかな? 説明」
少しだけ考えるそぶりを見せてからの説明。
言っている本人も自信がないのか、疑問符が多い。
この場にハクオロがいたのなら、己の説明があっているか確認をしただろう。
は視線を主のいない机へと泳がせた。
「……兄さん、遅いね」
「先程カルラに捕まっていたので、今頃はエルルゥ殿の御機嫌取りに精を出しておいででしょう」
「あ〜、なんか想像できるかも」
少しだけ休憩をと言ってハクオロが書斎を出てから、もう半刻ほど過ぎている。
おそらくカルラにしなだれかかられた所をエルルゥに見つかり、いつもの焼きもちを妬いたエルルゥの手痛い一撃を食らった後、そのまま台所にでも連行されているのだろう。眉を寄せたエルルゥと、皇の威厳もへったくれもなくエルルゥの後を追うハクオロの姿が想像できた。
「そういえば、なんで急に……手を?」
首を傾げながら視線を握っているベナウィの手に戻す。
そのままベナウィの指をなぞって遊びながら、は首を傾げた。
「広い意味で『触れたい』と言ったのですが、深くとらえられてしまったようですので」
つまり、『手』である必要はない。
が戸惑っていたので、『手』と断定したのであって、ベナウィが本当に触れたいのは手だけではない、と。
「……えーっと」
対応に困り、は頬を掻く。
握ったままの手とベナウィの顔を見比べて、が手を離すと、今度は逆に手を握られてしまった。
「日の高いうちから、貴女が思っているような事は致しません」
眉ひとつ動かすこと無く足された言葉に、は居心地悪そうに視線をそらした。
「先日、聖上からお聞きしたのですが――――――
殿と聖上は、本当のご兄妹ではなかったのですね」
「へ? ああ、うん。
そうだね。血のつながりはないね」
それを言ったら『娘』とされているアルルゥも、『妹』のようなもの(実際には、誰から見ても恋人だろう)とされるエルルゥも、ハクオロと血は繋がっていないのだが。
ヤマユラにいた時には気にも留めなかったハクオロとの繋がりを改めて問われ、は首をかしげた。
「ただ、たぶん……兄さんとわたしは同じ種族だから、ヤマユラでずっと『兄さん』って呼んでいたけど。
それが、どうかしたの?]
「いえ、先日はじめて聖上から『血のつながりはない』とお聞きしましたので……」
珍しく言葉を濁すベナウィに、は瞬く。
「聖上の本当に妹じゃないわたしは、ベナウィにとって価値ない?」
「そんなことはありません」
「だったら、なんでそんなこと聞くの?」
瞬くに、ベナウィは微かに微笑む。
「やっと……」
――――――やっと、貴女に心置きなく触れられる。
「……そういう事です」
小さく足された言葉を聞き取れず、は首をかしげる。
それを気にする事なく、ベナウィはの手に唇を落した。
(2005.11.17.UP)
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