「……ばか」
さすがに泣きつかれたのだろう。そんなつぶやきを残して眠ってしまった彼女は、どう見ても年相応の女の子にしか見えなかった。不自然なまでに規則正しく上下する胸にスーツの上着をかけて、俺はこっそりとため息をついた。
「まさか、泣き上戸とは思わなかったな」
普段いろいろ溜め込んでいたのかもしれない。わんわんと泣き叫んだ言葉の半分も聞き取れなかったけれど、俺を好いてくれているのは痛いほど分かってしまった。
「でも、ごめんな。俺は君とは生きられない」
もう決めてしまったから。俺の心の特等席には、先客がどっかりと座っているから。バカンスはもうおしまい。明日からの人生は、正義の味方としてどこまでも駆け抜けるだけ。迷いも他人も入り込む余地はないはずだ。
「……体は剣で出来ている、か」
それは誇り。それは呪い。その道に後悔はないし、他の道に未練はない。 それでも、この先も彼女のようにおいていく人がいるのだと思うと、ほんの少しだけ心が痛んだ、気がした。
「おやすみ、ルヴィア。もう二度と会えないけれど、君のことは忘れないから」
もしかしたら眠ってないのかもしれない。そんなありえない考えに自分でも苦笑しながら、寝室のドアをそっと閉めた。
「……ばか」
戦場は常に地獄だ。飛来する弾丸が肩を削る。血液の河を駆け抜ける。仲間達が脱落していく。一人二人と倒れていく。一人二人と去っていく。それでも俺は駆け抜けた。爆発する戦車。ミディアムレアでもがく兵士。肩にかついだロケット砲。
圧倒的な戦力に包囲されながら、背中合わせに軽口を叩く。口笛とともに死線を突破する。そんな猛者達をも次々と失いながら、それでも俺は駆け抜ける。飛び散る肉片。自分の体を探す首。残り一つのパイナップル。
最後に残った仲間は一人だけ。一番初めからついてきてくれた、美しきハイエナの宝石魔術師。魔術師としての夢を切り捨てて、家の反対も押し切って、ただひたすらについて来てくれた一人の女性。彼女とともに血の海を泳いだ。腐臭漂う塹壕の中で、共に餓えに震えたこともあった。吹雪の中で眠ってしまわないよう、お互いに励まし合ったこともあった。どんなに血にまみれても、どんなに泥で汚れても、それでもルヴィアは美しかった。
――だから、こんな結果が訪れても自然に受け入れられるのかもしれない。
夕暮れの丘で背中を刺された。最も信頼する相手に背中を預けていたのに。ぐるりを囲むのは歴戦の魔術師、騎士団、そして幾百の幻想種。何度も繰り返された勝てるはずのない戦い。それも、彼女とともにあれば覆せると信じていた。事実、これまではそうだった。
ごめんなさい、ごめんなさいと泣いている。幼子のようにすすり泣く。俺の背中に一振りの短剣。完全に虚をつかれたはずの背後からの一撃は、しかしどう見ても致命傷足り得なかった。
恐らくは、裏切りの報酬が俺の命だったのだろう。精確に運動能力のみを奪う一撃は、この態勢において絶対の敗因となる。だから俺がこれ以上戦うはずもないし、奴らが俺を襲う心配もない。ルヴィアはそう考えたのか。やはり甘い、優しすぎる。覚えておくがいい。世の中は君ほど優しい人間ばかりではない。
裏切りの報酬は常に裏切り。二人に与えられたのは無数の剣。騎士たちの投合は戦車砲に等しい。確かにここで止めを刺しておけば都合がいいだろう。それを否定するつもりはない。戦場の理は弱肉強食。死人に口などありはしない。
震えてうまく動かせない腕で、ルヴィアを外套の中に招き入れた。ああ、かまわないさ。お前達が裏切りを裏切りで返すのであれば――、
“I am the bone of my sword ――――”
