さて。
前部長からもアナウンスがあった通り、豊臣秀吉・竹中半兵衛と一部の部員との間には
厚くて深い溝がある。
その原因は、強引過ぎてやり方が気に食わないという真っ当なものから
年下に指図されるのが嫌だという、子供っぽくて我儘なものまで様々だが
軋轢があることには変わりない。
そして、理胡が期待される役割は、その間を滑らかにする潤滑材である。
「…だから、ね。理胡なら分かってくれると思うけど、さ。
あんまりお小遣いないし、お昼は自分で作んないとだと
あんまり朝早くに練習を設定されると本当きっついの。
豊臣君は副部長で、理胡、部長でしょ?
朝の練習時間、なんとか遅くならないかなぁ…」
今日もまた、理胡の所に秀吉、半兵衛の練習がきつすぎるという部員が訪れる…。
いや、駆け込み寺のような言い方をしたが、実のところ相談者は理胡の所に来るのではなく
理胡を呼び出す方が多い。
今回もそうで、彼女は音楽室に呼び出され、同じ二年生でありトランペットリーダーの市川の
下らなくも切実な話を、理胡はうんうんと頷きながら聞いてやる。
途中で、準備室に大柄な人影が見えた気がしたが……下手な真似はすまいと
そちらは無視して市川に向かって、彼女はさも大変だ同情する、という表情を作った。
「うーん、だねぇ。そんな感じだったらあんまり朝早いとキツイのは、分かるよ。
大変だね、市川も」
「でしょ?」
「うん。それにしても、凄いね、市川。お昼も自分で作ってるんだ」
同意されたことで気を良くした市川は、単純で扱いやすい。
思いながらにっこし笑って、理胡は更に彼女が昼を自分で作っていることを褒めた。
おだてて気分を良くして、その隙をついて良いようにしちゃおう作戦を決行するためである。
タイトルままの、しかも単純な作戦だが、市川には非常に有効なようで
彼女は理胡のあきらかなおだてに、かぁっと顔を赤く染め、わたわたと両手を顔の前で振る。
「いや、そんな大したことないけどね、レトルトとかだよ、殆ど!」
「いやいや、謙遜良くない。でもさ」
そして、存分に彼女が気分を良くした所で、転換。
「………んでもさ、豊臣たちのやってることも分かんなくはないよね。
時間があるなら練習して無いと、全国大会とか目指せないのは確かだし。
だからお弁当を夜のうちに作っとくとか、夜ごはんを多めに作ってもらっといて
それ詰めるとか、そんな感じにするのって、駄目?」
小首を傾げて問いかけてみる。
だが、分かんなくはないよね。というものの、理胡的には練習量を減らすつもりなど毛頭ない。
練習という努力を積み重ねるからこそ、結果が生まれてくるというのに。
甘えるなという話だ。
だけれど、それはおくびにも出さずただ優しげな声で気分を良くさせた市川相手に
妥当な理由を言って、妥協案を示す。
すると、彼女は理胡の狙い通りに腕を組んで、天井を見上げて迷いを表情に出し始めた。
「あー……………んー…。確かに。
朝走るのって、長く続けてると肺活量アップしてるの分かるし…。
そっかー…一年で県大準優勝いけるんだから………」
「頑張れば、全国夢じゃないって思うんだよね。
一年前思い出したらさぁ、合奏するのも一苦労だったじゃん?
それが県大会準優勝だよ?ミラクルじゃない?」
「………………まぁ、うん。確かに…」
チャンスは逃がさない。
理胡がこの場を逃すべからずとたたみかけると、市川は全国大会という餌に釣られて
やがてこくんっと頷いた。
「………とりあえず、お弁当朝作るの止めてみるわ。
そんでもまだきつかったら、また話聞いてくれる?」
「もちろん!ごめんね、あんまり役に立てなくて」
「ううん。聞いてくれて助かる。……まさか、本人たちには言えないし」
「あはは。言ってみても案外大丈夫だと思うけどねー」
「まさか!」
笑いながら、市川は手を振って音楽室から去って行った。
その姿を見送りながら、理胡は腕を組んで彼女のことを考える。
練習がきついと泣きついてきた彼女。
だけれども、全国大会に行きたくないわけでは、無いと。
やっぱなぁ。欲、出るよなぁ…。
合奏も満足にできないような所から、県大会準優勝まで一気に駆けあがったのだ。
そこから更に先を示されれば、大抵の人間は、欲が出る。
理胡とてそうだ。
全国が夢じゃなくなってきて、興奮を覚えながら、日々練習に励んでいる。
…問題にするべきは、その欲でも覆い隠せないぐらいに
練習がきつい上、それを指示している人間たちからのフォローがないことだろう。
そう考えるからこそ、理胡は音楽室の向こうの準備室に見えた人影相手に
話を振るのだ。
「…ですってよー。秀吉君」
と。
そうして人影の名を呼べば、準備室の戸ががらりと開いて
豊臣秀吉がその姿を現した。
「我が居ることを知っていたのに、事を進めていたのか」
言う彼の表情はどこか憮然としていて、不満げなその様子に
後輩の年下らしさを感じた理胡は、気を良くして口の端を吊り上げつつ、答える。
「いや、ちらっとでかい図体が見えたから。
お昼休みにまで練習ですかー」
「我がお前たちを引っ張るのだ。それならば、我が誰よりも一番上手くあるべきだ」
きっぱりと断じる秀吉の言葉は実に男前だ。
素晴らしいと思う。
「うん、実に殊勝な心がけだね………。
あんたがパーカッションじゃなかったらの話だけど!
