楽器を演奏するのに必要な物は何か。
音で表現をするための技術力か。
それとも才能か。
いや、それらも大切だろう。大事だろう。欠かせないだろう。
だけれども、それ以上に必要になってくるのは、体力だ!
肺活量だ!
気合だ!
根性だっ!
というわけで、部活である。
吹奏楽というと、どうにも室内でプーパラ楽器を演奏してばかりのイメージを
一般の人は抱きがちだが、それは違う。
吹奏楽部という部活は、一言でいえば、文化系体育部だ。
毎日の部活は体力をつけるための走り込みから始まり、肺活量を増やす為の腹筋をし
各パートごとの厳しい縦社会を辛抱しながら、楽器を吹く。
これを文化系体育部といわず、何とする。
楽器を演奏する、という優雅なイメージと実情は、かけ離れているのだ。
故に、ほっそりとした影のある芸術を嗜んでいそうな美少年・美少女などというのは、吹奏楽部にはおらず
(そもそも楽器は五キロ十キロ普通にあるので、力がない人間は吹奏楽をやることすら不可能だ)
居るのはごっつい兄ちゃんやら、いかにも体力がありそうな力強いお姉ちゃんのみ。
そうして、その中には無論理胡も含まれる。
「腹筋百回が終わった人から、パート練習。
その後は、五時になったら一回合奏の予定だから、十分前には音楽室に戻ってきて。
じゃあ、始め」
「はい!」
一日の練習スケジュールは、秀吉が組んでいる。
だから、理胡がやることはそうそう多くないのだけれども、さすがに号令をかけるのは部長のお勤め。
なので、他人が組んだスケジュールを、しれっとした顔で部員達に言い渡し
理胡は音楽室のそこかしこで腹筋を行い始めた部員達に混ざり、自らも腹筋を行い始める。
さすがに二年も三年も腹筋を毎日行っていれば、百回程度、軽い。
それでも手を抜かず、きちんと綺麗に床に背をつけて、腹が膝につくまで腹筋を行うのは
これが基礎になり、後々の演奏に生きてくると理胡が知っているからだ。
楽器が好きだ。
音を出すのが好きだ。
演奏するのが、好きだ。
だから上手くなりたい。
上手くなれると楽しい。
その一念があるからこそ、理胡はきついきつい部活に耐えて、夢にも思わなかった部長職を懸命にこなしている。
だから、手を抜かない。
手を抜けば、途端に演奏にそれが出てしまうのを、理胡は良く分かっているから。
いや、一日二日じゃあ、腹筋は衰えないとも。
無論のこと。
そうじゃなくて、心が、演奏に出るのだ。
さぼりたいとか、練習面倒くさいとか、そういう投げやりな心は必ず演奏に出る。
そうしてそれは、耳のある人間ならば、すぐに分かってしまう。
だから、やらない。手を抜かない。
…好きなことには、真摯でいたい。
誰もが大なり小なり思いはするけれども、貫くのは酷く難しいそれを、いとも容易くやりぬく。
それが、理胡の一番の武器だ。
故に。
秀吉がは理胡が『そう』だから彼女にどことなく優しくて。
周りの人間も理胡が『そう』だから、なんとなく、秀吉派ですらも明確に反発することはなく従う。
だって、目立つだろう。
パート練習を早くしたいがために、おざなりに腹筋を終わらせるものも少なからずいる中
ぴっちりと床に背をつけ、膝に腹を当てる動作を繰り返す、生真面目に腹筋する女の姿というのは。
音楽室の隅で、そうやって今日も腹筋をする部長をちらりと横目で見ながら
部員たちがそれぞれのパートの練習場所へと散らばってゆく。
同じフルートのパートの者たちが、ひらひらと手を振って先んじてゆくのを横目で見ながら
きっちりと腹筋すること百回。
「よっこいしょっと」
おっさんじみた掛け声を掛けながら、理胡は立ち上がりちらりと時計に視線を走らせた。
よし、今日もいつも通り。
他の部員たちが腹筋を終わらせる平均時間よりも、三分遅い時間が彼女の腹筋終了タイムだ。
そして、その三分の遅れは、練習場所までの移動時間で埋めることとしている。
「さて、急がなくっちゃ急がなくっちゃ」
急ぐウサギのようなセリフを吐きながら、少しでも練習を多くするため
彼女は、自らのパートの練習場所へと駆けだした。
そうして、腹筋を終え、パート練習を終え、各パートごとに息を揃えたならば
その後に待つのは、いよいよ合奏である。
合奏と、一単語で言ってもその難易度というのは高い。
いや、ただ『楽器を奏でる』だけならば、楽器を吹けば、叩けば良いだけだ。
だけれども、合奏、合わせるということに主眼をおけば、その難しさは跳ねあがる。
二十人、三十人の人間がそれぞれ一つの曲を演奏するのだ。
難しいのは、当然。
だけれども、一つを演奏出来た時の達成感、爽快感は一人で演奏するのとは比べ物にならない。
「じゃあ、始めるぞー」
きょういっちゃんと呼ばれている、顧問がタクトを持つ。
それに、一斉に音楽室に集合した部員たちがざっとそれぞれの楽器を構えた。
あぁ、始まるんだ。
いつだって、本番じゃなくたって、理胡はこの一瞬が好きだった。
演奏が始まる前の緊張が、心地よい。
だけれども。
演奏が、始まる。
今回コンクールで演奏することにしているのは、審査員受けも考えて
アップテンポの派手目の曲を皆で選んだ。
始まりは、少し穏やかに。
だけれども、すぐににぎにぎしく。
騒ぎ立てるような、聞いているだけで楽しくなるような曲は、演奏していて楽しい。
だけれども、ずっとそれでは聴衆は飽きてしまうから、
サビの前で、ふっと力を抜くように、フルートソロの、静かな部分がある。
部長ということと、あとは実力でそのソロ部分を演奏することになっている理胡は
丁寧に、曲に体を馴染ませるような感覚で音を奏でつつも、二小節、一小節と近づいてくるサビを思った。
演奏前の、一瞬の緊張感が、好きだ。
だけれども。
木管の美しいたおやかな調べが、終わる。
ソロがある分、フルートのサビへの入りは三拍程遅れるから、少しだけ口を離したその一瞬。
右から左から前から後ろから、音が響いた。
クラリネットが、トロンボーンが、オーボエが、トライアングルが、合わさって一つの音を奏でて行く。
それが堪らなくって、ついついにやつきながら理胡もまた、フルートを遅れて奏で始めた。
あぁ、サビを演奏するのは、いつだって堪らないな。
いっそ変態じみているが、理胡はこの一瞬が好きで好きでたまらないから
吹奏楽をやっていると言っても過言じゃない。
何十名といる人間が、ただ音楽のことを考えて、この演奏する曲のことだけを考えて
懸命に演奏をする、間に余計な思考を入れる隙間の無いこの何十秒かが
理胡にとっては至高の時間と呼べる。
演奏には心が出るし、全てが、出る。
手を抜けば鏡のようにそれが表れ、手を抜かなければ、その証拠が表れるのだ。
今日の演奏は、まだ練習量が足りないせいで荒削りではあるけれども
部員全員が県大会、ひいては全国大会だけを考えているということがよく表れていて
理胡は演奏を行いながら、あぁ、幸せだなぁと、うっとりと目を細めた。
理胡という女は、吹奏楽がこのように、好きで好きでたまらなく
それだから、面倒極まりない潤滑剤の役を仕方なくとはいえ、行えるのだ。