そう、俺も、彼女の裏切りをもう一度裏切ろう。
BGMはシンフォニー。射出される奇跡は英雄達の宝具。無限の火花が天空を覆う。破壊の濁流は止まらない。魔術師の骨を割いて、騎士の脳を砕いて、幻想種の魂を凍らせる。それは余りにも一方的な虐殺。うろたえる暇さえ与えない。宝具のガトリングは地平線ごと全てを吹き飛ばす。フルートは清らかにレクイエムを謳う。人類の歴史は戦争の歴史。その重さ、いびつさを篤と知れ。
……あらためて自分の体を見てみると、ものの見事にハリネズミだった。思わず苦笑を浮かべてしまう。さすがは騎士団というべきか。投合された剣を全て破壊することはできなかったようだ。
どうやら、俺はここで終わりらしい。この体では追っ手をまくこともできはしまい。捕まった暁には銃殺か、縛り首か。できれば前者であると嬉しいのだが。
腕の中のルヴィアが必死に何かを叫んでいる。でも、それもどうでもいいことだ。瞼が重くて仕方がない。頭が上手くまわらない。ああ、仕方がない。奴らが来るまで寝るとしようか。
……そういえば、これが俺の最後の戦場になるのだろうか。それは、とても残念だ。正義の味方はこれからが本番のはずなのに。あの日の選択は、姉さんとの約束は、まだまだ果たしていないのに。
切り捨てた人達が瞼に浮かぶ。懐かしい少女が微笑んでいる。結局、彼女だけの味方にはなれなかったけれど、これは正しい道だったのだろうか。そんなこと、今の俺には分かりはしない。それが、悔しくてたまらない。
ルヴィアゼリッタ。お願いだから、体を揺するのはやめてくれ。そんな顔をするのはやめてくれ。未練が残ってしまったら、俺は俺ではなくなってしまう。
ああ、世界よ。戯れを願おう。最後の最後に皮肉を言おう。我が死後を預ける。八つ当たりを聞いてくれ。この戦場に生き残っている女性が一人。まだ死にきれてない人々が恐らくは百人ほど。俺が生涯をかけて、どうしても叶えられなかった願いを聞いてくれ。これさえかなえば俺は死ねる。きっと未練なく笑って死ねるから。
世界よ、お願いだ。この者達に幸せを。どうかささやかな幸福を。ただそれだけ、ただそれだけでいいんだ。かなえてくれ、どうか。お願いだ。
そうして、ここに一つの物語が幕を閉じた。
「しろ…………」
自らの恋人を捜していた少女は、あってはならない光景を見た。
雪がつもった森の広場。
かつて三人の憩いの場だったその中央に、一組の男女が寄り添っていた。
木漏れ日が二人を優しく包み込んだ。
無数の剣が静かに乱立していた。
「―――――――」
遠坂凛は確かに見た。
ルヴィアゼリッタの胸を貫いている黄金の剣を。
返り血に染まった衛宮士郎の背中を。
周囲の木々は千切れ、裂けた地面が戦いの激しさを物語っていた。
白銀の風景は、いやになるほど血塗れていた。
それは、喜ぶべき事実かもしれない。
色の抜けた髪に赤い外套、
かつて見た守護者そのものの彼は、
磨き続けた力を持って、理想への第一歩を踏み出したのだから。
正義の味方、衛宮士郎の旅路はここから始まるのだから。
既にルヴィアゼリッタの瞳は何も写していない。
ただ、幸せそうに微笑んでいた。
「……本当に、ひどい方。魔力が枯渇してしまいましたわ。
……責任、とって下さいまして?」
「……ああ」
ルヴィアゼリッタが、最後の力を振り絞って口付けをした。
不思議と嫉妬はなかった。
ただ、純粋な怒りだけを覚えていた。
最期の笑顔は、どこまでも妖艶だった。
舞い落ちる花弁のように、ゆっくりと崩れ落ちていった。
振り返った士郎と目が合った。
