さて、翌日。
市川は本当にボイコットしていた人間すべてに連絡をとったらしく
吹奏楽部の部員全員が学校に揃うことになった。
どうしようか。どう接しようか。
昨日来ていた者と、来ていなかった者。
腹の探り合いと気遣いと緊張で、教室内の空気は最悪までに悪かったが
チャイムが鳴り、九時を示した時点で、それは払拭されることとなった。
「すまなかった」
あの、あの!豊臣秀吉が部員全員に向かい、頭を下げたからである。
もう一度言うが、あの、豊臣秀吉が、である。
それを目の前で見た部員たちの心の騒乱は激しいものがあった。
ついでに言えば、ボイコットをした人間たちの衝撃も凄かった。
ここまで…!
下手をすれば、自分たちのやり方が正しいと思いかねない秀吉の行動だが
きちんと策は練ってある。…うん、半兵衛が。
昨日から微妙に態度を軟化させた半兵衛から指示された通り
理胡は自席へ戻る秀吉と入れ替わりに、音楽室の黒板の前、一段高くなった壇上に立ち
教卓机をがんっと蹴飛ばした。
「…馬鹿じゃないの?」
そして、低い低い恫喝の声。
普段はキツイ性格ながらも、なだめ役に徹している理胡のその声音に
部員たちの顔色が、驚きと喜色の入り混じった桃から、一気に青へと転落した。
それに対して、理胡はおー…半兵衛の言った通りだ。あいつやっぱ頭いいんだな、馬鹿だけどと呑気に思考しつつ
表情にはおくびにも出さず、低い声と怒りの形相で続ける。
「あのさぁ、豊臣達に不満を抱くのは、ある程度しゃーないよ。
キツイ練習量だと思うし、スケジュールだと思う。
だけど、ボイコットした馬鹿ども。あんたら、豊臣達にキツイから少し減らしてくれって頼んだ?
頼んでないよね。ただ陰できっついよなぁって言ってただけでしょ。
なんで、言わないの。
なんで、それでボイコットしたの。
藤井の件だってそうだ。なんで、本人が合宿に出席しているにも関わらず
関係無いあんたらが怒って休むの。おかしいでしょうが」
教室内は、しんっと静まり返っている。
誰もかれも、言葉を無くしたように、ひそひそ話の一つすら聞こえない。
誰もかれも、黙って神妙に理胡の言葉を聞いていた。
その表情は一様に硬く、ボイコットをした人間にいたっては
はっと何かに気がついたように目を開いて、身動き一つ取れないように
じっと座ってぎゅっと拳を握っている。
分かるなら、まだ救いはあるけど、それは行動する前に気がついて欲しかった。
残念に思いながら、理胡は、続ける。
「ねぇ、豊臣達がさ、キツイスケジュール立てて
キツイ物言いしてるのはさ、分かるよ。フォローないしね。
うん、フォローないのは悪いと思う。だから注意したし、豊臣もわざわざ皆の前で謝ったんだよ。
だけど、ボイコットした連中。
それはあんたたちのボイコットが、正しいからじゃないからね。
あんたたちのボイコットは、甘えだよ」
きっぱりと、ボイコットした人間一人一人を見据えて、理胡は言いきった。
まずは秀吉に謝らせて、その後引き締めるのは、君だ。
そう、半兵衛は理胡に指示した。その後、原稿書いてあげようか?とも言われたけれども
理胡はそれを、いらねと一蹴した。
自分の言葉で言わないと、こういうのは意味がない。
だから、理胡は自分の言葉で、自分の想いを語る。
「甘えだよ、本当に。練習せずに上手くなれるわけないじゃん。
大体コンクールって夏の終わりにあるんだよ。
そこに休みがあるんだから、練習少しでもしておこうって思うの当然でしょうが。
豊臣たちは何にも間違ったこと言って無いよ。
それを関係無い所をとっかかりにして、甘えを発散させて。
さぞかし楽しかったでしょうね。残ってるこっちは全く楽しく無かったけど。
吹奏楽、嫌い?好きじゃないの?好きだから、やってるんでしょ。
上手くなれると楽しいよね。
皆で心を合わせた合奏ができると、わっ凄い!って思わない?思わないのかな。
だから練習したくないし、人と話をせずにボイコットなんて手段で無理やり言うこと聞かそうとしてんの?
