狂える獅子と全土から恐れられる王、ゴルダークが治めるファンダリア帝国は、大陸の北西を統べる強国である。国土を大陸から切り離すかのごとく流れる南北2つの巨大な川は、自然の城壁として隣国の侵略からファンダリアを護り、また逆にファンダリアの脅威から隣国を護ってもいた。
 護るためにも、攻める為にも重要な拠点となるのが、ファンダリアから見て北の川を越えた場所に位置するアイネス城である。こういった軍事的事情から、アイネス城は過去に幾度となくその主人を変えていた。

 ある時はファンダリアの王を主人に。
 またある時はトパーズの王を主人に。
 当然、イズモの王が主人となることもあった。

 そして現在のアイネス城の主人は、レジェンドラ大陸南東に位置する大陸最古の歴史をもつ、ハイランド王国の若き王、ウェインその人である。
 ファンダリア帝国の全土統一をかかげた宣戦布告から、同盟という形をとってのハイランド王国による大陸平定まで2年。
 ひと同士の争いは一応の終息を迎え、次に起こりうる大災厄に向けての準備が各国の君主の指示により着々と進められていた。傷付いた城壁は補修され、さらに強化される。昼日中から姿を見せるようになった災厄の象徴たる竜人にそなえ、兵士達は日々の鍛練を怠る暇もない。対竜人との防壁の要となる砦には屈強な戦士達があつめられ、その背中を多くの魔道師、僧侶が護る。

 一見、穏やかさを取り戻しつつある人々の日常。

 その実、いつ始まるかも判らない邪神の襲撃に怯える日々。






 アイネス城3階にあたえられた私室。その石造りのテラスから城下街を見下ろし、はそっとため息を漏らす。
 夜の闇に包まれた世界で、赤々と輝いている街区は繁華街。少し離れて色街。ぽつぽつと光りが見えるのは、住宅街。墨を落としたかのように真っ暗なのは、朝が早い商人達の住む商店街。
 戦略の要たる街の立地条件から、隣接する国々の建築様式をとった様々な建物を見下ろし、は燭台の火を吹きけした。

 今夜は一段と月が明るい。

 もちろん、昼間のように段下で忙しく走り回る下働きがあくびを噛殺していたり、訓練をサボった兵士が女官を口説いている様までは確認できなかったが。それでも、の足下を照らすには充分な明るさだった。
 火の消えた燭台を持ち、はテラスから室内へと戻る。燭台を寝台横の机へと戻し、先程まで横になっていた敷布を見つめてはみるが、寝直す気にはなれなかった。 
 寝直す気にならないというよりも。

 ――――――眠れない。

 そういった方が正しい気がする。
 数日前からチリチリとした不安に苛まれ、満足に眠れていない。

 はそっと2度目のため息をもらすと、上着を手に取り、廊下へと足を進めた。






 現在のアイネス城の主人はハイランド王ウェイン。
 そして、アイネス城を太守としてウェインから預かっているのは、ラムダという男だ。
 黒髪に石榴のような紅い瞳をもった、謎多き男。芸術品よりも整った顔だちは女達を惹きつけ、生者よりも死者を好んで兵とする戦法は男達の不信感を煽る。闇よりなお暗いと比喩される漆黒の鎧に身を包み、身に纏う外套は対照的に白く輝く。先日も褒美として君主から剣を賜っていたが、戦場に立って彼がその剣を振るう機会は少なく、白い外套を返り血で汚す事もない。剣士である男の元まで辿りつける者は、皆無に等しかった。途切れる事無く地面から湧き出る鎧を纏った腐乱屍体に、正気と志気を保ったまま立ち向かえる人間は少ない。長引く戦争から、徴兵という形で集められた一般の若者であれば、なおのことだろう。戦の最後の方では、師団に彼が居るというだけで逃げ出す敵兵もいたぐらいだ。

 死者を操る事から敵味方両方に恐れられ、結果的に戦場で失われる命を減らした男。
 花に惹き寄せられる蝶のごとく纏わリつく女達を、一人として撮み喰うことなく遠ざけた男。

