「足の爪を切ってちょうだい」
小刀が目の前に差し出される。
「侍女にやってもらいなよ」
「だめよ。忙しいの、色々と。荷物をまとめないといけないのだから」
「デフォルト様は良いわけ?」
「忙しくしないでということ?わたくしの仕事は、運ばれてからが本番だもの」
「…なるほどね」
「…ねぇ、だから足の爪を切ってちょうだい、佐助」
「静かね」
「ここだけね」
部屋の外では、婚礼に出す準備に忙しいのを、佐助は知っている。
無論、目の前のデフォルトも。
いや、デフォルトの方が、よく知っているはずだ。
なにせ彼女が、婚礼に出される花嫁なのだから。
……………彼女が武田信玄より勧められた結婚話を受けるというのは
上田の者達の度肝を抜いた。
真田の妹姫といえば、どれほど良い婚姻の話でも けんもほろろに切り捨て
見向きもしないので有名だったからである。
おまけに彼女がそれを切り捨てた後に言う台詞といえば
「嫁ぐならば、最低でも兄様以上」
なのだから、揃って城内の者も、城外の者もため息をつくしかなかった。
多少…おおいに初心という欠点はあれど、真田幸村を基準にされては
婚儀の相手など、両手で足りるほどしか居るまい。
しかもこれで器量が悪ければ現実を見ろとも言えるものを
立てば芍薬坐れば牡丹、歩く姿は百合の花と言って差し支えなく
また頭も大層切れ、性格が悪いかと言えばそうでもないのだから
周囲も皆、説得に困っていたのである。
もしや、行かず後家にでもなりたいのだろうか。
冗談交じりに、ひそやかに城下町で、姫君の話を語るときに
そんな話が混じり始めた頃。
………真田の姫は、一つの婚姻話を受けた。
特別武勇に優れているわけでもなく、頭が良いわけでもなく
顔が美しいわけでもない、領地だけは大きな男との婚姻だ。
「なんでさ、受けたの?」
「なにが」
「結婚」
「あぁ…受けてみたかったからよ」
「今までのは?」
「断ってみたかったの」
本当に爪を切らせるつもりなのか、デフォルトは小刀を差し出し
あまつさえ着物の裾をたくし上げ、惜しげもなくその白い足をさらけ出す。
「………あのさ、嫁入り前の、お姫様でしょ」
「そうよ。嫁入り前の最後のお転婆よ」
見逃してちょうだいと言いながら、
姫君は佐助の久に足の裏をよせ、かつ無防備に寝転がる。
佐助は思わず口の中で俺も男なんだけどねと、
言葉をもごつかせたが、口の中に溜め込んだまま、飲み込む。
こと舌戦で、彼女に勝てた試しはなかった。
ため息を一つこぼして、仕方なくデフォルトの足を持つ。
「あー…旦那に頼まれたとはいえ、様子見にくるんじゃなかった…」
「仕方ないわ。来てしまったのだもの」
「…で、なんでいきなり爪きり」
「切りたかったのよ」
「ふぅん」
そう、気まぐれな女でも無かった気がするが。
まぁ、仲良く遊ばせて貰ってたのも昔のことだからねぇ。
昔々。
佐助が幸村につけられた、本当に小さな頃から
多少おませになるまでの間、佐助は彼女とも一緒に過ごしていた。
昔から、お兄ちゃん子だったからさ。
駆けずり回る幸村の後を、懸命に追いかける小さな頃のデフォルトを思い出して
あの頃はと、感傷に浸っているとデフォルトが不意に口を開く。
「…………あなたと二人で居るのも久しぶりね」
「そりゃあね。色々まずいでしょ。二人きりで話してたらさ」
年頃の女性に、男は不用意に近づくべきではない。
自分が忍びで、相手が主家の姫ならなおさら。
近づくべきではないと、ある時佐助の方から彼女を遠ざけ始めた日のことを思い出しながら
(あぁ、今日はやけに感傷的だ)
ふと、デフォルトの方を見ると彼女は南蛮の硝子のような目をしてこちらを見ている。
―それに、心臓がはねるのは気のせい。
何か用かといわんばかりの顔を作ってデフォルトを見ると
デフォルトはゆっくりと目を閉じて、ふと唇を緩める。
「そうね、昔は話せていたのに。不思議ね。
兄様もいつの間にかわたくしを遊びに誘ってくれなくなったし
あなたも、私と話してくれなくなった」
「当たり前のことだよ。デフォルト様も年頃のお姫様だからね」
「…そうね。お姫様ね。だから兄様がいつも羨ましかったわ」
……………兄様が?
佐助がの間違いではなく?
