私の隣の長曾我部君は、ちょっと不良らしい。
手下がいっぱいいて、兄貴と呼ばれていて
喧嘩も結構している、らしい。
らしいというのは、全て又聞きの情報であって
本人からそういうことを聞いたわけでは無いからだ。
ともかく、私はその不良の長曾我部君に
ハンカチを渡そうかどうしようか迷っている。
迷っているわけは、彼が不良だからだ。
なにも、ハンカチを貸したからといって体育館裏に
連れて行かれるわけではないが
ちょっと睨まれてしまうかもしれないと思う。
なぜならば、今は音楽の時間で、
おそらく、美術と比較して眠れるからという理由で
この音楽を選択したであろう彼は、彼は。
あろうことか、先生が暇だからという理由で流している
フランダースの犬で号泣の真っ最中だからだ。
…………。確かに、この話はかなしい。
非常にかなしい。
しかし突っ伏した肩が震えて、ずびずびという鼻水の音が鳴るくらい
泣くのは、ちょっと感受性豊か過ぎやしないだろうか。
涙もろい人なのかしら。
不良とかそういう人のほうが、涙もろいって聞いたことあるなぁと
思いながら、私は長曾我部君の突っ伏した後ろ頭を見る。
時々動いている彼の白髪は、暗闇の中でも良く目立つ。
本当は、見ないふりをしても良いのだけれども
実は私、この間彼に落とした定期を拾ってもらったのだ。
ようするに、借りがある。
あぁ、いやいや彼的には全く覚えていないだろうし
私が一方的に借りに思っているだけなのだが、借りは借りだ。
私は手に持ったハンカチ(未使用)と、長曾我部君の後ろ頭を
しばらく見比べていたが、まぁ、彼も情けは人のためならず。
巡り巡って自分の下に行った親切というのは返ってくるというのを
身をもって知るというのも良いだろう。
…わぁ、情けは人のためならずが、まるで悪いことのような言い方だ。
結局私は、ハンカチを長曾我部君の伏せた手の隙間に
ぐいぐいと押し込むことにした。
肩をちょんちょんとつつくのは、ちょっと怖い。
タオル布の薄黄色のハンカチが、ぐしゃぐしゃになりながら隙間に入ってゆく。
「………?」
半分ほど入れたところで、視界に入りでもしたのか
長曾我部君が顔を上げる。
…うわぁ、ひどい顔。
本当は気がついたら、すぐに目を逸らすつもりだったのだけれども
長曾我部君の顔が、あんまりにもあれだったので
私は目を逸らすのも忘れて、彼の顔をじっと見つめてしまった。
だって、格好良いとキャーキャー言われている彼の顔が
涙と鼻水でぐしゃぐしゃ。
ぶはっーっと噴出せたらどんなにすっきりするだろうかと
ぶるぶるとしていた私は、だから遅れたのだ。
長曾我部君がそんな私に気がついたことに、気がつくのが。
「おい」
「あ」
声をかけられて、内心しまったなーと思ったが、
怯えるような小さい肝っ玉は持ち合わせていない。
睨まれたらいやだなーと思うし、怖いなーとも思うのだけれども。
それはともかくとして、声をかけられてしまったのだから
対応するしか無い私は彼に
「なぁに」と返す。
すると彼は「これ、お前のか?」と涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で
ハンカチを持ち上げて問うた。
私はやっぱり噴出してしまいそうだったのだけれど、それを抑えてこっくりと頷く。
そうすると、長曾我部君は不思議そうな顔をした。
どうして渡されるのか分からないという顔。
「この間、定期拾ってもらったから、お礼。
顔、拭いたほうがいいよ」
ネロがルーベンスの絵までたどり着いたスクリーンをチラッと見ると、
彼も視線をそちらにやる。
するとまた目がうるっとしてきたので、
私は慌てて彼の目の前に手を突き出した。
もうすぐ終わっちゃうんだってば。
見られたくないだろうと思って、なけなしの親切心を使っているというのに。
本当に涙もろいのだなぁと思ってみていると