 数多の美女に言い寄られ、君主から絢爛豪華な私室を与えられようとも、あの男が関心を示すものは、そんなモノではない。

 同性であっても目を奪われる蠱惑的な体つきをした美女よりも、戦う為に鍛えられた筋肉を持つ男に。剣を振るう腕力がなくとも、尖兵の背を守れるだけの力をもった魔道師に、ラムダの関心は向けられる。
 他は、君主であるウェイン個人と、星竜の八戦士。
 そして、それと対峙することになる妖魔三戦士。
 とりわけ、その一人の――――――カトマンドゥと呼ばれる機械人形に、ラムダは一方ならぬ関心を見せた。
 長引く戦争の間、常に前線にたって君主の盾となっていた彼が、北の国トリスタンよりさらに北に位置する大陸最北端の『雪の神殿』へ向かう君主の側を離れ、現在アイネス城を預かっているのも、そのためだ。

 アイネス城とロイヤル城。大平原を挟んでちょうどイズモ国とファンダリア帝国の国境線上に、カトマンドゥは居る。300年前に次元の狭間へと飛ばされたカトマンドゥは、大賢者フレストを追って、つい先日このレジェンドラ大陸へと舞い戻ってきた。天空から墜落という形をとっての帰還は、さすがに自慢の鋼鉄の巨体も無傷では済まなかったらしい。活動を再開するまでにたぷりと3週間その場を動かなかった。ただし、その3週間の間に移動するための機能を回復させていたのか、現在はゆっくりと活動を開始している。

 カトマンドゥの索敵可能圏外ぎりぎりに斥候を置き、その進路や動向を把握するのが、現在のアイネス城に留まる達の仕事だ。
 カトマンドゥへの攻撃は認められていない。
 正確には、カトマンドゥが大陸へと帰還した直後に、血気盛んなボザック王とトパーズ王が討伐に挑み、敗退している。
 普通の武器では歯が立たない――――――そう君主に進言したのも、ラムダだった。

 好んで人を遠ざけ、常人では知り得ない知識と魔力を持つ男の正体は、あまり知られてはいない。
 は偶然その時君主の師団に配属されており、君主と男の謁見の場に居合わせたからこそ、知っていた。

 死人を操り、他を寄せつけない男の正体は――――――邪神マドルクの分身。
 300年前の星竜ハースガルドとの戦いのおり、邪神が切り捨てた慈悲の心。


 そして邪神マドルクとは、の使える君主が戦いを挑もうとしている相手でもある。






 闇になれたの目には、月明かりだけで充分に周囲の様子が見て取れた。
 城というよりは砦としての役割が大きいアイネス城の廊下には、最低限の装飾はなされているが、基本的に調度品や絵画などの芸術品はない。灯で足下を照らさなくとも、何かにつまづくと言う事はまずあり得ない。さすがに高い天井は見上げても闇に包まれていたが、窓からはいってくる月明かりに照らされた周囲は青く染まっている程度で、歩行するのにはなんの障害もない。昼間であれば白亜の壁も、今は海中に没したかのように青かった。
 うす青い廊下を燭台も持たずに歩きながら、は僅かに首をかしげる。

 前方を、誰かが通り過ぎたような気がした。

 もちろん、ここは城の中である。
 内外を問わず、見回りの兵士もいるし、就寝中の将校や下働きもいる。
 廊下を歩いている以上、が誰とすれ違っても不思議はないのだが――――――灯も持たずに歩いて居るというのはおかしい。今現在、がそうであることは脇においても。
 念のため、と目をこらして廊下の先を見てみるが、の目では何も捉えることができなかった。
 いまだ戦時下であれば、要人を狙っての暗殺者か? とも疑うが、今は一応全土が同盟という形で統一されている。大陸列強と化した8君主を敵に回して、新たに国を興すことは難しい。よほどの莫迦でないかぎり、今、この時期に8君主に反旗を翻す者などいないはずだ。

