「秀吉。君は悔しくは…いや、つらくはないのかい」
竹中半兵衛は、豊臣秀吉の幼馴染だ。
隣家に住んでいる彼と、夕食後に今後の部活のスケジュールについて
ミーティングを行うのは、既に日課となっている。
その時間の中でふと、空いた一瞬があった。
そしてその隙間にふと心を零すように半兵衛が言った言葉を聞いて、秀吉は無言で瞬く。
意外だったのだ。
彼が、何を指してそう言ったのかは分かる。
長い付き合いだ。
竹中半兵衛という人間は、心を許した人間には実に優しい。
であるから、その優しさで、去年一年間文字通り寝食を削って心を砕いてきた部活動で
部長に選ばれなかった、ということで秀吉が傷ついていないか、気遣っているのだろう。
だけれども、それは無用だ。
いや、無用だということすら、この頭の良い友は分かっているのだろうが
それでも問わずにはおれなかったと言うことか。
考えてすぐ、無用だと口に出しかけ、それを秀吉は寸前で思い直した。
自分が半兵衛のことを分かっているように、半兵衛もまた自分のことを分かっているはずだ。
無用だといううことぐらい、彼には確実に理解できているに違いない。
それでも尚、今言うたのは。
理胡、という特にリーダーシップがあるわけでもないただの部員を部長として任命し
秀吉を副部長とすると通達してきた前部長に対して、己以上に憤っていた半兵衛の様子を思い出し
秀吉は微苦笑を浮かべ首を振った。
「いいや。心配してくれるな、半兵衛。我は、我らが選ばれなかった理由を良く理解している」
「それは、僕だってね」
秀吉の否定に、半兵衛が首を僅かに傾ける。
そしてそのまま
「ただ、僕らが僕らの目的を果たすのには、役職というのは有用だった。
そこは残念に思っているよ」
穏やかに、納得しているよ。と含ませて、言葉を紡ぐけれども
その実、竹中半兵衛が、未だ吹奏楽部の部長・副部長職について納得していないのは火を見るよりも明らかであった。
なにしろ、理胡に対しての態度が悪すぎる。
まぁ、半兵衛の態度は、五割程度、アレにも責任があるであろうがな。
アレで指すのは、無論理胡のことだ。
本来であるならば、彼女は前部長に部長職をいきなり押し付けられた、いわば被害者といって良い立場なのだが
本人を目の前にしていると、そのようなことは全く思えなくなるから不思議だ。
………なにせ、気が強すぎる。
半兵衛とのやり取りだとて、かなりキツイ言葉を半兵衛はかけているはずだ。
少なくとも、秀吉にはそう見える。
だから、そのやりとりでしおれでもすれば、半兵衛も罪悪感を覚え、止めるだろうに
言い負かすから、半兵衛が引くに引けなくなるのだ。
やり方がまずすぎる。
自分たちも大概下手くそだが、それに負けず劣らずある意味理胡も下手だ。
ただ、この竹中半兵衛相手に引かず勝つという点は、我は評価したいがな。
そんな者、滅多と居らぬ。
滅多にいてたまるかということを考えつつ、秀吉が顎をさすると、もみあげに指先が当たった。
その感触に不愉快さを覚えながら、秀吉は自分の代わりに部長に選ばれた理胡という女を思う。
先ほども思ったことだが、理胡、という名前の彼女にはリーダーシップは存在しない。
どちらかと言えば、中間管理職向きだろう。
今までの働きを見ていると、彼女は上と下との意見を聞いて、その間を上手く取りまとめるのが得意に見えた。
それを良くあらわしているのが、この間の昼休みの出来事だろう。
市川という名のトランペット吹きの意見を聞いて、上手く自分の良い風になるよう誘導をした。
あの様を見て、秀吉は密かに感心し、そして納得したのだ。
あぁ、なるほど。
埋没していた者が部長に選ばれたわけは、これであったかと。
豊臣秀吉、竹中半兵衛のやり方は、ワンマンと呼ばれるにふさわしいものだ。
人の意見は聞かず、振り落ちそうなものは助けず、どこまでも走っていくだけ。
そこを前部長は危惧して、振り落ちそうなものを出来るだけ救い上げ
そして秀吉たちへの反感を最小限に抑えるため、彼女を部長に任命した。
それを、秀吉はあのやり取りを見て理解したのだ。
思えば前部長は、まだ入学した当初の秀吉達が立てた、部の再生のためのスケジュールを