刃物を扱っているときに、驚かせるようなこというの止めてくれないかなぁと
佐助は呆けた頭で考える。
兄妹でも年頃にもなれば、お互い距離を置くのが普通であるのに
真田の兄妹はそうでない。
今でも仲良く肩を寄せ合い仲睦まじくしている。
それもこれも、デフォルトが大層兄を好いているからだ。
今でもまだ、雛のように兄の後を突いて回る節のあるデフォルトが
兄を、幸村を羨ましいと。
止めて欲しい。
一体何の冗談だ。
それではまるで―。
「知ってる?私いつも兄様が最低基準といっていたけど違うのよ」
何が。
知らない。
知っているが、知らないふりをさせてくれ。
聞いてはならないと思いながら、耳を塞がず佐助は爪を切っていた手を止めた。
目と目が合う。
「昔。わたくしが、お転婆をしても許された頃、
いつもいつもわたくしは兄様の後を突いていっていたわね」
「あぁ、…懐かしいね」
「…気がついていたでしょうけど、わたくし最初あなたのこと嫌いだったのよ。
だって、あなたが来るまでは、わたくしと一番、兄様は遊んでくださっていたのに
あなたが来てからあなたばかりになったのだもの」
「うん。気がついてたよ」
幸村につけられて暫くは、本当に視線が痛かったものだ。
見た目が本当に可愛らしい子供で、何をするわけでもなかったから
逆に微笑ましかったが。
懐かしさに目を細めると、デフォルトは僅かに頬を膨らませた。
「だから、気がついていたでしょうけどと、前置きしたじゃないの
でもね」
「うん?」
「でも、わたくしが無理やりあなた方についていって迷子になったとき
いつも一番最初にわたくしを見つけてくれたのはあなただったのよね」
「忍びだからね。あと、旦那もたまに見つけてたでしょ」
「本当にたまによ」
「まぁ、旦那だから」
「ふふ、そうね、えぇ兄様だから。……でも、はぐれて、心細くなって
泣き出しそうなときに、あなたはいつもいつも見つけてくれたわね。
だから、わたくしはあなたのことを嫌いじゃなくなって
目で追うようになって、それから」
「………姫」
言葉を遮る。
デフォルト様、と名は呼ばなかった。
普段ならそれも許されるだろう。
真田は、鷹揚だ。
しかし、今この時は違う。
今名を呼べば、線を超えてしまう。
佐助とデフォルト。
両者の間には明確な線があって、そこを超えることは許されない。
それに、デフォルトははっとしたような顔をして、続きを飲み込んだ。
「…分かってる。分かってる。言わないわ」
「…あぁ、そうしな」
愚かであればよかったのにと、今、多分双方ともがそう思っている。
分からないぐらい愚かであればよかったのに。
けれど、分かる程度には賢くて、どうにか出来るほどには賢くないから
二人ともが黙って、目を逸らす。
「………ねぇ、どうして爪を切るのかって言ったわね」
「………………………あぁ」
「形見が残したかったのよ」
ぽつりと、声が落とされた。
その言葉にぎょっとして佐助が目を見開けば、デフォルトが足越しにふっと笑いを浮かべたのが分かった。
「いやぁね。死ぬわけじゃないわ。
ただ、えぇ。少し身勝手がしたくなったのよ」
切られた足の爪の残骸を見ながら、デフォルトがポツリと零す。
「わたくしが嫁ぐことにしたのは、いつまでも子供じゃいられないからよ。
夢ばかり見ているわけには行かないの」
「夢?」
「えぇ、夢よ。好きな人と夫婦になって、好きな人と添い遂げるの」
「…いい夢だね」
「えぇ、叶わないけれど」
頷きを一つ。
それからデフォルトは天井の方へ視線をやって、大きなため息をついた。
「夢を見るには、わたくしは少しばかり賢し過ぎたのよね」
佐助が彼女の顔を見ようとすると、それを避けるように、顔を背ける。
そして、そのままきっぱりと、切り捨てるように
「だから嫁ぐわ。一番どうでも良い人のところに。
そして、叶わない夢は置いていくの」
随分と、良い物を置いていくものだ。
置いていってくれるだけ、ありがたいかもしれないが。
それにしても、形見。
言ってはならない恋の形見。
「…………形見、形見ね。随分と、女らしい」
「そうよ、女らしい事がしたかったの。
…本当は、物が良かったのだけれど、
あげてばれそうにないものはもう、しまわれてしまっているし、
かといって髪なんてすぐばれてしまうもの。
…手の爪も、もう切られてしまったしね」
指先を見る。
桜色の爪は綺麗に整えられていて、とても切るようなところは見当たらない。
嫁ぐからね。綺麗にしておかないと、と口を開くと、そうね、と静かにいらえが返ってくる。
「…捨ててもいいわ。私だって置いていくのだもの」
「………捨てないの、分かってるくせに」
少し、声に責める調子が混じる。
あぁ、だめだ。
それはいけない。
佐助は自分の身分を自覚しているし、それをきちんと弁えられる。
そうでないのは、いけない。
けれども。
「えぇ、そうよ。えぇ、嫌な女でしょう」
「いいや。………綺麗だよ」
自嘲するように笑って、デフォルトが顔を伏せたのに
知らずと口が開いていた。
一瞬、部屋の空気が凍る。
………………空白の後、デフォルトが、ゆるゆると手を動かして、顔を覆った。
「…嫌な人なのは、あなたね、佐助。最後の最後にそんな」
デフォルトの顔の下の畳が色を変えたのを、佐助は見た。
あぁと、ため息が漏れる。
泣かないでくれと思うが、同時に泣いてしまえとも思う。
あぁ、泣いてしまえ。
こんな最後に未練を残すようなことを言う、最低な男のことなど忘れるために
泣いて、捨ててしまえ。
想いなど残さなくていい。
ここに残した残骸を、大事にして佐助は生きていけるけれど
デフォルトはそれでは生きていけないのだから。
「ふ、ふふ。いやぁねぇ。ほんと、いやになってしまうわ」
くぐもった声が部屋に響く。
しかしそれに、俺もだよ、と返すことは、佐助には許されなかった。