音に心は出るよ。
そんなことしたら、心が合わさった合奏なんてできるわけ無いのに。
…ねぇ、凄いって思わないの?楽しく、ないの?」
問いかけると、幾名もが首を振った。
違う、違う。楽しいよ。凄いと思うよと、態度で示して
そのうちのボイコットした人間たちは、俯いて自分のやったことを恥じいっている。
………良いかな。
気まずさも、喜色も吹き飛んで、引き締まった空気に変じた音楽室の中を探って
理胡は半兵衛と、目を合わせる。
それに彼が目で頷いたのに、理胡はふっと息を吐いて
「じゃ、皆分かっているようだから、部長からのお叱りはここまで。
皆、忘れてるかもしれないけど、私、部長だから。覚えておいてね。
きょういっちゃんよりかは影薄くないつもりだけど、私が、部長だから。
スケジュール組むのもも何かの連絡も、豊臣が主にやってるけど
豊臣が部長じゃないのよ。全国大会に行くから、十月ぐらいまでは私が部長なのよ」
その理胡の冗談に、どっと笑いが起きた。
自分たちに釘が刺されたことは、さすがに気がついたのだろう。
豊臣派の人間には、苦笑も交じっていたけれど。
それでも、吹奏楽部の空気は完全にリセットされて、上手くいきそうな感じだ。
「じゃあ、これから予定通り腹筋を行った後パート練に入ります。
一日遅れた分取り戻すよ!」
「はい!!」
理胡の指示に、気合の入った返事が返る。
それに理胡は目を細めて、あぁ、良かったなぁと思うのだった。
そうして、その後はつつがなく合宿も終わり。
最終日に、部員たち全員を帰した後、理胡と秀吉は学校側への提出資料を書いていた。
合宿の報告書を提出しなければならないのだが、影の薄いきょういっちゃんは
うっかりこういうものを良く忘れるので、彼には任せておけないのだ。
故に、本来は顧問がやる提出資料作成も、吹奏楽部では部長副部長の役目である。
「……豊臣ー、もうちょっとで終わる?私もう終わるけど」
「我ももう終わる」
「ん、そかそか」
相変わらず、敬語も何も無い秀吉だが、微妙に態度がさらに軟化している。
声音からそれを知りながら、何故プールサイドで殴り飛ばして軟化するのだろう。
マゾなの?と密かに理胡が疑問なのは内緒だ。
ついでに言えば、半兵衛と、ちょっとだけ三成も態度が軟化していて
ぶっちゃけ怖い。
なんで?マゾなの?
理胡の吹奏楽愛等々に心を打たれた結果だと考えない辺りが
彼女が彼女の由縁である。
そして、まあ軟化しているならマゾでも良いかぁ。
と思うのも、彼女であるから、仕方ない。
大体デレが発動して嬉しく無いわけでもないしねぇと
自分の、書き終わった報告書をまとめていると
秀吉も書き終えたらしく、紙を揃えて渡してくる。
それを受け取って再度、トントンと紙を揃えていると
「………プールサイドでの、我の発言をお前は聞いてこぬな」
静かな声がした。
ぽつりと落とされたその声に
『ねねは既に死んでいる。死んでいる者が、怒るわけがない』
あの時、理胡を呆然とさせた言葉を思い出すけれども。
「んー………あんまり、傷を抉るのは良く無いなぁと思うので」
秀吉の胸を見て、理胡は首を振った。
痛んだ顔をしたのだから、まだ風化してるわけでもないんでしょう。
だから、聞かないよ。
抉りたいわけじゃあないんだよ。
過去に何があったのか、知りたくないわけでもないけれど。
ねねってことは、女の子だよねぇ。
「…そうか」
考えながら、それでも口をつぐんで首を横に振っていると
秀吉が、やはり静かに頷いた。
その彼の声が異様に穏やかなのに、何故か不安感を抱いて
理胡は思わず、反射的に問いかける。
「………………竹中と石田、待たせてる?」
「いや、いつ終わるのかが分からなかった故、帰らせたが」
「…ん。アイスでも奢ってあげようか。頑張ったから。
可愛い後輩に、先輩が奢ってあげるよ」
何も考えずに、なんとなく誘いを掛けると、秀吉は戸惑った顔をした。
まぁ当然である。
部長副部長といえども、理胡と秀吉はそんな仲では無く
ただ秀吉と半兵衛と、途中から三成が作った道を歩いて、それから続く者たちに対して
フォローを入れていた、それだけで、関わりもそこまで無かったのだから。
「いや」
それだから、秀吉は戸惑った顔をして。
おそらく続くのは断りの言葉だろうと思っていたのだけれども。
「我が奢ろう」
意外な言葉が後に来て、理胡は思わずきょとんとしてしまった。
「…え、豊臣が?」
「不満か?」
「いやぁ、年下に奢らせるのは年上の沽券に関わるっていうか」
「女に奢らせるのは、男の沽券に関わらぬと思っているのか」
「んー………まぁ、じゃあ」
報告書を揃え終わった所で、理胡は頷く。
難しいお年頃だものね。
一つ年下なだけだが、年下は年下だ。
お姉さんぶった思考で思いながら、理胡が報告書を提出するために立ち上がると
秀吉も立ち上がった。
そのついでに理胡の鞄と自分の鞄を持って
さっさと歩きだした秀吉に、理胡はあっと声を上げたが
秀吉がお構いなしに歩いていくので、慌てて彼の後に続く。
小走り気味に歩いて、彼に追いついた所で鞄を奪おうとしたが、避けられた。
どうも、持ってくれるつもりらしい。
わぁお、紳士。
茶化して思うが、茶化さないとやってられない。
こんなことされたことが無いから、どうしていいのかが、分からない。
戸惑いながら、理胡は感謝を告げることもできず、仕方なく先ほどのアイスの話題を続ける。
「あのね、アイスはパピコで良いよ」
「意外だな、奢るとなればダッツぐらいねだられるかと思ったが」
「いらないよ。人のお金で高いもの買うのは趣味じゃないの」
「殊勝で良いことだ」
言いながら、秀吉が理胡を見下ろして笑った。
その表情に、胸がドキリとなった気がして、理胡は慌ててぶるぶると首を振る。
え、いやだ。こんなゴリラみたいな男。
夕暮れのせいだ。
思いながら、理胡は微妙に常と鼓動を変えた心臓にイライラとした気持ちを覚えた。