合宿前の最後の部活、金曜日。思い返せば既にここから予兆はあった。
通りすがった部員のうちのいくらかが、ちらっとこちらを振り返って
ひそひそと顔を寄せ合ったりだとか
自分がパート練習中に見まわると、不自然に会話を切り上げる部員たちだとか
全く揃って無い、心がここに在らずな演奏だとか。
だけれども、理胡はその様子を不審には思っても
その『答え』に行きあたることは無く。
そして、そのまま彼女は合宿開始日を迎えて―驚愕することになる。
「……………部員が、半分以上来ない」
音楽室内を見回した理胡は青ざめた表情で呟いた。
合宿当日。
夏休み第二週目の月曜日から始めることになっていた、学校泊まり込み強化合宿は
全員参加で間違い無かったはずだ。
そして、日程の連絡もきちんと出来ていたはずだし
先週の金曜日に、きょういっちゃんからももう一度アナウンスしてもらった。
だから、部員が来ないはずはない。
事実、三分の一ほどの部員は音楽室内で気まずそうに待機している。
だけれども。
時刻は、午前十時半。
合宿の開始時間は午前九時から。
遅刻しました、で済む様な遅れではない。
一体何が。
何が起こっているのか分からず、うろたえる理胡相手に
きょういっちゃんが気遣わしげな視線を向けてくる。
だが、それだけだ。
何をするわけでもない。
きょういっちゃん頼りない人だから。
思いながらも何もしない彼に怒りを募らせ、理胡は唇をかみしめた。
こういう時こそ、部長の自分がしっかりしなければ。
極冷静に譜面のチェックをしている副部長は、手伝ってくれる気はなさそうだし。
顧問の次に手伝ってくれるべき人物、豊臣秀吉が自席で譜面のチェックをしているのにもイライラする。
こういう時に、部長を補佐してくれるのが副部長なのではないのか?
半ば睨みつけるように彼を見ると、秀吉は理胡の居るような視線にやっと顔を上げて立ち上がり
こちらに向かって歩いてくる。
ついでに、半兵衛と三成が理胡が秀吉を睨みつけたのに気がついて
睨み返してくるけれども、無視だ無視。
お前らを構っている暇はない。
非常事態に、いつもは相手をしてやる者どもにノーリアクションを貫き通し
理胡はまず目の前まで来た秀吉の胸を指で押した。
「…あのね豊臣。こういう非常事態においては、自席で譜面読んでないで
部長の私を補佐してよ。お願いだからさ」
「非常事態?何がだ。やる気の無い者が来ていないだけに過ぎぬ」
「その来てない人数が問題なんだって。半数超えてるんなら、何か手を打たないと意味ないっしょ」
あっさりと言い捨てた秀吉に、なるほど、こういう考えをしていたから呑気に譜面を読んでいたのか
と納得をしつつ、理胡が首を横に振って否定を示すと、秀吉は考えるそぶりもなくごく当たり前に口を開いて。
「では、電話を掛けよ」
「…は?電話?」
「お前の友の市川瑞穂にでも電話を掛けてみたらどうだ。
全員がグルならば、理由ぐらいは把握しておるに決まっている」
「あ、なるほど」
秀吉の言葉に、理胡はぽんっと手を打った。
そして気まずそうに音楽室で控えていた部員たちも、あっという顔をして
秀吉を尊敬のまなざしで見る。
あぁ、そういや秀吉派が多いもんなぁ。
その行きすぎた視線にぎょっとしたものの、シンパばかりだからと納得をして
理胡は携帯をとりだし電話を掛ける。
プルルという、短い電子音の後、通話が始まった合図の、ぷつりと短い音がした。
「市川?」
『………』
無言。
相手からは何も返答が返ってこない。
理胡はふと目があった藤井幹江に手を振ってみる。
余りに彼女が不安そうな顔をしていたので。
笑顔で手を振られた幹江は、一瞬驚いた表情をしたけれども
ほんのりと笑って手を振り返してくれた。
それに、ほっとしながら、理胡は再度友人の名を呼び掛ける。
「…市川?」
『……………合宿、始まってる?』
しばらくの沈黙の後、市川が当たり前の問いかけをした。
「うん。思いっきり。あんたなんで」
それに眉をひそめつつも頷いて、理胡がなんで来てないの。と質問を続けようとすると
『何人来てるの?』
…その覆いかぶせてきた質問に、理胡は馬鹿だこいつ。と
語るに落ちた質問をしてきた友人に対して率直に物思った。
それは皆が共犯ですと自白しているようなものだ。
「…割と来てるよ」
『え?!嘘、話が違う!!』
だから、嘘をついてきょとんとした声音で言ってやれば
向こうはあからさまな動揺を声に乗せて、焦りのままに電話口で叫びを上げた。
うるせぇ。
だけれど、材料はそろい始めたから、立て直す隙間も与えず問詰めきろうと
理胡は詰問口調で質問を重ねる。
「…………あのさ、何で来てないの?話って何」
『え、あ、いや…………あの………』
待つ。
暫く、待つ。
だけれども、電話の向こうの市川は躊躇い、無意味な動揺の声を上げるだけで答えを話そうとはしない。
「電話で話さないんなら、家まで押し掛ける。十秒以内」
『え、え、えぇ?!』
それにいらっと来て、理胡は子供のような物言いで、子供のようなことを言った。
いらっとする!