 では、いったい何が……と首を傾げながら、は廊下を歩く。

 進む先にはバルコニーがあり、その先には何もない。侵入者対策のため、すぐ下に樹木が植えてあるということもない。50メートル程平地が続き、その先に兵舎があり、更に30メートルほど平地が続いて、やっと城壁に辿り着く。とてもではないが、侵入者が身を隠すような場所はない。
 ということは、前方に人がいると仮定しても、相手は侵入者ではなく、城の者ということになる。
 どこかの恋人達の逢い引きであれば、見なかったことにすれば良い。おそらくは城内の者であろうが、確認しないまま放置もできない。
 いったい何者が――――――? と首を傾げつつ、バルコニーに一歩足を踏み出したは、そこに立つ男の後ろ姿に息を飲んだ。

 青白い月光に照らされた黒髪と、白い外套の輪郭。

 背を向けられているため、顔の確認はできなかったが――――――にはそれが誰なのか、確認せずとも判る。
 彼は、整い過ぎたその容姿で、城で働く女達を魅了した。
 そして、自身も職場こそ内か外かの違いはあるが、城で働く女の一人である。
 と彼女等に違いがあるとすれば、は城の中と外、両方の彼を知り得ただけだ。
 
 不意の邂逅に、とくりとの鼓動が高鳴る。

 月光が照らす真夜中のバルコニー。
 周囲に人はおらず、静寂に包まれた二人きり。

 乙女の求めるロマンスに、申し分のない雰囲気だった。






「……ラムダ、様?」

 意を決して、は向けられたままの白い背中へと声をかける。
 声をかけられた背中の主は一拍間を開けてから、僅かに肩を竦めてへと振り返った。

「……見つかってしまったか」

「え?」

 珍しくも苦笑を浮かべたラムダに目を奪われつつ、は瞬く。ラムダの口から漏れた言葉は、多少のひっかかりを覚える物だった。
 月明かりを頼り、首を傾げてよくよく目の前の男を観察すると、の視線から隠れるようにラムダは白い外套を胸の前でかきあわせる。視界を外套に遮られたは、微かに見えた漆黒の甲冑に、これ以上は寄らないのではないか、というほど眉を寄せた。

 今は月が世界を支配する時間である。

 それも、一度は寝台に入ったが起き出してきている、深夜といって良い時間だ。
 張り番の兵士であれば、鎧をきていても不思議はないのだが、張り番どころか、いつでも最上の状態で動けるように十分な休息を必要とする太守が鎧を纏って居る時間ではない。寝間着とまではいかなくとも、がそうであるように、楽な服そうをしているはずである。

「できれば、誰にも見咎められることなく、出て行きたかったのだがな」

「なっ、ど……」

 ぞわぞわっと背筋を這い上がる嫌な予感に、は『どこにいくつもりですか?』と口を開く前に、手が先に動いた。
 はしっと白い外套を捕まえ、ラムダを見上げる。いつも通り、何の感情も読み取れない石榴の瞳を見つめ、はすぐに視線を落とした。

 ラムダの瞳は紅い。

 それは、いつもと同じ色だ。
 が、いつもと違う事が一つだけある。

 会話の流れから自分に視線を向けられる事はこれまでもあったが、ただ『視線を向けた』だけだ。そこには確かに映ってはいただろうが、個人として認識されてはいなかった。
 だが今は、間違いなく個人として、ラムダに認識されていると判った。

 それがたまらなく気恥ずかしい。

 勝手な話しではあったが、想う相手を一方的に見つめるのは良いが、ふとした切っ掛けであれなんであれ、相手から見つめられるのは恥ずかしくてたまらない。髪は跳ねていないか、衣服に変な皺は付いていないか等、とにかく色々な事が気になりはじめる。

(……つい掴んじゃったけど、どうしよう……)

 ラムダに覚えた違和感から、咄嗟に白い外套を捕まえた自分の手を見つめ、は途方に暮れる。

(見咎められたくないことって、なに?)

 の常識として、後ろ暗い事がなければ『見咎められたくない』とは思わない。

(城下街に遊びに行くところだった……とか?)

