さてさて。季節は夏。
夏休みが到来しますよ。
バカンスですよ。
と世間さまが騒ぎ始める時分だ。
だけれども、運動部ならびに吹奏楽部など、夏・秋口に大会を控えている部活の人間にはそんなもの関係無い。
運動部はどういう日程を組んでいるのか知らないが、我が吹奏楽部は
五日練習二日休みの、え、それ完全に学校ある時と同じですよね?スタイルで
絶賛猛特訓に励む所存である。
おまけに何日か学校に詰めて合宿を行うというのだから、根の入りようがここだけでも分かるだろう。
まぁ、ここまでは去年もやったことだ。問題無い。
ただし、今年は去年は休みだった盆まで練習で、かつ合宿の日程が二週間と長いのだけれども。
………要するに、ほぼ休みなしになるっていうことだ。
「そ、ん、なの!俺らの予定はどうすんだよ!!別に俺らは吹奏楽だけやってるわけじゃねー!
宿題する暇も無けりゃ、遊ぶ暇もねぇだろうが」
「ていうか、盆にいっつも墓参りに行ってんだけど。その辺も考慮してくれないわけ?
おばあちゃんに会えるのそこしかないんだけど」
まぁ、こういう反応だわな。普通。
顧問のきょいっちゃんが発表した夏休みの日程に、怒号の飛び交う音楽室内を冷静に見ながら、理胡は頭をかく。
さすがにやり過ぎかなぁと、理胡とて思う。
だが、コンクールは間近なのだ。
手加減は出来ない。だからこそ理胡は三人衆が持ってきたスケジュールに否も言わず、通した。
ゴールデンウィークのは、梧桐や高橋達に言った通り、去年保護者からクレームが入った実績を利用して
休みを何とか作ったけれども、今回のは、駄目だ。
大会が近すぎる。
理胡は部員と三人衆の潤滑材であるけれども、その潤滑剤の役を果たすよりも
大会に向けての研鑽の時間を今回は選んだ。ただ、それだけのこと。
だけれど、この収集はつける気はあるのか。無いなら私が出ないといけないんだけど。
ちらり、と横目で三人衆を理胡は窺う。
部長の座についているとはいえ、理胡はこういうスケジュールを組むことはなく
そして、顧問のきょういっちゃんもそれは同じくだ。
だから、この日程を決めたのは、いつも通り豊臣・竹中・石田の三人なのだけれども。
だけれど、それを皆に周知されているにも関わらず、彼らはこれだけの大ブーイングが起こっているというに
ごく平然とした顔をしていた。
いい加減、気まずそうな顔をしても良いはずなのだが。
少しは音楽室の教卓の前でうろたえているきょういっちゃんを見習うと良いのに。
おたおたと怒鳴る生徒たちに困っている情けない顧問を見て
それから理胡がフォローをしようと口を開きかけたその時
「下らぬ」
全てを圧すような声がした。
押しつぶすような印象の声に、部員たちが言葉を止めてそちらを見やれば
発言した秀吉は反対に部員全員を睥睨する。
「下らぬ。壇上に立ち金を貰うが至上。が、それ以外は全て無価値なものにすぎん。
それを望むのであれば、そのように騒げ」
数で勝る部員たちがあっという間に圧せられるのが見て取れた。
これだから。
豊臣秀吉にはその視線一つ、言葉一つで全てを黙らせられるような何かがある。
従わせるカリスマ性、というのだろうか。
だから、去年弱小から強豪へと押し上げた時にも
秀吉は入部していきなり部を引っ張り、そこまで押していくことが可能であったのだ。
「いかにしても、勝たねば意味など無いわ」
どこまでも上からの物言いで、秀吉が言葉を吐く。
それに満足げな様子で半兵衛が頷き、三成が憧憬の眼差しで秀吉を見るけれど
一部の信者めいた者たちを除いて、他の部員たちは頭から押さえつけられた不満を目に宿しながら
それでも反発すらできずに黙りこくるのだった。
さぁ、嵐が来るぞ。
―まずは、雨が降る。
「なぁ、今日花火大会だったよな」
「そうだけど、無理でしょ。練習がいつまであると思ってるの」
「二十時半です。くっそー……デートしてぇ…」
「誰とすんのよ、あんた」
夏休みに入った頃、三年生の部員がこっそりと笑いながら愚痴を零しているのを見た。
「………さすがに、きっちぃなぁ」
「…なぁ、土曜日も練習になるかもって、聞いたか」
「げ、なんだそれ。さすがに嘘だろ」
「えー…でも豊臣がきょういっちゃんに言ってんの見たって奴がいたぜ」
「誰よ」
「田中先輩」
「あーだめだめ。あいつは無い。あいつ豊臣大っ嫌いじゃん。
生意気だーとか言って。信用できねー」
「あー。ま、なー」
「でも、そんなになったら、さすがに俺豊臣殴るわ。
無理ついてけねーって」
「んー……あいつのおかげで上手くなってさ、コンクールに出ても恥かかねぇのは嬉しいけど
俺らも、吹奏楽だけやって生活してるわけじゃないしな」
「…んだ」
一週間が過ぎた辺りで、二年生が下らぬ噂に眉をひそめ、ため息を零したのを聞いた。
―そして風が吹く。
理胡は、現場を見たわけではない。
だけれども、八月に入り、合宿が行われる数日前、このような会話があったそうだ。
秀吉と同じく二年の藤井幹江が、秀吉の前に立ち、恐る恐る切り出す。
「あの、豊臣君。私、お盆に家族旅行に行くから練習に出れない日があるんだけど
そういう時って、レギュラーの考慮はしてもらえるん…だよね?」
幹江はトロンボーンでソロを任される腕前だ。
だが、吹奏楽部では一日体調不良などの理由もなしに休むと
コンクールメンバー・レギュラーを容赦なく外されることになっている。
であるから、一応、家の都合だし許可してもらえるだろうと思いつつも
秀吉に伺いを立てに来た彼女は、不可思議そうな顔をした秀吉が口が開くのを待って。
「何故だ」
愕然とする。
何故?何故って。
「………え、いやだって、私が言いだしたことじゃなくて
お母さんたちが言いだしたことで、家の都合だし」
自身では当たり前のことを当たり前に言って、当たり前に受け入れてもらえることを期待していたのに
それが叶わなかったがために混乱を覚える幹江をよそに
秀吉はさも当然という顔をして、言うのだ。
「断れば何も問題無かろう。それをせぬ人間に対して我が何故考慮をせねばならぬ。
真実コンクールに出たいのならば、断れば良かろう」
「む、無理だよ!」
「ならば、諦めることだな。所詮はその程度が貴様の限界よ」
下らぬと言いたげな秀吉の調子に、幹江の目が大きく開かれて、それから彼女はばっっと顔を背けて踵を返した。
そして、その事が起こった次の日、理胡はその事を耳に挟み。
ついでに、あの子、ショックで泣いてたんだよ。という情報を
親切めかした顔で教えてくれた市川から聞いたのだった。
「なぁ、二年の藤井先輩泣かされたんだって」
「あ、あたしも聞いた。藤井先輩トロンボーンで一番上手いじゃん。
容赦ないよね…」
「だよね。ていうか、一日休むぐらいいいじゃんって思わない?