『良いと思うよ』の二つ返事で採用し
徐々に徐々に部員たちが不審に思わぬようゆっくりと権限をこちらにまかせ
自分は調整役として動くようになっていたのだから、大した逸材だったのであろう。
二つも年下相手の人間、しかもほぼ面識がない人間がいくら優れた事を言ったとしても
それを素直に聞き入れられる人間は少ない。
もうすっかり部活を引退して、部室にも顔を出さなくなった前部長を
少しだけ思い出しながら、秀吉は、己が入学した当時、彼が部長であった幸運を思った。
彼が部長で無く、非・協力的な人間が部長であったとしても
秀吉も、半兵衛も諦めることなくBSR高校の吹奏楽部を全国大会まで進ませるよう邁進していたとは思うが
その進行スケジュールは、現行と比べれば遅れが発生していたであろう。
その事を考えれば、彼が部長であったのは僥倖だったし
また、彼が理胡を部長に選んだのも、大層良いことだ。
半兵衛は、気にいらぬかもしれぬが、我らには調整役が必要よ。
理胡との関係が固定され、拳の下げ所を見失いかけている半兵衛と違い
秀吉は多少、理胡に好意的だ。
理胡を見ていれば、彼女が吹奏楽を愛していることが良く分かる。
理胡は部活に対して、吹奏楽に対して真摯な人間だった。
良く練習をし、手を抜かず、部長に任命されてからは、自らの役割をよくよく理解し
潤滑剤としての役をきちんと果たそうとしている。
それを思えば、自分が部長で無いからと言って我慢ならぬ。とは考えられない。
ついでに言えば、去年と状況的には何ら変わりないわけであるし。
理胡は、秀吉と半兵衛が立てるスケジュールを全面的に信頼しているようだった。
だから、練習内容、スケジュールに目を一通り通すと、すぐさまサインをして部長として認可を下す。
これは、去年前部長に対して、秀吉と半兵衛が行っていたのと全く変わらぬ流れで
また一年、去年と同じことを繰り返すと思えば良い。
全面的に、やりたいことが通るのならば、部長でなくても良い。
いや、むしろ潤滑剤がある分、より良いのかもしれぬ。
やはり、肯定的に理胡が部長であることを捉え、そして秀吉は、であるならば今年こそ行かねばならぬと強く拳を握る。
来年は、潤滑剤が無い。
己と半兵衛、そして来年度入ってくる予定の人間を考えても
潤滑剤の役を果たせるような者はおらず、ならば、秀吉は来年のことを考え
今年は実績を更に作り、来年、部員たちが反発してもぐうの音も出ないようにしておく必要がある。
やらねばならぬ。
胸中でぽつんと浮き上がる想い。
二年前から常に胸にある想いを振り返り、それからふと秀吉は、そういえば理胡に対して好意的なのは
似ているからやもしれぬな、と部長に就任した時『ケツ追いかけていくことじゃなく』とこちらに言い放った
理胡の行動を振り返り、やはり、似ていると感じた。
あぁ、似ている。
だから、どうしても好意的に捉えるし、なんとなく言うことに素直に従うのか。
年上なのも拍車を掛けているのだろう。
もしかすると、半兵衛の彼女への反発も、そこを無意識に感じてのことかもしれない。
そうだ、彼女は似ている。
秀吉がどうしても全国大会に行きたい理由の、その人に。
約束をした人、もう逝ってしまった、秀吉の姉に、似ている。
ねぇ、秀吉。私、普門館にいけるのよ。羨ましい?
……有りがちな、話だ。
豊臣秀吉という男には、ねねという姉がいた。
二つ年上の姉だった。
中学校で、秀吉と同じ吹く奏楽を部活として選んでいた彼女は
三年前、吹奏楽の強豪と呼ばれる高校に進学を決め
そしてそこで死に物狂いで努力した結果、コンクールメンバーに選ばれ
末席とはいえ、一年生ながらに、普門館への切符を手に入れたのだ。
所属している部が、全国大会への切符を手に入れたのではない。
そうでなく、舞台の上に立てない、観客と似たような立場で切符を手に入れたのでなく
彼女は一年生という身でありながら、舞台に立つ権利を与えられ
演奏できるチャンスをつかんだ。
その時の彼女の喜びようといったら。
秀吉、良いでしょ。羨ましいでしょ。お姉ちゃんのことを羨ましいって言ってくれてもいいのよ?