 もしかしたら、が知らないだけで、ラムダは色街に通っていたのかもしれない。
 戦場に立つ成人男性が、禁欲生活などできるはずもない。
 言い寄る女に靡かなかったのではなく、夜な夜な自分から色街へと繰り出して、これぞと思う女を買っていたのかもしれない。そう考える方が普通であったし、健常でもある。
 彼に恋する身としては、悲しい事実ではあるが。

「……

「は、はいっ!」

 名を呼ばれ、は反射的に顔をあげる。
 ラムダの石榴色の瞳を見上げ、内心で喜びに震えた。
 ラムダの交友関係は極端に狭いが、大陸中のつわものが参加した全土統一戦争。末端の兵士の数はそれこそ数えきれなかったが、それを束ねる武将の数も多い。下級兵士に比べればだいぶましな方だが、それでも武将の数は100人はくだらない。それなのに、その内の一人でしかない自分の名前をラムダが覚えていてくれた事が、には奇跡のように嬉しかった。

「……そろそろ離せ」

「あ……」

 ラムダの口から漏れた他愛のない要求に、の浮き足立った気分は一気にたたき落とされる。
 再び視線を己の手へと落とし、はラムダの外套を握りしめた。

「え〜っと、……ダメ、です」

「?」

 外套を握りしめたまま固まったに、ラムダは僅かに首を傾げる。俯いてしまったからは見えなかったが、見えなくて正解だった。もしもその表情が見えていたのなら、の気分はさらに下降しただろう。
 ラムダがの名前を覚えていたとしても、それだけだ。
 性別は女、将校の一人、得意な戦法などの『情報』としてのは覚えられているが、女性としての個人が記憶されているのではないと、強く思い知らされることになったであろうから。
 『物』を見る目と表現するのが、一番正しい。

「こんな時間に、太守がどちらへおでかけですか?」

 この場合の質問として、至極真っ当な物を見つけだし、問う。
 8君主の信頼厚いラムダは、このアイネス城を預かり、対カトマンドゥへの斥候としての役割を担っている大事な身だ。ラムダの実力から、役に立つ、立たないは別として、太守を護るための警護も用意されている。
 その警護の者を連れず、こんな夜更けにいったいどこ行く気だと言うのか。
 答えを聞くのが怖くて、は祈るような気持ちで白い外套を捕まえたままの自分の手を見つめた。

「……カトマンドゥの活動が始まった事は知っているな?」

「はい」

 ちりちりとした嫌な予感に、は自分の手が白くなるほど強く外套を握りしめる。
 カトマンドゥの動向を探ることは、8君主から命じられた現在の最優先事項だ。索敵圏外ギリギリから様子を探り、けっして刺激を与えず、進行方向を把握、予測し、その先にある村や町の住民の避難を促す。現に、アイネス城城下町にも避難勧告の準備が進められていた。一人の兵士として城に留まり、将として兵をまとめる位置にいるの耳に、カトマンドゥの動向について入ってこない情報などない。

「人や獣は、奴の進路からいくらでも退避することができる。
 しかし、そこに芽吹いた木や草花は、自らの足で奴から逃げ出すことができない。
 奴が通った後は、木は枯れ、大地は焼き払われる……」

 これ以上、黙って見過ごす事はできん。
 そう言葉を区切ると、外套を掴んだままのの手に、白い手袋に包まれたラムダの手が重ねられた。

「この身でいったいどれ程のことができるかは判らぬが、
 俺は刺し違えてでも奴の足を止める」

 微かに外套を掴む手へと加えられた力に、は眉を寄せる。
 先程からちりちりと感じていた嫌な予感が適中してしまった。
 泣きたい気分では微かな力が加えられる手に、さらなる力を込める。

