にやにやとした顔で、翁が風魔を呼び出してから数日経った日の事。
二人なのに独りよがりに幸せになっている彼女と彼は、この日まで、大変に幸せだった。
彼女は、なぜ、首ばかりなのかは知れないが、憧れだった人、恋しい人である風魔小太郎が己に優しく触ってくれ。
彼は、なぜ大人しく触らせてくれるのかは知れないが、理想のうなじの主が
いくら近寄っても逃げることなくうなじを堪能させてくれ。

だけれども。


「おぬしが風魔の想い人じゃな?」
「ご城主様…!?」
いつものように皆が嫌がる階段掃除をしていた由衣の前に、声を掛けてきた翁が居た。
威厳も無く、一見すればそこいらの老人と変わりない。
だが、この城で働く者ならば誰もが、この翁こそがここの城主たる北条氏政であると、知っている。
由衣とてそれは同様で、彼女は慌てて平伏しようとしたが、階段ではそれもできず、おろおろとした。
しかも遅れて『想い人じゃな?』という言葉が脳に沁み込んできたものだから、顔も赤くなるやらなにやら。
地獄のような、夢心地のような気持ちを同時に味わう由衣が、目を潤ませる前に
そんな驚かんでものぅと、どこぞの爺のような言い草で、氏政が良い良いと鷹揚に手を振る。
その氏政の仕草に、ようやく一心地ついたような気分で由衣がぺこりと頭を下げると
氏政も由衣の小さい子供のような微笑ましげな印象を受ける動作に、思わずたくわえたひげを撫でながら微笑んだ。
ついでに、顔を上げた由衣もその氏政の表情に、にこっと笑い返す。
なんとなく、どこのおじいちゃんと孫ですか?と言いたくなるような、ほのぼのとした空気が両名の間に流れた。
思い切り、氏政の方が由衣のペースに巻き込まれている。
二人は暫しそのまま微笑み合っていたのだが、そのほのぼの感を打ち破ったのは
さすがに氏政の方だった。
「うなじを見せちゃくれんかの」
「う、なじ?ですか?」
そういえば、私、ご城主様に名乗ってもいないのだけれども。
というか、ご城主様は、どうして私を見に来たのかしら。
いえ、あの、先ほどご城主様が言われた事が、理由なんだろうけど。
『想い人』という単語に、胸の中が甘酸っぱくなるような、そんな気持ちを押しとどめ
平伏出来ない代わりにせめて名乗りをと、思っていた矢先に言われた言葉に
由衣はことんと首を傾げる。
理由が良く分からなかった。
なぜうなじなのだろう。
疑問には思いながらも、しかし城主の命である。
侍女である由衣程度が逆らう事は許されない。
首を傾げながらも彼女は後ろを向き、その白いうなじを城主へと晒す。
いくら城主で老人とは言え、男性にうなじを、言われて晒すのは抵抗があったが
命ならば、逆らうわけにもいかない。
恥ずかしさに赤く染まるうなじをさらけ出し、後ろ向きに羞恥に耐える由衣をよそに
氏政は、顎に手をやり唸り声を上げた。
「ほほぅ…」
「…………」
「……と言ってはみた物の、儂にはうなじの良し悪しはさっぱり分からん。
あの風魔が執着するぐらいじゃ、そりゃあ良いうなじなんじゃとは思うが」
「……え」
翁としては、何気ない一言だったのかもしれない。
けれども、由衣は恋する女の直感を、そんな時に発動させた。

―即ち。

即ち、答えに、いきあたって、しまったのだ。
可哀そうなことに。
そうして、こういう時にこそ何故か、頭が良くない人間も、良い人間も
かちりかちりと面白いように全ての穴を埋められるもので、由衣もまた、かちりかちりと
穴あきだらけだった所を、埋めて、絶望する。

だって、確かに、その答えならば、全てが当てはまる。

いきなり後ろに現れるようになったことも。
首を突然に舐めてきたことも、首しか触らなかったことも

「ところで、おぬし、名前はなんというんじゃ?
いやぁ、儂もずいぶんと問いただしたんじゃがの。あやついくら聞いても答えんばかりか最後には首を傾げてとぼけおってのぉ。
それほど恥ずかしがるとは思うてもおらんかったが、そうならそうで余計知りたがるのが人間の心理じゃろう。
おかげで風魔の奴に無用な任務を押し付けて無駄金を払う羽目にはなったがの」
「………由衣…と、もうします。ご城主様…」

彼が、聞かれても、城主に、答えられる名前を持たぬことも。

震える声で、名前を告げる。
幾らでも知る機会はあっただろうに、知っても知っても、知った端から忘却して、彼が、覚えてなかったのだろう、名前を。
風魔小太郎が、城主である北条氏政に由衣の名前を聞かれて首を傾げたのは、とぼけたのでも恥ずかしかったのでもない。
きっと、知らなかったからだ。
思えば、正面から見つめられたことなど殆ど無かった。
いつも後ろからだった。
違ったのは、最初の頃だけ。
ごみを拾ってもらった時と、慰めてもらっ時だけ。
だけれども、慰めてもらった時には、確かにうなじを触られたような気がする。
とするならば、本当にあれは私が泣いていたから慰めてくれたのか、あやしい。

だって、だって風魔様は。

私の。

うなじだけ。



……好きなのね。




その残酷な事実に、不幸にもいきあたった由衣は、今までの幸福感の反動のような悲しみに囚われて
ぽとんと、綺麗な涙を一滴、床に零す。
それはあの日、風魔に思う様首を舐められた夜、首から滴っていた水滴にとてもよく似ていた。