それで、いやが応でも理解した。
終わってしまったと。
この男の人生は決まってしまったと。
こいつは決して引き返す事なく、最後まで走り抜けてしまうのだろうと。
手の中の宝石をきつく握りながら、遠坂凛は言葉を綴った。
震えそうになるのを必死に耐えた。
「そっか、殺したんだ」
「ああ、殺した」
「そう。それじゃあ、あなたはわたしの手にかかって逝きなさい。
わたし達は恋人同士だもの。
だからせめて、あの丘に辿り着く前に、わたしが、この手で」
そこは、古ぼけた狭い部屋だった。
壁紙は貼られておらず、コンクリートの地肌がむき出しになっている。床も天井もそのままで、過去、誰かが手入れをしようとした意志さえ感じられない。
およそ、人が生活している匂いとは無縁の空間ではあるが、唯一、隅に置かれたパイプベッドとその周りだけは例外である。
「…………まったく」
微かに散らばった生活用品を眺めながら、ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトはため息をついた。見ると、レトルト食品のパックやシティーの地図にまぎれて、無骨な銃身が無造作に転がっている。
―――もうすこし色気のある生活は出来ませんの?
嘆いても誰も答えない。ロンドンの片隅、朽ち果てた安アパートの一室には、彼女以外の影などなかったから。
とりあえず小物をまとめながらルヴィアゼリッタは考えた。確か彼は家事全般を得意としていたはずだ。嫌いではないとも言っていた。それなのにこの有り様はどうだろう。あの男が少しその気になれば、この部屋だってたちまち見違えるはずなのだが。
……不毛な仮定である。正義の味方は忙しい。もし自分の為に使う労力があったなら、彼はそれを他人に分け与えるだろう。あの男、―――衛宮士郎はそういう在り方しか選べない。
一体いつからなのだろう。士郎がああなってしまったのは。二人が知り合ったとき、既に彼は正義の味方だった。犠牲をいとわず、切り捨てる事をいとわず、―――そして後悔に蝕まれ続けて。
ルヴィアゼリッタは知らない。かつて、極東の地で何があったのか。彼が何の為に戦い、誰の為に涙して、雨にうたれて何を誓ったのかなど。
「それでも」
過去を知らなくても、教えてもらえなくても、共に今を歩む事はできる。……そう信じて、彼女は今日もこの部屋に通ってきていた。
「負けませんわ。あなたなんかに。エーデルフェルトの名にかけて、いつか必ず更生させてやるんですから。だから、―――覚悟なさいませ、シェロ?」
ルヴィアゼリッタが振り返るのと、ドアが開くのは同時だった。帰宅した士郎は返事どころか一言も喋らず、疲れきった足取りでベッドに倒れ込む。あきれ顔で肩をすくめるルヴィアゼリッタなどおかまいなしに、彼の意識は沈んでいった。
「……もうっ。仕方ありませんのね」
慈しみ微笑みを浮かべるルヴィアゼリッタは、靴を脱がし、毛布をかけて頭を撫でる。既に士郎は泥のように眠っていた。覗き込んだ寝顔は意外とかわいい。これくらいは役得だと頬に口付けると、ほのかに―――。
ほのかに、汗と血糊の味がした。
全身の力を全て使い果たすような奔流を噴いて、ルヴィアの最奥で身震いした。
脳髄が軋む音が骨に染み入る。疲れが脱力となって燻り始めた。途端に重くなっていく体で彼女を潰してしまわないように、少し横にずれてからベッドに沈む。
呼吸が荒い。吐息が熱い。
見ると、ルヴィアは未だ喘いでいる。上下する胸で酸素を求めて。汗だくになった肢体は上気したまま震えていて。天蓋を眺める瞳は濡れていて。金の髪が扇状的に乱れて艶かしくて。そんなルヴィアがたまらなく愛しくて仕方がなくて、あまり残ってない体力を振り絞って抱き寄せた。