上手下手が分かりにくい、分かりにくいよ!
今回の楽曲トライアングルをチーン!だし!!」
秀吉の手にあるのがトライアングルでなければの話だが!
パーカッション、即ちシンバル・太鼓等々の一番隅で地味に楽器を鳴らす役割の彼が
今回奏でるのはトライアングルである。
このでかい図体でトライアングルをチーンと鳴らす様は実に愉快だが
そんなもの、素人も一般部員も上手い下手が分かるわけがない。
ただ、秀吉は、その理胡の言葉が気に入らなかった様子で
眉間にしわを寄せ唸りを上げる。
「ぬ。パーカッションを馬鹿にするか、貴様」
「してないけど、上手い上手くないが分かりにくいって言ってるの!
トライアングル鳴らすのに、良いタイミングはあろうけど
それが普通の人間に分かるか否かっつー話ですー」
「それが分からぬ程度の者の意見を聞く気はない」
「うはぁ。…そういう態度が、今の市川の話の遠因になってるってあんた気がついてる?」
あんまりにきっぱりとした秀吉の態度に、言っても聞きはしないだろうなぁと悟りつつも
理胡は一応彼に忠告してみるが
「それがどうした」
…あんまりに、あんまりな態度が過ぎる。
前部長に部長職を頼まれた時には、どうしてなのか。
こいつ、豊臣秀吉と竹中半兵衛で良いではないかと思ったが
これは、駄目だ。
前部長の慧眼を感じつつ、理胡は目の前の彼に自分の呆れが分かるよう
あからさまなため気をついてやった。
「…………なるほどね。あんたを前部長が部長に選ばん訳だわ。
私は、あんたと竹中が部を立て直してくれたこと、すんごいありがたく思ってるけど
いまのそれ、激しくイラっときたからね」
「それがどうした」
「どうもしないよ。ただ、気をつけた方が良いんじゃない?って話さね」
肩をすくめて答える。
別に放っておいて自滅しようが何しようが、これだけ言う人間なのだから
理胡の胸が良心の呵責を覚えることはないだろうけれども。
でも、理胡は、弱小部を強豪レベルへと引き上げてくれた彼らに、一応恩義を感じている。
理胡は、吹奏楽が好きだ。
理胡はフルートを担当しているが、フルートから綺麗な音が引き出せるのが嬉しい。
皆で合奏する時に、『合わさっている』と思える演奏ができると、心が震える。
そして、それを感じさせてくれたのは、演奏を上手くさせてくれているのは
スケジュールと練習メニューを組んでくれる豊臣秀吉と、竹中半兵衛だから。
それだからこそ、精いっぱいの助言をしてやると
秀吉は肩をすくめた理胡を注視しながら、表情を冷やかなものから
力の抜けたものへと変じさせて、一つ、頷く。
「…忠告は覚えておこう」
「んだんだ…そうして素直にしてりゃあ、変なのも少しは減るだろうにねぇ」
「そのような気遣いは我には必要ない」
「あそ。もうちょっと可愛くしなさいよ」
理胡は、可愛いような可愛くないような後輩を小突いた。
大いに呆れる後輩であるが、後輩であるが故に、この愚かしさも許せる…ような気が…しなくもない。
うん。
多分。
思いながらも、理胡は彼を小突いた瞬間に頭の中に浮かんできた疑問に
無言で眉をしかめた。
考えてみれば、始まりからしておかしい気がする。
そして、それに気がついてしまえば、理胡はその疑問を胸に秘めておけるような性格で無い。
であるから、彼女はすぱんっと、思いついたままに疑問を口に出す。
「所でさぁ、あんた、なんでうちの部をわざわざ立て直したわけ?
自分で言うのもなんだけど、あんたが入部した当初って、どうしようもなかったでしょ、うちの部。
そこをなんでわざわざ叩きなおしたかなって、今思って凄い気になったんだけど」
「確かに、どうしようもなかった。顧問は楽譜も読めず、部員にはやる気もなし。
その貴様らを我と半兵衛が叩きなおしたのは、我らに全国大会で優勝する目的があったからだ」
「あーえー?でもさ、それだったら、強豪高校に行けば良かったんじゃない?」
それに対して、秀吉は可愛げもなくすらすらと答えたけれども
その答えは答えで、疑問を呼んだ。
だって、全国大会で普門館のステージ上に立ちたいのならば
今理胡が言ったように強豪高校に行けば良かったんでないの?
