拒絶を、終ぞされなかった。
それが由衣にとって幸せなことだったのか、そうでないのかは、分からない。
だが、事実として風魔小太郎からの拒絶はなく、あまつさえ彼は晒した素の指で由衣の涙を拭い取った。
それを拒絶でなく許しと取らずしてなんとしようか。
故に、由衣の恋心はそのまま残ったままであり、風化することもなく、むしろ燃え上がった。
上がって、しまったのだ。
残念ながらに。

勘違いに、気づくことなく。






そして一方、無垢な(もしくは幸せに頭が悪い)彼女に勘違いをさせたままの、罪作りな風魔小太郎の方は物凄く調子に乗った。
何故って、彼女に拒まれなかったからである。
普通、うなじというか体に気安く触るなどという行為は、恋人でもない女にやれば拒まれるものだ。
どこか常識と言うものが吹っ飛んでいる小太郎とて、そこは理解をしている。
だから彼もちょっと思っていたのだ。うなじに触った後で(これは、気がつかれたら身を退かれてしまうのではないか)と。
しかし彼の予想に反して、名前も知らない、理想のうなじを持つ侍女は
小太郎がうなじに手をやってからしばらくの後、己の首筋に小太郎の手が添えられていることに気がついたが
ただ目を見開いた後、顔を桃色に染めて羞恥に耐えるような表情を見せた。
けれども、拒まなかった。
身を退くこともなく、嫌がることもなく、ただ、恥ずかしがるだけで彼女は拒みはしなかったのだ。
…多分・恐らく。
この辺りで一般的な男性であるならば、侍女―由衣が己に好意を持っていることに気がつくだろう。
いかにも初心そうな少女がそのような反応をする理由は、まずそれだからだ。
だが、風魔小太郎は由衣の全体に興味は無く、興味があるのはうなじだけで。
故に『由衣』に興味の無い彼は、『自分が執着するうなじを持つ女が、自分に恋心を抱いている』という解は得られない。
その代わりに彼が得た解は

『己が彼女に触っても拒まれぬのならば、見ても拒まれぬだろう』

という、小太郎にとってどこまでもどこまでも都合の良いものであった。




そうして勘違いをする幸せな女と、曲がった解を得た変態的な男が揃った時、どういう日常が送られるかは、想像に難くないだろう。

つまり、ようするに、結論として。






昇る前の朝日が空を白く滲ませている。
それを見ながら由衣は身支度を整え廊下に出た。
そして一歩二歩歩くと、彼女は首だけで後ろを振り向く。
二三日は体全体で振り向いていたのだけれども、何故だかそうすると『彼』が僅かに表情を変えるのを知ってしまったから。
恐らく、忍びだから、姿を見られるのが嫌なのだろう。
そう推測してからは、出来るだけ振り向かず、視界に『彼』を留めぬよう気を使い
被った兜がちらりと見えるくらいの位置に視線が向いた所で
「おはようございます、風魔様」
相手からの応えは無い。
もとより喋らぬ相手だ。
ただ、応えが返らぬ代りに、微かに視界の端に捉えた兜が上下する。

おはよう、なんて声が聞けなくても、幸せだわ。

遠く離れてちらりと姿を見られれば運のいい方だった前と、今を比較して
由衣は胸の内に溢れる幸福感に、頬を赤らめ、口を微笑ませた。
あの夜の邂逅以来、小太郎は由衣の元を頻繁に訪れるようになった。
任務で外に出ている時には別だが、そうでない時には必ず一日に数度は背後にいる。
特に朝一番は、その頻度が高く、おそらく北条に居る時には必ず来ているのだと、思う。
控えめで、自惚れることをしない由衣が、そう思う程度には小太郎の訪れる頻度は高かった。
ただ、それだけ高いとなるとどうして来ているのか、それが疑問になってくる所だが
風魔小太郎に恋心を抱いている由衣がそこの所を考えようとしても
何が理由でも、来てくれるなら、それだけで…。
という、大変に乙女めいた結論に落ち着いてしまって、そこから先には進まないのである。
…この由衣という侍女には多少頭が足りぬのやもしれない。
それか、お医者様でも治せない病であるから、仕方がないのか。
どちらにしろ由衣には、小太郎が度々後ろに現れては、ついてきて、そしていつの間にか消えることも
傍にいて心臓が早鐘を打つようになる事に耐えるのが精いっぱいで、ことこの件に関しての論理的な思考は難しい。
だって、どうしようもなく、幸せで。
遠目から見られれば良いと思っていた人がすぐ後ろに居て(理由も知らぬけれども)
気配を感じられて(言葉さえ、視線すら交わることすらないけれども)
傍にいるだけで、どうしようもないほど、嬉しい。
泣きたくなる。
由衣は、今まで恋をした事がなく、こんな切なくて胸の奥がきゅうっとなって
時々胸を押さえて丸まりたいような気持になるのが初めてだから、余計にかもしれないけど。
でも、だから、傍にいると思っただけで頭が働かなくなるのは、どうしようもない事で
それだから、彼女は毎日毎日接触してくる小太郎に、理由を求めることすらできないのだった。
そうして、小太郎の方は言わずもがな。
彼が調子に乗った通りに、うなじを観察していても、何も、美うなじの持ち主は言わず、嫌悪も見せず
北条の守護神風魔小太郎は、思う様、理想のうなじを堪能し、楽しみ、愛で、幸せを味わっている。
白に、時折自分が近づいた時には桃に染まることもある美しいうなじ。
それを背後から堪能してご満悦な守護神と、好きな人が傍にいることで至極幸せな侍女。
真実は秘していれば、時に幸福を呼ぶこともあるという一例だろう。


…幸福を呼ぶとは思えない?
あぁ、そう。
普通はそう。
でも、見てみると良い。