――そうして、極東の地に一つの奇跡が舞い降りた。
天の杯。第三の魔法。その成功例たるシロウはこれからどんな人生を歩むのだろうか。願わくは、彼の姉として願わくは、平凡で和やかな道を進んでほしい。そうすればきっと、シロウは幸せになれると思うから。
出来損ないのアインツベルンはぺしゃんこになった。大空洞は崩壊した。大量の岩石にのしかかられたわたしは、それでも死ぬことすら許されなかった。
失敗した呪は術者に帰る。もとよりわたし一人で魔法を制御できるはずもなかったのだ。シロウという器をあふれた奇跡の奔流は、手近にあった人形の体中を無秩序にかき混ぜた。その結果が醜悪な命。生きることもできず、死ぬことさえできない、肉と魂の混沌たるキメラ。そんな肉塊が、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンの成れの果てだった。
なんという奇跡。偉大なるかな、大いなる魔法。わたしは老いも病も克服した。きっとこのまま永遠を生きるのだろう。いと貴きは全ての命。わたしには自殺も許されない。
どれほどの時間がたったのだろうか。どれほどの年月が過ぎたのだろうか。シロウは無事に保護されただろうか。サクラとは上手くやっているだろうか。もう子供が生まれたのだろうか。もしかしたらもう死んじゃったのか。まあ、それもあまり意味のない思考だ。胎内の時計はとっくにとろけてしまったのだから。無限の中の一瞬に価値などないのだから。
岩の中に光は届かない。肉の塊に光は恵まれない。神の寵愛は地上の特権だ。わたしの仲間はうじ虫達だけ。消化液で溶かした肉を泳ぐのが彼等の喜び。ざぶーん、ざぶーん。ごちそうの中で溺れなさい。わたしの温もりは微かだけれど、決して消えることはないのだから。
それはまるで誘蛾灯。うじはどんどん増えていき、わたしの内部でワルツを踊る。それをひとつまみ口に入れた。唇はとうにちぎれたけど、舌なんて全部溶解しちゃったけれど、歯が残っているはずもないけれど、消化管への入り口は健在だ。愛らしい仔たちをぐちゃぐちゃと味わう。わたしを食べて育ったモノを食べる。ぐるぐる、ぐるぐる。巡る巡るよアミノ酸。食べているのはわたしなのか。食べられてるのがわたしなのか。
――でも、それさえもきっと幻なのだろう。
地中にうじは育たない。そんなことは知っている。だからこれはわたしの幻覚。寂しがりやのイリヤスフィールは仲間を求めて夢想したのだろうか。ざぶーん、ざぶーん。うじの海でわたしは溺れる。暖かい温もりが心地よい。
戯れに脱出を試みよう。人生は常にチャレンジだ。爪のはがれた指で岩を削る。肉は大分えぐれちゃったけれど、骨もずいぶん削れたけれど、それでも一応指はある。
かりかり、かりかり、痛みは脳を削っていく。痛覚が麻痺するなんて嘘っぱちだ。機会があったら証言してやってもいい。わたしの躯は、動かすだけで、こんなにも、痛い。
骨が削れていく。肉がはがれていく。かりかり、かりかり、掘削機。
堅い岩はおろし金。掘り進むことなんてできやしない。削る毎に心が痛む。やめろやめろと騒ぎ立てる。なんて甘美な不協和音。なんて淫らな怒鳴り声。ああ心臓が張り裂けそう!
わたしの胸には一つの魂。たった一人の英霊の魂。あの戦争で捕まえたのはアーチャー、かつてエミヤと呼ばれた男。彼の心が泣き叫ぶ。やめてくれと懇願する。なんだかおかしい。彼はとっくに磨耗したはずなのに。思わず微笑みを浮かべてしまう。
わたしが傷付く度に彼は叫ぶ。恥も知らずに泣き叫ぶ。それが、嬉しい。エミヤが見ているのはわたしだけだ。その存在の全てをかけて、わたしを見てくれている。決して目をそらさずに。狂うことも拒み続けて。この魂はわたしのもの。彼の全てがわたしのもの。わたしの全てが彼のもの。
なんという奇跡。偉大なるかな、大いなる魔法。わたしは老いも病も克服した。きっとこのまま永遠を生きるのだろう。いと貴きは全ての命。わたしには自殺も許されない。
愛しきわたしの弟よ。揺りかごの中で眠りなさい。時間はたっぷりあるのだから。胎盤の中で泳ぎなさい。優しく全てを壊してあげるから。あなたの望むように壊れてあげるから。
お母さま、お爺さま、お父さま。イリヤスフィールは幸せです。