体温が直に触れ合い溶け合う。涙を溜めた瞳と目が合うと、優しく微笑んでくれたのが嬉しかった。思わず唇を奪ってしまったのも道理だろう。こんな健気な女性を前にして、男として狂わない方がどうかしてる。
「ルヴィア―――」
ギュッと抱き締めて頭を撫でる。きゃ、なんて小さく可愛らしい悲鳴が上がったけど、丁寧に無視して感触を楽しんだ。柔らかくて、暖かくて、いい匂いで繊細で。上半身を導いて胸板の上に乗せてみると、程よい重さが心地よかった。
「痛かったろ。ごめんな」
目で見ても細いと分かる肩は触れてみると折れてしまいそうで。豊かな胸の裏の背中はほっそりとして余りにも小さくて。ついさっき、純潔を散らした暴虐に彼女がどうやって耐えたのか、信じられなくなってくる。
それなのに―――。
「謝るなんて、卑怯ですわ」
どうして、ルヴィアはこうも強いんだろう。
「……シェロは後悔してますの? 私のような女を抱いた事」
まさか、と首を振る。
「では後悔しないでくださいませ。今、私はとても幸せなんですから。いいこと? 今度この件で謝ったら、いくらシェロでも許さなくてよ」
余りにも力強く宣言されて、俺は何も言えなくなった。乞われた通り口付けする。ルヴィアの味がして甘かった。
「もっと、ぎゅっと……」
お互いの背中に両腕をまわし、お互いの鼓動を与え合う。天蓋付きのベッドの上、一糸纏わぬ男と女。上に乗ったルヴィアの乳房が柔らかく潰れて、つま先まで絡み合う体温が楽しくて。
―――それは本当に、冗談なぐらい出鱈目に……。
「どうしましたの、シェロ?」
「ああ、幸せだなって。……いいのかな。俺、こんなに幸せで」
「むっ」
途端、ルヴィアの瞳に怒りが灯った。彼女の指がおもむろに迫って、俺の頬を思いっきり引っ張る。その細い指のどこにそんな力があるんだろうってぐらい強く強く。
「ひぃひゃい、ひひゃいひひゃい……」
「我慢なさい。私の怒りに比べれば、痛みなんて無いも同然なはずですわ」
ルヴィアの指は容赦なく、引っ張り伸ばしこねくりこねくり回し回し回す―――!
「本当に、いつまでたっても貴方って人は……!」
―――だけど、そうやって一通りやって気が済むと、一転してルヴィアは寂しそうに呟いた。
「やめてください。お願いですから、もう……」
「ルヴィア?」
「もう、他の何をしようとかまいません。例え浮気したって―――、怒りますけど。でも、それだって謝ってもらえば許しますわ。ですから、もう心を剣(てつ)にするのだけは止めてくださいませ」
それに、なんと言えば良かったのだろう。思い浮かぶのは誰かの顔。一番はじめに切り捨てた、一番はじめに裏切った、そして一番はじめに犠牲にした大切な人達。勝手な話だ。俺には彼女達を思い出す資格もなければ、忘れていい道理さえないというのに。
やっぱり、こんな俺が幸せになっていいはずがない、はずだったのに。
「幸せになりましょう、シェロ。こんな考えは勝手ですけど、幸せになる事こそ貴方の義務ではありませんこと? そして、どうか私を幸せにしてくださいな」
「詭弁だな」
「そうでしょうか?」
首を傾げるルヴィアにあわせて、胸がプルンと震えて揺れた。何となく、それを下から掬ってみる。だけど、今夜ぐらいは詭弁に騙されるのもいいのだろうか。ルヴィアの髪を梳きながら考えていると、頬を染めた彼女に囁かれた。なんでも、幸せになる為に欲しいものがあるらしい。
「……シェロ。まずは私、貴方の赤ちゃんが欲しいですわ」