、手を離せ」

「…………嫌です」



「嫌です!」

 言葉を重ねるラムダに、はキッと顔を上げた。
 ラムダの言葉には、無視できない引っ掛かりがある。

「『刺し違えても』って、なんですか!?
 そんな方法、ウェイン様がお許しになるはずがありませんっ!」

 敵味方問わず、男女の差も関係ない。
 が知るラムダという男は、可能な限り他者を寄せつけないように振る舞ってはいたが、別に冷たいわけでも、人付き合いが嫌いなわけでもない。邪神マドルクの慈悲の心から生まれたというラムダが、実は天の優しさを持つと謳われるウェインにも負けない優しい心の持ち主であると、知っている。
 そして、知っているからこそ――――――なぜラムダがこんな事を言い出したのかも解る。

 優しすぎるのだ、彼は。

 優しすぎるからこそ、ラムダの心は動物や人間だけではなく、植物にまで向けられる。
 動植物の区別なく、全てを愛おしく思うからこそ、広くは無関心だと誤解を与える。特別目をかける数人の人間と、他の全ての命を平等に愛する。およそ人間が持ち得ない完全なる博愛精神。神のみが持つ、見る角度によっては残酷な刃にも似た愛。
 その愛をもって、迫りくる脅威から自らの足で逃げだせない植物を憂い、カトマンドゥの歩みを止めたいのだ。

「……あなたは、もう神様じゃありません。
 自分でおっしゃったじゃないですか、ただの人間だって」

 ウェインとの謁見の際に、ラムダは言った。
 元は神かと驚くウェインに、自分はただの人間だ、と。

「アステア様みたいに、世界全てを愛さなくてもいい。
 あなたが世界のために、自分を犠牲にすることなんて、ないんです」

 神の御心など、人の身では推し量ることもできない。
 愛の形にも差があるように、人の思惑と、神の思惑はまったく別の物なのだから。






……」

 キッと自分を見上げたまま微動だにしない娘に、ラムダは微かに眉をひそめた。よく見れば、の目尻には薄く涙が滲んでいる。が、ラムダにはその理由がわからない。ただぼんやりと、己のために目の前の娘が悲しんでいることは判った。

 自分のために泣いているのだという事は『判る』のだが、それだけだ。
 何故泣いているのかは『解らない』。
 いくら自分で自分の事を『人間だ』などと言ったところで、所詮は神の一柱。
 人間と神。
 視点の違い過ぎる一人と一柱では、見えてくる物が違いすぎた。
 人間の娘一人が内に抱いた感情など、神の身であるラムダには些末な事にすぎない。

「……わ、わたしを愛して欲しいとはいいません」

 ほんのりと恥じらいから頬を染め、それでも視線を逸らさないに、ラムダはようやく娘から向けられている感情を知った。
 『理解』はできなかったが。
 という娘は、言葉とは裏腹に、自分を愛し、愛し返されたいと願っているのだと。

「ラムダ様は、まずラムダ様ご自身を愛してください」

 他の何かを愛する前に、自分を愛し、その身を労れ。
 刺し違えてでも敵を倒すなどとは考えず、別の方法を考えろ。

 そう真摯に訴える瞳に、ラムダは息を飲む。
 人の輪に身を置く間は可能な限り他者を寄せつけないように振る舞っていたが、ラムダ自身、人の営みは嫌いではない。獣人族、エルフ族、人間族。神とは違い恐ろしく短命な彼等は、日々を懸命に生きながら別々の命の輝きを見せ、ラムダを魅せる。星々の煌めきにも似た命達の中に身をおけることは、ラムダとしても幸福な事だった。ただ――――――

 ラムダは、己がいつか影も残さず消える存在であると知っている。

 人々が邪神マドルクと戦うのであれば、その分身である自分が消えるのも、そう遠くない未来であると。
 そんな自分が、短い時間を懸命に生きる命達の中に影を落とす事を良しとは思えなかった。だからこそ、人の輪からはずれ、孤独であることで選んだ。関わらなければ、自分が消えた後、それを悲しむ者もいないと。
 そう思っていた。

「……俺は、ただの人間だ」

 最初は確かに、神の一部であったが。
 300年前に本体である邪神マドルクに切り捨てられ、人の姿を結んだ。
 慈悲の心しか持たない自分は、確かに『人』としては欠けていたかもしれないが。
 それでも自分は、『人』でありたい。