なんで自分がこんな、しち面倒くさいことをしないといけないというのか。
何を思ってかは知らないが、部活ぐらいさっさと来いよ!
思えば思うほど、怒りが胸からこみあげてきて、理胡は答えなかったら本当に家に行ってやろうと思った。
確か市川瑞穂の母親と父親は揃って教師で、非常に厳格な人間であったはずだ。
彼女がそれ故の愚痴をこぼしているのを、理胡は何度も聞いた。
そこから推測すれば、部活の合宿をさぼったと知られれば
めちゃめちゃに彼女は怒られるはずだ。
だから、理胡は半ば本気でカウントダウンを始める。
「じゅう、きゅう、はち、なな」
『ま、ま、待って待って!!』
「ろく、ご、よん」
『話すから!うちは駄目!無理!怒られちゃう!!ただのボイコットなの!!』
「………なんだと…?」
そして、市川は厳格な親が非常に怖いと見えて、先ほどまで躊躇っていたくせに
あっさりと震える声で暴露を始めた。
が、その内容があまりに信じがたいものなので、低い低い声が出る。
…ボイコット?何のために?
その疑問が声に出ていたのか、それともはたまた暴露してしまったからには全部ぶちまけてしまえという衝動の物なのか
市川は聞いてもいないのに、べらべらと理由を喋りたくり始めた。
『ていうか、あのさ、豊臣が藤井さん泣かせたでしょ?
それでみんな盛り上がっちゃって、こんな厳しい練習についてきてる人間が
一日事情があって休みたいって言ったのを、考慮しないって言いきる奴なんかの言うことが聞けるか!
みたいになっちゃってね?』
「……………」
『それで、ボイコットしようって、みんなで』
…みんなで。
その単語に青筋を一本立てて、理胡は市川の言葉を遮った。
聞くに堪えん。
「うん。分かった。つまり豊臣一派にあんたらは不満があるわけね?」
『うん…まぁ…』
「その気持ちは分かった。話はこっちでつける。
明日から出てくるように、休んでる奴らにあんたは言っておいて」
気がつかれないように、藤井幹江をちらりと見る。
彼女はしっかりと音楽室の椅子に座って、部活が始まるのを待っているのに
その彼女を差し置いて他の奴らが休むのは、許されるものではない。
だから、出てこさせる。
出てこさせるために、こっちの話もつける。
部長だから。
前部長に体よく押し付けられただけの役職を果たすつもり満々で
理胡がそう言うと、市川の慌てた声が電話口から聞こえてくる。
『え、待って、話しつけるってなにするの』
「話しつけるのは話しつけるの。いいから。三年のくせにそんなガキっぽいことしてんだから
市川。あんた迷惑の責任ぐらい取りなさいよ。
…藤井、出てきてるんだしさ」
潜めた声で、付け加えると
『………………………分かった』
はっと息をのむ気配が伝わってきた後、小さな声での了承が返り、すぐに電話が切れた。
理胡は、暫く通話の終わった形態を見つめた後、元のポケットに仕舞い。
それから、くるりと向き直って、ひたりひたりと一人ひとり目を合わせながら、渦中の人物の名を呼んだ。
「と、いうことで豊臣。竹中、あとついでに石田。
あんたら私についてきてくれる?話があるの」
BSR高校には水泳部は無いから、夏休み中プールは全くの無人である。
だから、そこを話しあいの場所に選んで、理胡はプールサイドに仁王立ちしながら
豊臣秀吉、竹中半兵衛、石田三成らへ向かって、口火を切る。
「…………今回、部員が来てない件については
豊臣一派のやり方が気に食わない、抗議の意味のボイコットであると
参加者の一人である市川から証言がとれました。
夏休みの練習に文句も言わずについてきていた藤井幹江を泣かせて
休むことでの考慮を、きちんとした事情があるのに行わず。
その辺りがどこまでも不満だ。っつーことらしいけど。
…で、これについてあんたら何か言うことある?」
話している間、全く表情を変えない三人相手に、言っても無駄だろうとは思ったが
「何かとは何だ」
秀吉が、そう言うのに、理胡は頭痛がする思いだった。
それをしれっとした顔で言える秀吉は、大変秀吉らしいとは思うが
いや、多分半兵衛に聞いても三成に聞いても、こういう回答が返ってくるんだろうけど。
でも、それを聞かされる真っ当な神経をもったこちらの身にもなれ。
「だから、さぁ。自分達のせいでボイコットされたのに
何か申し開きは無いの?って聞いてるのよ、私は。
何かとは何だ、じゃないでしょ。何か無いの」
「無い」
「……………なんだと?」
さすがにここまでいえば何かあろうと思っていなのにも関わらず
無い。というすっぱりとした回答に、理胡は目を剥いた。
こんだけの事態になっても無いだと?!