二週間も合宿するし、意味分かんないんだけど」
「同感」
その噂を始めたのは、誰であったのか。
まぁ、誰でも良い。
顔の無い誰かだ。
当事者でない、無関係な誰か。
だけれども、彼・彼女らは無関係なくせして、こっそりと無関係な話を囁き続ける。
「もうすぐ合宿じゃん。この状態でやるわけぇ?」
「…いや、不満なの俺らだけで、豊臣たちは普通にしてんだから、やるんだろ」
「…………ねぇ、藤井ちゃんに、あの人ら謝ったのかな」
「謝るわけ無いだろ、豊臣たちだぞ」
「だよね。ていうか、不満なら辞めろ、ぐらい逆に言ってそう」
「…否定はしないけどよ」
噂噂噂。不満は噂を倍加させ、ついでに尾ひれをつけてくれる。
「ねぇ、知ってる?豊臣先輩、藤井先輩を泣かせた時
不満なら辞めろって言ったらしいよ」
「マジで?!鬼だな、あの人…」
「ねー…ついてけないし」
事実とは違うものが広まっていくけれども、是正の動きは見当たらない。
人は、見たい事実を見る生き物だ。
己の意に沿う噂なら、たとえそれが事実無根のことで
被害者を含めた当事者達を傷つけていくものであっても、止まらない。
最初は不満なら辞めろという話がついて、貴様の代わりなどいくらでもいるという言葉が加わって
どんどん、噂はセンセーショナルになっていく。
そしてその噂を聞いた者は、豊臣秀吉一派への不満をより一層強く抱くようになるのだ。
流れは、止められない。
年下のくせに生意気とか、休みたいのに休ませてくれないとか
休んだらレギュラーを外されるとか。
そういう諸々の不満を抱く要因が重なった挙句に、女の涙。
誰かが泣かされれば、人はその泣いた人間の方に同情を覚える。
例え泣いた方の人間に非があっても、の話である。
その上今回の場合には明らかに豊臣秀吉側に非があるのだから
豊臣秀吉を、庇ってみる?それとも藤井幹江を庇ってみる?
その二つの選択肢のうち、事態を知った人間の心がどちらに傾きやすいかなど、考えずとも分かる。
かくして部員たちの不満は最高潮に達し、とある話が、反豊臣派の間で広まってゆくことと、なるのだ。
だけれども、それは反豊臣ではなく、かつ部長の理胡が知ることは無く
彼女は落ち込む幹江に向かって、なんとか休んでもレギュラーのままで
いられるように説得するからと、彼女を励ましている最中であった。
「じゃあ、豊臣には私の方から言っておくから」
「…はい」
「家族サービスは、しに行かんといけないよねぇ。パトロンに援助切られちゃう」
「………ありがとうございます」
冗談めかしてにこりと笑えば、目の前の後輩は気弱気な笑みを浮かべた。
その様を見て、理胡はちょっとだけ、前部長が、私に部長職を引き継がせたのは良かったのかな、と思う。
自分じゃなくても別に潤滑材は務まるのだろうけれども、
今落ち込みきっていて彼女に、気弱気でも笑みを浮かべさせたのは、自分なのだから。
そうして彼女は、理胡は安堵する。
落ち込んでいた幹江を浮上させるきっかけを作ったことで
もう大丈夫。
後は藤井幹江が元気を取り戻せば、嫌な空気も払拭されることだろうと。
甘く。
あぁ、だけれども。
彼女が色々なことに思いを巡らせられていないのは、彼女がまだ年若いからだろうか。
それとも、そこまで気が回らないからだろうか。
当事者が持ち直した所で、周囲というものが存在して
しかも時として周囲の方が、当事者よりもよほど抱いた感情を引きずるものなのだと
思い至らないのは、どちらの理由なのだろう。
しかし、兎にも角にも彼女はこれで解決できた気になっていて
だから、どうしても、どうにも、これから起こることを
防ぐ努力すら出来やしなかったのだ。
………さぁ、前準備は整った。
嵐が来るぞ!