「アカリ〜?」
視線を周囲に向け、は少しだけ大きな声で名前を呼ぶ。
「はひ?」
――――――と、やや戸惑いがちな返事が聞こえた。
「……は?」
確かに名前を呼んだのは自分だが、の呼ぶ『アカリ』が『はい』などと、人の言葉で返事をするはずがない。
水の惑星アクアに到着して早々カゴから脱走し、現在も行方不明の『アカリ』は猫である。
もう少しつけくわえるのならば、黒くて短い毛並みに青い目をした地球育ちの火星猫。
間違っても人間ではない。
ゆえに返事などするはずもなかった。
「あのぅ……何か?」
遠慮がちに後ろから声をかけられて。はゆっくりと声の主を振り返ると、きょとんっと瞬きながら首をかしげる少女が立っていた。
後ろ髪は短く、横の髪が長い独特の髪型……もみあげか? に白い帽子をかぶった15・6才の少女。帽子と揃いの白を基調とした白いワンピースには、ネオ・ヴェネツィアの観光ガイドを見れば、誰にでも見覚えがあるはず。
ネオ・ヴェネツィア名物・観光ゴンドラの操主……通称『水先案内人(ウインディーネ)』と呼ばれる少女達の制服だ。
「……あの?」
水先案内人らしいが見覚えのない少女は、不思議そうに首を傾げながらを見上げている。
おっとりとした雰囲気を持つ少女は別段声を荒げることもなく、の言葉を待っていた。
「…………え〜と……」
軽く頬を掻き、は考える。
何故、見ず知らずの水先案内人が「はい」と応えて自分を見上げているのか。
がしていたことと言えば、脱走した飼い猫を探すため、猫の名前を呼んだぐらい――――――
「……『アカリ』……さん?」
確認の意味をこめて、水先案内人に問う。
名を呼ばれた少女はにっこりと微笑んで答えてくれた。
「はひっ!」
「ああ、そうだったんですか。
逃げた猫さんが『アカリさん』なんですね」
ひとしきり事情を聞き終えたあと、水先案内人の少女はぽんっと手を打った。
「それで、お姉さんは猫のアカリさんを探していた、と」
一人納得いった少女は、何やら足下の猫と相談をするように目配せをしている。
それから、相談が終わったのか、ぱっと顔をあげるとに笑いかけた。
「『アカリさん』探し、お手伝いします!」
「へ?」
「アリア社長も手伝ってくれるそうです」
「ぷいにゅ〜」
にこにこと笑いながら少女に紹介され、視線を落すと足下の太った猫が『任せとけ』とばかりに胸を叩いている。
火星猫の知能は高い。
ちょっとした仕草で意思の疎通が取れるのは結構嬉しいものであった。
が、ひとつ問題がある。
気侭な観光客であるが猫を探してうろつくのは問題ないが、水先案内人ということは少女は――――――
「でも、水先案内人さんはお仕事中でしょ?」
幼さが残った少女であろうとも、水先案内人である少女は『仕事中』であるはずなのだ。
の猫探しに付き合わせるわけにはいかない。
「大丈夫です。
今日はアリシアさん……指導員が同乗できない日なので、半人前のわたしは『お客様』をのせることはできない日なんです。
それに、私は水先案内人です。
このネオ・ヴェネツィアの地理には、ちょっとだけお姉さんより詳しいと思いますから……
きっとお役にたてると思うんです」
それに……と言葉を区切り、水先案内人は寂しそうに眉を寄せた。
「猫の『アカリさん』だって、旅先でひとりぼっちじゃ心細いと思いますから」
衒うことなく足された素直な言葉は、全自動化された地球とは違い、ゆったりと時の流れる水の惑星に住む者だからこそ育まれるものだろうか。
柔らかで澄んだ水と同じ色の瞳を細めて微笑む少女に、はつられて微笑んだ。
「それじゃあ、お願いしようかな?」
「はひ、お任せ下さいっ!
あ、申し遅れました。
私は水先案内人『見習い』の、水無灯里と申します」
灯里の自己紹介が終わるのを待って、足下の猫が泣き声をあげる。
「にゅ!」
「こっちはうちの社長の『アリア社長」です」
猫と少女の息のあった自己紹介に、『社長』と『社員』かとは苦笑を浮かべる。
AQUAでは青い目をした火星猫を社長に据えると縁起が良いといわれる風習があると……何かの本で読んだことがあったが。
まさか、本当に実践されているとは思わなかった。
が、それはとても素敵な風習だと思う。
「私は。
旅のお供に逃げられた、気侭な観光客です」
素敵な二人づれの案内人に、はすこし戯けた自己紹介をした。
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