え、自分も行くから良い?…相変わらず可愛くないなぁ。
こちらに向かって自慢をしながら、嬉しげに、笑う姉の顔を秀吉は今でも鮮明に思い出すことが出来る。
はしゃぎ、子供のように辺りを飛び跳ねる姉は、酷く幸せそうで顔はだらしなくとろけていた。
事実、彼女は幸せだったのだろう。嬉しかったのだろう。
のに。
なのに。
有りがちな、話だ。
実に陳腐で下らない話だが、秀吉が今でも笑えない話をしよう。
ねねという、秀吉の姉は、そうやって、嬉しげに全国大会が行われる場所、普門館にいけることを
秀吉に自慢したその三日後、帰らぬ人となった。
交通事故だった。
居眠り運転をしていたトラックが突っ込んできたという話を、両親から聞かされたが
秀吉は姉が死んだ時のあらましについて、余り良く覚えていないし、覚えていたくもない。
姉が、どのような理由だろうが二度と帰ってはこず
彼女が二度と普門館に立つことが出来なくなったことだけが、理解できていれば…十分だ。
だから、秀吉は誓ったのだ。
彼女の代わりに、彼女が立てなかった普門館の舞台に立つと。
ついでに、立つだけのみならず、優勝もして見せると、姉の墓前に約束をした。
そうして、隣家に昔から住む幼馴染の半兵衛も、秀吉にその約束を果たさせようと共にBSR高校を選び
吹奏楽部に入部し、どうにもならなかったような状況から建て直し、押し上げ、そして現在に到っている。
下らぬ。感傷に振りまわされ過ぎだ。
らしくもないし、半兵衛を付き合わせるのもどうかという話だ、我よ。
大体が大体、BSR高校を選んだ理由だとて、理胡に語った理由も嘘ではないが
強豪を選び優勝したのでは、名に乗っただけ。
約束を果たしたことにはならぬと思ったからなどと、口が裂けても言えぬ。
ふと思い出した始まりに対して、いつになく自虐的な気分が秀吉を襲った。
人が聞けば、美しい美談になるのかもしれない。
姉の果たせなかった夢を果たそうとする弟は、他者から見れば良いように映るだろう。
だが、秀吉には自らの行いは、ただの我儘としかとらえられない。
死者に何かをしてやっても、それは自己満足にしか過ぎないというのに。
だのに、半兵衛まで付き合わせて、その自己満足を秀吉は押し通そうとしている
それを思うと自然と口が開き
「半兵衛、すまぬな」
色々な思いを込め、秀吉は目の前に居る幼馴染へと謝罪の言葉を言うた。
言わねば気が済まなかったのだ。
色々と、己は半兵衛に甘え過ぎている。
ねねの墓前で、彼女と約束をした直後。
一緒の高校に進学する予定だった半兵衛へと約束を話し、進路を変えると秀吉は彼に言った。
本当は、吹奏楽の強豪高校に行く予定だった所を、偏差値は良くても吹奏楽のすの字もない高校に変えると。
秀吉も、半兵衛も、中学校の頃から吹奏楽部に所属し、一緒に強豪で充実した部活生活を送ろうと約束をしていた。
それを破ることを思えば、胸の痛みがあったが、彼に黙って進路を変えるわけにはいかないと
秀吉は半兵衛へと頭を下げたのだ。
けれども、半兵衛はその秀吉に対して、謝罪はいらないときっぱりと言い、それなら僕も誘うべきだと、続け。
そうして『いくらなんでもその言葉には頷けぬ』『いや誘うべき』との問答、と幾らかの攻防を経て
秀吉は半兵衛の申し出に甘えたのだけれども。
だけれど、胸の内の後悔は残るものだ。
相手を付き合わせているという気持ちは消せず、秀吉の胸にはいつだって、半兵衛に対しての罪悪感がある。
だからふとした瞬間に謝罪が飛び出すのだが、それに対し、半兵衛は一瞬驚いた表情をし
けれど、すぐにそれを打ち消し微苦笑を浮かべる。
「謝らないでくれ、秀吉。僕は楽しいんだ。いや、楽しいと言っては君に失礼かな。
気に障ったら、すまない。だけれどね、秀吉。僕は君の見せる景色を、いつだって見ていたいんだよ。
好きでやっているし、好きで君についている。気にしないでくれ」
何を今更、というような表情だった。
その表情と、言葉、声音。
全てから、半兵衛が自分へと向ける深い信頼の気持ちを読み取り、秀吉はふっと笑みを浮かべ
あぁすまぬ。ありがたくその気持ち受け取ろう。と、もう一度だけ彼へと謝罪と礼の言葉を述べた。