 の瞳を見つめたまま、ラムダは外套を握りしめる細い指を1本、また1本と丁寧に解く。

「だが、神であろうと、人であろうと、奴をこれ以上のさばらせておく理由にはいかぬ」

 ラムダとの耳に届く報告に、大差はない。
 カトマンドゥが通った後の森や街道の様子は、斥候からの報告という形で逐一このアイネス城へと届けられる。
 人や動植物が再び住めるようになるまでには、相当な時間がかかりそうだ、と。

「……だったら」

 最後の指を外套から離され、は手を降ろす動作につられるように俯いた。

「わたしも行きます」






「わたしも行きます。先鋒として、お連れください」

 腕力ではまず適わない。
 泣き落としも無駄だ。
 となれば、にはラムダを引き止める方法がない。
 ということは、ラムダを見殺しにするしかない。
 そして、恋しい男を見殺しにするぐらいならば、はラムダを護って先に死ぬ方が良い。
 至極単純な解答だった。

「奴に普通の武器は通じない。
 先鋒など、いくら居ても役には立たぬ」

「だったら、『人間』のラムダ様がお一人で挑むことも――――――」

 言質を取っての反撃に、ラムダは苦笑いを浮かべて応じる。

「俺はただの人間だ。だが、元は神でもある」

 ただの人間の兵では役に立たない。足手まといだから、付いてくるな。そう言いながら、自身を『ただの人間だ』と称した男は、『元は神である』と先の自分の言葉を否定してを拒む。
 子どもじみた、ただの屁理屈だ。
 だが、ただの屁理屈であっても、事実であることに変わりはない。
 ラムダは『自称・ただの人間』であり、真実は『神の分身』なのだから。

「俺にしかできない事も、まだあるはずだ」

 言葉の終わりに、ラムダの手がの頬を撫でる。
 手の動きに誘われるようにが顔をあげると、不意に唇へとラムダの唇が落とされた。

「!」

「……ただの人間の男として、おまえに触れるのは、これが最初で最後だ」

 一瞬の口付け。
 過去例がないほど間近く見た石榴の瞳に目を奪われ、は瞬く。
 唇が男の体温を感じるよりも早く離された唇は、流れるように自然な動作でから離れ、月を見上げる。

「じきにこの長い戦も終わりを迎えるだろう。
 おまえは、人になりきれなかった愚かな男のことなど忘れて、女としての幸せを見つけろ」

 一人の武将として兵を引き連れ、国を護るために戦場に立つのではなく。
 女として、夫を得て子を産み、家庭を護っていけ。

「ラムダ様っ!?」

 言外に込められた意味に気付くと同時に、は再びラムダの外套へと手を伸ばし――――――その手が外套を捉えることはなかった。



 人ならざる者。
 肉の体を持たない、思念が正体という彼がとれる最速の移動手段。
 から逃れようと、この場から存在を解いただけかもしれない。
 すでに宿敵カトマンドゥの鼻先に居るのかもしれない。
 どのみち、『ただの人間』であるには、霞みのように目の前から姿を消したラムダの行方を知るすべはなかった。



 むなしく空を掴んだ己の手を見つめ、は大粒の涙を零す。
 解ってしまった。
 ラムダのあの言葉は、別れの言葉だ。
 引き止められなかった。
 ラムダの言う『ただの人間』である自分には、もう追い掛けることも、彼の盾となることもできない。
 そして、カトマンドゥと戦うと言ったラムダが生き残ったとしても、彼が自分の目の前に姿を現わすことは、二度とない。
 ただ一度の口付けを対価に、『忘れろ』と願われてしまった。

「……ふっ、ひっく」

 ツンっと鼻の奥が痛む。
 月に照らされて居るとはいえ、辺りが暗闇であることに感謝しながら、は声を殺して涙を流した。
 想う男のために、自分ができることは何もない。
 そして、二度と邂逅することもない。
 愛し返されなくとも、せめて一緒に死にたかった。
 一緒に死ねなくとも、せめて彼の盾となって死にたかった。
 僅かな時間だって構わない。
 ラムダの側にいたかった。
 それだけだった。