長曾我部君は「すまねぇ」と言ってハンカチで目元を拭った。
しかし鼻水のほうは躊躇いがあるらしくて、手が止まっている。
そうね、私も鼻水をハンカチで拭かれるのはいやだけど
そういうのさっぱり忘れてた。
私は慌ててスカートのポッケをまさぐると、
長曾我部君に向かって取り出したティッシュを取り出す。
彼は無言でティッシュを一枚とると、鼻水を拭いてぐしゃぐしゃと丸めた。
しかし。
その後聞こえてくる
「見えるかい、パトラッシュ」
というネロの柔らかい声に、長曾我部君は死にそうな顔をして
頭を伏せてしまった。
どうしよう、この映画、声だけでも長曾我部君の涙腺に破壊をもたらすらしい。
もういっそ面白くて、このまま泣かせちまえばいいんじゃねぇのという
心の声が聞こえてきたが、ここで見捨てては……いや、それはそれで…
「悪い、もうちょっとこれ、貸してくれ」
「あ、うん」
心の中の悪魔に私が打ち負けそうになっていると、
長曾我部君がハンカチを揺らした。
そこでようやく正気に返って、私はえぇとと天井を見て考える。
どうやったら、この人泣きやむのかしら。
ちょっとの間考えて、私は……物語を台無しにしちゃえばいいんじゃないのと思った。
うん、良い考え。
台無しにすれば、泣く要素なんて一つもなくなってしまうでしょう。
そしておあつらえ向きのとっておきが、この物語にはあるのだった。
「長曾我部君」
私はいかにも優しげな声を出して、またも机と仲良しになってしまった彼に声をかける。
「……んだよ」
「長曾我部君は、この物語の終わり方って知ってる?」
「知ってるに決まってんだろ。ネロが…パトラッシュが…」
わぁ、鼻声だ、すごい。
私は彼が本当にネロとパトラッシュの死に悲しみを覚えているのを知って
いっそ感動を覚えたが、今やることはそうじゃない。
私は優しげな声を続けながら、台無しにする情報を彼に教えてゆく。
「そうね、ネロとパトラッシュは死んじゃうのよね」
「………っ」
「でも、長曾我部君は、この話、ハリウッド版があるの知ってる?」
「……ハリウッド?」
嫌な予感がしたのか、返してきた長曾我部君の声は非常に硬かった。
うん、長曾我部君。君の予感は非常に正しい。
なぜならば
「そう、ハリウッド版。アンハッピーエンドが嫌いで、
ハッピーエンド至上主義のアメリカが作ったフランダースの犬はね」
「待て、嫌な予感がする」
「いや、そんなことないよ。
ネロとパトラッシュの死を悲しむ長曾我部君には、耳寄りの情報だよ」
「嘘だ」
「ほんとほんと。ともかくハリウッド版フランダースの犬はね
ネロとパトラッシュはルーベンスの絵の前で息絶えるんだけど。
その後から生き返って、しかも行方不明だった父親が
セレブになって帰ってきて、幸せに暮らすんだよ。
イッツ、ハッピーエンド!!
ね、耳よりでしょ?」
「台無しだろそれ!!」
叫ぶと同時に顔を上げた長曾我部君が見た私の顔は、本当良い笑顔だったと思う。
いやだって、他人の夢を破壊するのってほんと楽しい。
でも悲しいと分かっていながら、それを覆されると嫌だと思うだなんて
本当人って理不尽な生き物だよね、私もそうだけど。
初めて知ったときには、開いた口が塞がらなかったフランダースの犬(ハリウッド版)が
こんなところで役に立つなんて。
人生分からないものなのだなぁとしみじみとしていると、
すっかり涙もとまったらしい長曾我部君が
「名字デフォルト、お前いいやつなのか、やなやつなのか分かんねぇな」
と呆れるように言った。
私は、彼が私の名前を知っていたのにまず驚いたが
とりあえず笑って誤魔化しておいた。
吊り下げられたでっかいスクリーンには、エンドロールが流れていて
ぱっと教室の明かりがつく。
「とりあえず、洗って返す」
とぶっきらぼうに言った長曾我部君に私は僅かに頷いて。
そうして、私たちの初めての会話はそこで終わったのだった。