そして、なんだか謎の生命体という印象を風魔小太郎に与えることに成功した由衣は
「はした、ない…!」
絶望感いっぱいの目覚めの朝を迎えていた。
昨日の事は、覚えている。
なんだか喉が渇いて目が覚めて、水を飲んで、寝汗をかいたからその水で首を洗ったら…風魔様が。
「っ!!」
そこまで思い出した所で、由衣は口元を押さえて床に額を擦りつけた。
なんて、はしたない。
首を舐めまわされた、あの舌の感触を覚えている。
首に口づけをされ、髪の生え際を吸われ、思わず漏らした声の一つ一つ。
覚えている。
物欲しげに漏らした声も、己が吐いた熱っぽい息も、与えられた刺激に震え続けた身体も、慎みの無かった行動の、全てを。
きっと、はしたない子だって、思われたわ。
だって、あんな、わたし…。
それを与えたのが他でもない風魔小太郎だという事はすっかり失念して
由衣は昨晩の己に対して、心の中でばかばかっわたしのばかっ!と項垂れる。
好きな人からは、慎みのある、しとやかな可愛い女の子だって、思われたい。
年頃らしい、そういう可愛らしい願望も、もはや叶う事は無いだろう。
昨日の、あれを見てもそんなことを思ってくれる人、いないもの。
きゅうっと胸元で両手を組み合わせて握りしめる彼女は、十分に可愛らしい。
だけれども、彼女が可愛いと思われたいのは、風魔小太郎なのだ。
それだけで、由衣の願望の難易度は絶望的に跳ね上がるのだけれども
小太郎のあれを知らない彼女は、別の原因で絶望を続ける。
「ああいう、行動は…こう…好き、とか愛してる、とか言った上でやってこそ
可愛いって思ってもらえるものであって、それなしなら、ただのはしたない子じゃないの。
いくら、いくら」
風魔様から舐められたって言ったって。
その、一言は言えなかった。恥ずかし過ぎて。
代わりにごんっと、音をたてて床に額を激突させた由衣は、暫くの間そうしていたが
やがて顔を上げて、ゆるゆると首を横に振る。
「………だめ、こんなこと、ばっかり考えてたら。私、仕事しなくっちゃ」
由衣の朝は早い。
侍女用に用意された大部屋では、すぅすぅと寝息を立てている者たちが大勢いる。
友人の常盤も、そう。
その同僚たちが起きる前に起きて、彼女たちがさぼりがちな場所を先に掃除しておく。
これが、由衣の毎朝の日課だった。
その事を、だから城が綺麗なのか、ありがとう。と、たまに気がついてくれた『誰か』が
喜んでくれることを知っているから、由衣は、自分の事だけで日課をさぼる事はしたくない。
「ふ、風魔様のことは後回しにして、掃除、しなくっちゃ」
きゅっと両手で握りこぶしを作って気合を入れて、由衣は身支度をすべく立ち上がった。
…本当は、どうしてそういうことをしたのですか?って、思うけど。
そもそもなんで最近近づいてくれるのですか?姿を見せてくれるのですか?と、思うけど。
だけど、考えても考えても、きっと自分一人じゃ答えは出ないし
でも、聞く勇気は、ないし。
だから、いいの。
ひょっとすると、仕事をさぼって悩み続けるという選択肢もあるかもしれないけれど
仕事をしないで悩むより、仕事が終わった後から悩みたい。
そう考えて、身支度を整え外に出た由衣は、悲鳴をあげそうになった
部屋の外に、待ち構えていたように風魔小太郎が腕を組んで立っていたからだ。
居るとは、思わなかった。
由衣の予想では、昨夜の由衣にあきれ果てた小太郎は、朝も昼も訪れず
このまま接点もなくなる。そういうはずだったのに。
まさかの展開に頭を真っ白にしてぽかんと小太郎を見ている由衣だったが
暫くの後、はっと気がついて慌てて頭を下げる。
「おはようございます、風魔様」
北条の守護神を相手に、挨拶もなしにぽかんとしているなどとは、なにをやっているのだろうか。
一般的には、散々ぱら昨夜舐めまわされた相手に頭を下げて挨拶している由衣の行動こそ
お前は何をやっているんだの世界なのだが、多少頭の緩い由衣にはそれは分からない。
その代わりに一生懸命に九十度、頭を下げて、それから上げようとすると
なんだか首の後ろにひやっとしたものが当てられた気配がした。
金属とかそういうものではなく、少し骨ばった、なにか。
例えば、いつかの夜、慰めてくれた風魔の手に酷似した感触の。
思った瞬間に、それが例えで無くそうだと分かった由衣は、かっと頬に熱が集まるのが分かった。
どうして風魔は自分のうなじに手を当てているのだろう。
分からない。
昨夜の出来事と同じように、分からない。
ただ由衣に分かるのは、今、好きな人が、自分を触ってくれている。それだけだ。
その事を理解した瞬間、心臓がばくばくと音を立て、全身が真っ赤に染まる。
好きな人に触られている。
それだけで、由衣の心と身体はあっという間に落ち着かなくなるのだ。
「ふうま、さま」
名前を呼んだ事に、意味は無い。
ただ落ち着きが無くなり過ぎて、助けて欲しいと思っただけだった。
自分にそういう行為をしている男に助けを求めることほど、愚かしい事もないと思うが
由衣はそれが分からぬ程度には初心で汚れていない。
それだから、うなじだけが目当てで、昨日触らせてくれたのだから、今日も触っても良いだろうと
思うような男の餌食にまんまとなってしまう。
縋る様に伸ばされた由衣の手を、風魔の、うなじに当てていない方の手が掴んで覆う。
おまけに、そのままぐっと男の方に引き寄せられたものだから
由衣と小太郎はまるで恋人同士が抱き合っているかのような姿勢で、密着することとなった。
実に、歪な光景。
だけれどそれは外野から見ているからで、内から見ている由衣にはそんなことは分からない。
彼女はどきまぢとする胸の鼓動を抑える事に精一杯で、うなじに顔を寄せる風魔の吐息のくすぐったさに
いやいやと顔を振って抵抗する。
「風魔さま、ふうまさま、はずかしいです、おやめになって」
やめないで、と同義のような言葉に止まる男は居ない。
ましてやその相手が、うなじにしか目に行っていない小太郎ならば、もっと。
由衣のささやかな制止などものともせず、小太郎は由衣の美しいうなじへと顔を近づけて、口づけをする。
「っ」
昨夜の焼き直しのような、それよりかはもっと優しいそれに
ぴくんっと、体が震え、声にならない声が上がった。
それが面白かったのか、首から顔を離した風魔が、くっと唇を吊り上げる。
頭を下げた姿勢のまま、風魔の方を必死に窺っていた由衣にも、その表情は見えた。
「…笑ってる」
昨日と同じような、はしたない反応。
だけれども、相手は滅多に見ぬ表情をして笑っていて、侮蔑も何も、そこに込められているようには見えない。
それに安堵しながらも、由衣は甘い疼きをこめて「風魔様」と尚も首に唇を寄せる男の名を呼んだ。
…幸せだった。
中身がどうなのか、分からない由衣には、与えられるものだけが全てで
分かるものだけが全ての彼女にとっては、この光景は良い物にしか受け取れず
だから、由衣は、どうしようもないほどに、幸せだった。
…ほぅら、二人とも幸せだろう。
知らなければ、幸せなことも、あるのだ。
真実は秘しておいた方が良いこともある。
ただ、そういう時に限って、秘せぬのも、また世の理なのだけれども。