 適わぬ願いを胸に抱き、は無心に祈りを捧げる。
 女神アステアに祈ればいいのか、星竜ハースガルドに祈ればいいのかは解らない。
 解らないが――――――祈らずには居られなかった。

 起こりうるはずのない、男の勝利を。






 アイネス城から徒歩で一月。馬を使えばその三分の一という位置に、ソレは居た。
 半径300メートル先までの足下を黒く焼き払い、その中央に漆黒の球体が浮ぶ。
 完全な球体ではなく、イズモ特有の『土なべ』『お釜』にも似た形状のそれは、時折呼吸をするがごとく、青白く明滅をくりかえす。
 ピピピと球体内部を血液のように電子の情報が行き交い、『土なべ』はくるりと上下を反転させた。
 焦土と化した索敵圏内にある、一つの固体。
 その情報をより多く得ようと、『土なべ』は活動を開始する。



 己の存在を嗅ぎ付け、活動を開始したカトマンドゥを見つめ、ラムダは右手を広げる。
 ふわりと広がった外套の影から、腐臭と共に男の扱う兵士が姿を現わす。兵士が現れた事で広がった一つの影から、2体目、3体目の兵士が姿を現わした。兵士が増える度に広がる己の影を見つめ、ラムダは布陣を整える。

 思えば、生者を近付けまいと死者を選んで使ってはいたが、という娘はそれを気にもとめなかった気がした。
 何故か、よく付きまとわれていた気もする。
 あれが彼女なりの愛情表現だったのだろう。
 最初は煩わしくも感じたが、最近はそうでもなかった。はラムダの事を良く見ているだけあって、少ない感情の起伏を理解する。近付かれたくない気分や、手伝いを必要としている時を嗅ぎ分け、必要以上の接触をしなくなった。ラムダが心地よい距離感を見つけだし、自身をそこに置く事で、誰よりもラムダの近くに居座ることに成功をおさめてもいた。

 が側にいる事は、ラムダとしても楽で居心地が良いと思っていた。
 多少なりとも――――――本当に多少なりとも、他よりも多く、愛おしいと感じてもいた。

 ただ一度の口付けを対価に、置き去りにしてきた娘を想い、ラムダは深く息を吐く。
 真実、己の身が人であったなら、あの娘の横でその後の人生を過ごしても良かったかもしれない。
 いつか娘の心が変わったとしても、別の男と歩むその幸せを見届けるのも悪くはない。

 護りたいものは、世界の全てではない。
 置き去りにした娘一人でもない。

 ただ、切り捨てられる事で生を受けた自分が、どんな生き方を選ぶのか。選べるのかが、知りたかった。
 示したかった。
 自分を切り捨てた己自身に。

 どこまでも己の我を押し通すだけの自分勝手。

 想いをよせてきた娘に、けっして応えることができないエゴ。
 慈悲の心だけが構成するはずのラムダに芽生えた、人間らしい『心』。
 これだけは邪神マドルクの物ではない。
 ラムダが生まれ、人の中に混ざることで育てた、ラムダ自身の心だ。
 人の持つ刹那の輝き。
 それが今、自分自身にも宿っていると、ラムダは確信していた。

 自分の生き方は自分で決める。
 死ぬために戦うのではない。
 自分が自分として生きたと、満足するために戦うのだ。

 護りたい物は命の輝き。
 そこに動植物の区別はなく、友人・恋人の区別もない。
 貫きたいのは己の意志。
 過ちの名を冠せられた自分の、誰に恥じる必要もなく芽生えた心。

 最初から勝てるとは思っていない。
 ただ、星竜の八戦士達が前線へと戻ってくるまでの間、僅かでもカトマンドゥの足を止められれば良い。
 自分にできる事をする。
 その結果が実を結ぼうと、身を滅ぼそうと関係はない。

 生きた。
 それだけで満足だ。
 他には何も望まない。
 残念ながら、他を望むほど自分の心は『まだ』成長していない。

 心残りがあるとすれば、ただそれだけだ。