そしてその理胡の驚きに、こいつには説明しないと分からないと思ったのかどうなのか
秀吉は、仕方なさそうな顔をして、こちらに向かって説明を付け加える。
「我は我の最善を示した。それがいかぬ・不満だというのなら
理由と共に我に対案を提示するべきであった。
だというのに、それもせず、勝手に部活を行わないような輩など
我が吹奏楽部には必要ない」
「全く秀吉のいうとおりだね。意識の問題だよ、これは。
全国大会、コンクールを真剣に目指しているのならば
さぼるなんて馬鹿な真似はしないだろう。
それを行って、しかも僕らには何の文句もなく。
これは、卑怯者の行いとしか僕には思えないね。
何か言いたいことがあるのなら、僕らに直接言うべきだ。
それをせず、ただ周りで盛り上がってこのような行動を起こす者など、引き留める気すらしない」
「………と、言った所で楽譜での人数に足りなくなったらどうするわけ」
…なるほど。言っていることは分からんでもない。
頭が良い上に、責任感もあって、きっちりした行動を好むこいつらなら
ボイコット&サボタージュをした部員たちを切り捨てたくなるのも、まぁ、頷ける。
そっちからしてみればそうだよね、と。
だけれども、全国大会、むしろ八月終わりにある県大会があるのだから
その感情で終わらせていては、いかんだろう。
合奏を行う楽譜によって、演奏の人数というのは変わってくる。
今回選んだ楽譜は、演奏に必要な最低人数こそそこまでではないものの
人数がいなければ、音に厚みが出ず、上手い演奏に聞こえない部類の楽譜だ。
それを考えれば、人数がいたら居ただけ良いに決まっている。
だから、ボイコットした部員も呼び戻そうよ。
そっちのその気持ちも分かるけど、向こうの気持ちも分からなくはないでしょう?
それに、折角今まで一緒にやってきたんだし。
県大会も、全国大会も、皆で一緒に行こうよ。
…そういう流れに持っていきたい理胡だが
「今居る人数ならば、演奏に支障はない」
さくっと、三成がそれの邪魔をした。
彼の言葉に、秀吉も半兵衛も頷く。
確かにそれはそうだけど、でもそれは違う。
「………確かにギリっギリっ演奏するだけなら足りるかもね。
でも、音に厚みが出ない。おまけに減らない保証、無いよ」
だから、言ってやる。
最悪の事態、今居る部員たちも他の人間に釣られてサボタージュする可能性があると。
そうすれば、今でぎりぎりなのだから、演奏すらできなくなるぞ。
まぁそんなこと、半兵衛や秀吉が気が付いていないわけがないのだろうけども。
そしてその理胡の予想通り、彼らは表情一つ動かさず、理胡の言葉にもっともだと首肯する。
「その場合非常に不本意だが、呼び戻すしか他あるまい」
そして、秀吉は続けてそのように言い、その言葉に理胡はあからさまなほっとした表情を浮かべた。
なんだ、その場合にはどうにかする気があるのか。
なら、そのどうにかをもっと早くにしてもらうだけで良い。
「…あっそ。謝る気があるんなら、それを今発揮して」
「謝る。何故。場合によっては心に嘘をついてでも謝らなければいけない場合はあるだろうが
この場合には、僕はそんなことはしたくない」
だけれども、理胡の言葉を半兵衛が遮って否定するものだから、彼女は訳が分からず彼らを見る。
遮った半兵衛は当然のこと、今さっき呼び戻すと言った秀吉も、三成も
皆一様に理胡を不可思議そうな顔をして見ていた。
…まるで、理胡が全く違うことを言っているような顔だ。
え、謝る以外にどうやって呼び戻すというのか。
理胡は思わず眉をひそめながら、その疑問を口に出す。
「じゃあ、どうやって戻してくんのさ、豊臣、竹中」
「そこは話術かな」
「…………………あっそ」
…確かに、竹中半兵衛の話術はすごい。
学年主任を丸めこんでみたとか、大の老獪な大人相手に引けを取らないこいつの話術があれば
なんとか謝罪もせずにボイコットした部員たちを説得できるか。
いや、そうならもっと早くやってよ。
今とか、もっと言うならもっと前から。
多分、今さぼっている類の人間は、彼からしてみれば信じられない人種で嫌いなんだろうけど
部活上の仲間なんだし、言葉を尽くしてくれたって。
そのように、色々と思う所はありながらも、理胡は納得して。
そしてそれならそれを今やってくれ。と頼もうとした時
「それと、どうしても聞かないようなら、色々と手はあるだろう」
半兵衛が、更に言葉を追加した。