少なくとも、弱小部から始めて、一路普門館へ!よりかは、よほど現実味がある。
当たり前の疑問に、秀吉は準備室から持ち出したらしいトライアングルを
爪ではじいた。
チィンっという甲高い音が音楽室に響いて、その音が収まった後
秀吉がゆっくりと、理胡の目を見た。
「我は吹奏楽のみをやりたいわけではない。偏差値やもろもろを考慮すれば
ここ以外は無かっただけの話だ」
そして、彼が答えた事に、理胡は今度こそ納得する。
あぁ、偏差値含めれば確かにね。
BSR高校は、この当りの学校では一番頭が良い。
それを考慮して、部活と勉強を両立したいんなら
弱小を立て直す気にもなる…か?
…まぁ、なったんだろう。この目の前の男は。
そこまでしなくても、と理胡辺りは思うが、豊臣秀吉という男は手加減がいかにも効かなさそうであるし
大体、本人がそういうのなら、そうなんだろうよ。
段々面倒になってきて、理胡は首を小刻みにうんうんと振り、それを示した。
「なるほど、納得納得。
偏差値考慮してここに入って、でも全国大会優勝の夢があったから
こうして吹奏楽部を物語の如き展開で立て直し、優勝に向かって邁進しているわけだ。
ふぅん……全国大会優勝って、あんたにとってそんなに魅力的?」
「約束をしただけだ。優勝すると」
「へー。誰にとは聞かないけどさぁ。あんたが約束ねぇ。
…まぁ、なんにせよもうちょっと手加減してあげられる所は緩めてあげてよ。
たまにで良いから。鬼の目にも涙っつーか、そういう風にすれば不満も和らぐでしょ」
「……………」
とりあえず、なんとなく結びつけられそうだったのでそのようにして
かねてから注意しようと思っていた所を、やはりスパンと言い切れば
秀吉は物凄い顔をしてこちらを見た。
彼の考えを読み取るとすれば、そのような甘いことを言っていて
全国大会が目指せるものか。
貴様も、我らの与える練習量に不満があるだけだろう。
ついてこれないのならば、辞めるが良い。
と、言ったところだろうか。
しかし、理胡が言いたいのはそうではない。
そうではないから、言葉を尽くす。
「…だから、すんごいありがたく思ってるから、上手くいって欲しいんだって。
あんたらが、全国大会に吹奏楽部を行かせたいのも、
そのために組む練習メニューに効果があるのも、去年一年で十分わかってる。
だから、こっから先重要になってくるのは、皆が、あんたらの言うことを素直に聞いて
力いっぱい禍根もなく練習できるようにすることよ。
つまり、あんたと竹中には、人の和を考える力が足りてない。
飴と鞭は人間必要だけど、あんたらは、鞭ばっかりで飴が無いのよ。
…分かる?市川の話聞いたでしょ」
理胡個人の意見としては、豊臣、竹中にはこれからも頑張って欲しい。
ただ、集団には和というものがあり、彼らにはそこを考える部分が欠落気味だ。
そして吹奏楽は個人でやるものではない。
だからこそ和が必要になってくる。
それを考えたとき、豊臣竹中には、トップとして必要な資質が、著しく欠けていた。
皆を引っ張るのもトップの資質であるけれども
不満がある時にそこを細かに読みとってフォローを入れ、時には手綱を緩めるのもトップの資質の内。
だけれども、その理胡の言葉に秀吉は、首を振る。
「緩めるのは断る。そのような甘ったるい考えで優勝など出来るものか。
そうであるから、我と半兵衛が入部したとき、この吹奏楽部はたるみきっておったのだ」
………そこを言われてしまうと、もう、理胡には何も言えない。
確かに、彼が入部したときこの部はたるみきっていた。
そこに浸かりきって、現状を変えようともしていなかった理胡には
何も言う権利はないのかもしれないけれども。
でも、言ってることは、間違ってないと思うんだけどな…。
思って、唇を噛みしめかけた理胡だが
「だが、覚えてはおこう」
その次に続いた秀吉の言葉に、口を開けて、パッと彼を見上げる。
すると、豊臣秀吉は凪いだ表情をして、こちらを見下ろしていた。
………だから、可愛いんだか、可愛くないんだか…。
理胡はどうしたものかと後輩を見上げたまま、少し首を傾げて。
そうして「豊臣はたまに可愛いよねぇ」と苦笑を浮かべた。
その言葉に秀吉は言葉を失ったように硬直したが、そのタイミングでチャイムが鳴ったので
彼の硬直は、理胡に気がつかれることは無かった。