どしゃぶり



「失敗した」

 街道横の木の下に逃げこみ、濡れた赤い髪をぬぐいながらサーシャは空を睨みつけ、ため息をついた。

「こんな事なら、さっきの街でケチらずに馬車にでも乗っておけばよかったな」

 空は一面の雨雲に被われ、あたりはまだ正午をまわったばかりだというのに薄暗い。
 隙間なく降りしきる雨と、地面を打ち跳ね返る雨。
 視界は真っ白といってよかった。

 今回ばかりは自分の節約癖……貧乏性と言うべき性格を呪う。
 別に乗合馬車でなくとも、雨具を買うだけでもよかったのだ。

 どちらにせよ、自分の懐が痛むわけではない。

 そうしなかったのは…生来の貧乏性のせいばかりではなく、サーシャの置かれている情況にもよるところがあった。
 サーシャは現在文無しである。
 加えて下働きとして長く仕えた屋敷……一応実の父親の屋敷ではあたのだが、を訳あって出てきたばかりである。
 もともと居たくていた屋敷ではないので、離れることが出来て清々してはいるのだが…一つだけ困ったことがあった。

 サーシャには帰るべき家がなかったのだ。


 そんな訳で、現在は『当てのない旅』というものをしている。





 小さなくしゃみに、サーシャの財布とも言える若者を振りかえった。
 屋敷を出るときから行動をともにしている貴族の若者。

「ちゃんと髪を拭いておけよ。風邪薬なんて買う金はないからな」

 っと、そこまで言ってサーシャは思い出した。
 一緒にいる若者が何者であるのかを。

 エリオスという名前以外はほとんど何も知らない、不思議な若者。
 穏やかな微笑とおっとりとした気質につい誤魔化されてしまうが、案外図太い神経の持ち主で、どこか底知れない夜色の瞳と、一族で最高の力を持った番人を退けた魔術の使い手。

「エリオス…おまえたしか……すごい魔術師だったよな?」

「…すごくはないけど」

 魔術師嫌いのサーシャの口からもれる、珍しい言葉にエリオスは首をかしげる。

「すごいだろう。あのアストレスにサシで勝ったんだから」

 そうかな? と首をかしげているエリオス。

「だったら、さ。何か便利な魔術ってないか? こう…遠くの町まで一気に飛んでいけるような魔術とか、それが無理ならせめて雨に濡れないですむ魔術とか」

 名案とばかりに瞳を輝かせて語るサーシャから、エリオスはそっと目をそらした。

「魔術、嫌いじゃなかった?」

「嫌いだよ。あんな陰湿で歪みまくったヤツらが使うのは。……だけど、利用できるものは利用すればいいじゃないか」

 極力近付きたくはない力だが、この際楽ができるなら楽をしたい。
 そしてなにより、行く当てがないのだ。出来るだけ路銀を使わずに遠くの町へ行きたかった。

「………ダメだよ」

 サーシャの視線から逃れるように、顔を俯けたエリオス。
 残念ながら身長差が邪魔をして、逃れることは出来なかった。

「なんで」

 いつもなら多少無理な注文をしても、ちょっと困ったような顔をしてサーシャの要望に応えてくれたエリオス。
 その珍しく反抗的なエリオスに、サーシャの口調が強くなる。

「使いたくない」

「おまえたち魔術師にとっては、苦労して身につけた力なんだろう?こんな時に使わないで、どうするんだよ」

「…こんな力、いらなかったよ」

 不意にエリオスの視線がサーシャに戻る。

 譲らない強さを秘めた静かな黒い瞳。

 そしてサーシャは後悔した。
 
 エリオスについてほんの少ししか知らないが、『ソレ』だけは知っていたはずだった。

 エリオスが自分の『魔力』そのものを嫌悪していたことを。
 その力のせいで、大切な何かを置いてきてしまったことを。

 以前一度だけ触れたエリオスの過去。

 その話をした時だけみせた寂しげな表情。
 その寂しさを包んでやりたい、守ってやりたいと思ったから…あの時エリオスの手をとったのだ。

 こんなふうに考え無しに、エリオスの傷をえぐりたくはなかった。






「………わかった。 おまえの魔術はたよらない」

 くるりと背を向け、小さな声で「悪かったな」とエリオスに詫びた。

「そのかわり、ここで当分雨宿りだ」

 腰に手を当て、振りかえったサーシャは微笑んでいた。

「風邪なんかひいてみろ、置いていくからな」

「サーシャ…」

 切り替えの早いサーシャは、からりと晴れた空のように笑っている。
 どうやらこれ以上エリオスに魔術をねだるのは諦めたようだ。

 もともと地道に何かをやりとげるのを好むサーシャが、今回のように楽をしたいと言い出すほうが珍しい。

「でも暇だな…そうだ。おまえのこと話せよ。あたしのことばっかり知ってるのはフェアじゃない…」

 っと、そこまで一気にしゃべってサーシャは固まった。
 たった今話を逸らそうとしたばかりなのに、自分からその話題を振ってしまったのだ。

 不味いことを言ってしまった…と考えているのが分かるサーシャの引きつった微笑に、エリオスは柔らかく微笑んだ。

「話してなかった?」

 やんわりと尋ねられ、サーシャは戸惑う。
 聞いても良いことなのだろうか?
 今まで少しでもその話題に触れそうになると、まるで捨てられた子犬のようにエリオスの表情は曇ったのだ。

「……聞いてない。おまえの名前だって、アストレスに聞いたぞ」

「退屈で、少し長くなるかもしれないよ?」

 難しい話があまり好きではないサーシャに、念を押す。

「暇つぶしには丁度いいだろう。そのうち雨もやむかもしれないしな」

 サーシャは暗い空を見上げた。
 雨は未だ、止む気配を見せない。

「そうだね…」

 つられるように空を見上げたエリオスが、そっとサーシャを抱きよせる。

「くっついている方が、暖かい」

 互いに雨で濡れてはいるが、確かにぴったりとくっついていると暖かい。
 何やら幸せそうに微笑むエリオスに毒気を抜かれ、サーシャは自分の頬が赤く火照るのが分かった。

 下手に下心がないだけに性質が悪い。

 こんなふうに自然に抱きしめられたら、殴り倒すことも出来ない。
 しっかりと自分を包み込むエリオスの意外に広い胸を急に意識して、サーシャは目を合わせられなくなった。
 視線を真正面、エリオスの喉仏に移す。

「何から話そうか……」

 そんなサーシャを知ってか知らずか、エリオスはゆっくりと語り始めた。


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